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第1章 少々特殊なキャンパスライフ

第12話 基礎系研究室 ①

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「ペンよし。メモ帳よし。カメラよーし。皆の衆、準備よし?」

 そんな荷物確認を済ませ、いつもの四人組を先導するのは朽木だった。
 午後になって気温が上がったからという理由ばかりではない。
 本日、基礎系の研究室を巡るということで彼女にはやる気が満ちているのだ。

 ふんすふんすと息を弾ませる犬の散歩のようだ。
 先導する彼女は目を輝かせていた。

「皆、急ぐの。テキパキ行動しないとたくさん見学できない」

 急かす彼女の声に、日原は腕時計で時刻を確認する。

「まだ十二時四十分だから大丈夫だって。もう学内なんだから約束の午後一時にはまだ余裕があるくらいだよ? それに、ねえ?」

 ちらと後ろを振り返った後、同じく後ろを気にしていた渡瀬と目を合わせる。
 彼女はこくりと頷き、朽木を見つめた。

「鹿島君が遅れているしもう少しゆっくりでもいいんじゃないかなーって。ね?」

 日原と渡瀬の二人は遅れないようについていくのだが、鹿島は腹痛を患うようによたよたと歩いている。
 朽木は眉間に深く皺を寄せてそれを見つめた。 

 午前の授業終了後、日原たちは近隣の店で食事をとったのだが、そこがワンコインでお腹いっぱい食べさせてくれる昔ながらの大衆食堂だったのだ。
 鹿島以外は控えめにしていたものの、その分彼には「ほら、食べ盛りの大学生なんだから食べな!」とこんもり山となったご飯がよそわれたのである。

 総量にして、どんぶり二杯分。二合くらいになるだろうか。
 食後に砂糖たっぷりのコーヒーまで出され、血糖値は上がりに上がりきった様子だ。

「腹が、苦しい……」
「ちゃんと断らないのが悪い!」
「いや、おばちゃんの好意は無碍に出来んだろう。よくおかずもおまけでもらうしな」

 朽木の言葉に対し、鹿島は顔を掻く。
 人付き合いよく、ご飯の味を褒めちぎるおかげで彼はどうも気に入られているらしい。そして、振る舞われる分はしっかりと頂く律義さもあるのだ。

「確保」
「ぐおっ……」

 ずかずかと足音荒く歩み寄った朽木は彼をひっ掴まえた。
 普段、あの大きなテグーを抱えることが多い朽木は割とパワフルなのだろうか。
 一七〇センチ後半とこのメンバーでは頭一つ大きい鹿島の首根っこを引っ張り連行していく。

 そうして向かった先は農学部棟からも独立した獣医学部棟だ。
 今まで踏み込むことがほとんどなかった獣医学科の本拠地である。

「ここに入ると思うと、獣医学生になった実感がひしひしと湧いてくるね」

 日原は五階建ての施設をてっぺんまで見上げた。

 工学部棟や農学部棟に比べれば小ぢんまりした施設にはなる。
 だがそれだけに出入りする上級生や教授陣は明らかな特別感があり、別世界の住人に見えた。

 普段の授業は農学部棟の教室を利用しているがこれから専門科目が増えてくると、こちらの教室を使うことが増えるらしい。

「うん、そうだね。私たちも徐々に仲間入りだよ……!」

 同じく胸に興奮を覚えたらしい渡瀬は笑顔で同意してくれる。
 目指すは三階にある生理学教授の部屋だ。朽木が率先してその扉をノックし、どうぞの一言を聞いて四人は入室した。

「失礼しますっ。今日はよろしくお願いします!」

 朽木の後に続いていくと髭面の病理学教授がこちらに目を向けてきた。
 ほんの六畳程度のオフィスで、壁には和書洋書問わず専門書や学会誌が無数に並んでいる。
 生徒からの提出物も雑多に置かれており、雪崩を起こしそうなレベルで積み上げられた圧迫感のある部屋だ。
 汚いとも言えるが、こうして学術に埋もれている様こそ教授らしさではなかろうか。

 四人は周囲に目を奪われがちになりながらも、生理学教授の前に並んだ。

「ああ、一年生ね。そういえば今日来るって約束をしていたか。よしよし、研究室の学生に案内させるからついて来なさい」

 時計とカレンダーに目を向けた教授は廊下に出て、隣の部屋に案内してくれた。
 そこは学生部屋らしい。
 勉強机がいくつも並び、コーヒーメーカーやお菓子などの喫茶用品も置かれている。
 カジュアルな勉強部屋とでも言うべき雰囲気だ。

 この部屋は実に和やかな空気が流れていた。
 飲食は自由にしつつ、それぞれのノートパソコンで論文を読んだり、勉強をしたりしている。
 その荷物の配置具合からするに五人程度の生徒が在籍しているだろうか。

「おうい、一年生が来たから誰か軽く案内を頼むよ。この後も別の研究室を見るそうだから、三十分程度でいい」

 教授が呼びかけると、研究室の学生が席から立ち上がってこちらを見つめてくる。
 彼らが大学四年から六年、もしくは大学院生のメンバーらしい。

「それなら私がします」

 全員が立って向き合っていたところ、女子学生が手を上げた。
 ショートヘアーの快活そうな女性で、化粧も含めて日原たちの代より大人びた印象だ。
 その姿を認めた渡瀬は明るい表情を浮かべた。

「栗原先輩。お疲れ様です。生理学教室所属だったんですね」
「そうだよ。言ってなかったっけ? そちらの三人は初めまして。六年生の栗原です」

 その挨拶に合わせてこちらも会釈するのだが、日原はどこかで彼女の姿を見たような覚えがあった。
 いつだっただろうかと記憶を探り、思い出す。

 そう、あれはミツバチの世話を見た日のこと。
 確か渡瀬が畜舎で会話していた上級生だ。

「――日原と言います。今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしく。それじゃあいつまでも立ち話は何なので、回れ右をしましょうか」

 それぞれの名前と一言くらいでさらりと自己紹介をしたところで日原たちは栗原先輩に先導されて廊下に出た。
 くるりと振り返った彼女は腰に手を当て、日原たちを見回す。

「とりあえず生理学講座らしいところを見せようか。四階までついてきてくれる?」
「そこに行って何を見るんですか?」

 すでに顔見知りということで渡瀬が先輩に並び、問いかける。

 生理学は読んで字のごとく、生命の理に関する学問。
 高校生物の一部をより掘り下げた分野で、細胞や神経の機能、ホルモンなどの内分泌機能に関する分野だそうだ。

 その程度しか知らない四人としては実験風景がどうなるのか全くもって想像がつかない。
 先輩はさもありなんと笑って答える。

「生理学や薬理学といえばマウスやラットが実験の友だからね。その飼育現場を見てもらおうかなと。男子はともかく、女子はネズミ平気かな? まあ、そのうち授業でも触るから大丈夫じゃなきゃ困るんだけどさ」

 研究といえばやはり実験動物を思い浮かべる。
 研究室は数あれど、本やテレビで見るように取り扱う研究室は本当にあるだろうかと思ったら、ここがまさにそうらしい。

 先輩は渡瀬と朽木に目をやる。
 渡瀬は淀みなく返答し、朽木は大きく頷いて返した。

 そんな様を見て、日原と鹿島は苦笑する。
 恐らく、四人の中で最もネズミに強いのは朽木だろう。
 その理由は目を輝かせている彼女自身が今に語るはずだ。

「たまにテグーのご飯で出しています……!」
「なるほど、爬虫類系のペットがいるのね。それなら全員平気そうかな」

 そんな動物を日頃見ているのならネズミを怖がりはしないと思ったのだろう。栗原先輩は早速歩き始めた。

 案内された四階はオートロックで施錠されていた。
 それを通過した後、高さ三十センチほどの板が足元に張られた部屋に入室する。

「んん? 先輩、この板は何なんですか?」
「これはもしもの時のネズミ止め。厳重に閉じてはいるけど、飼育施設だからね。引っかからないように気を付けてね?」
「ははあ、なるほど。そういうことだったんですね」

 とのことらしい。渡瀬は感心して頷く。

 彼女に続いて大きく跨いで準備室に入室し、さらに一枚の扉を抜けた。
 準備室から先も案外広く、さらに複数の部屋に分かれるフロアとなっていた。
 栗原先輩は数ある部屋を順に指差す。
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