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第1章 少々特殊なキャンパスライフ

第11話 コレジャナイ感のある授業 ②

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「――はい。このように反芻類と犬では肩甲棘下部が突出して肩峰と呼ばれ、馬や豚にはありません。また、人や犬猫では分離している橈骨と尺骨ですが、反芻類や馬では癒合しています。他に前肢で重要な情報といえば八つの前肢帯筋ですね。例えば、僕なんかが若い頃は『前進したい硬派で健康な僧侶が必死に鎖とか丈夫な凶器振る今日この頃』なんてゴロを作って覚えた気がしますね。では次に……」

 まるで教科書の音読だ。
 変わらないペースで読み進める退屈さのため、こっくりこっくりと舟を漕ぐ生徒も多い。

 そんな中、授業スライドには記載がないのに重要そうなセリフがぽろりと漏れる。
 しかしメモを取らせる間もなく進んでいく点が容赦ない。起きている生徒は慌てて書き取っていた。
 一部生徒なんて書き取りを諦め、カメラやボイスレコーダーを用意しているが、その方が利口なくらいだと思えてくる。
 
 日原はなんとかこの授業についていっていた。
 けれども、その実感からすると今後が危うく思える。

 なにせ骨と筋肉の数だけ情報がある上、それに生物種差まで加わってくるので情報量がとても多い。
 一体どこから手を付けていいのかわからないのだ。

(これ、どこからどう勉強しよう……?)

 日原は眉間の皺を寄せる。

 流石に全ては勉強し尽くせない。
 授業スライドを丸暗記すればいいのかもしれないが、教授はそのデータを前でページ繰りするだけでプリントは与えてくれなかった。

 高校時代ならどの教科にも問題集があるので要点を掴めた。
 だが、獣医学科のように受講人数が少ない専門科目にそんなものは存在しない。
 できる限りをノートに書き留めるが、ページ繰りには追い付けないので成果は中途半端だ。

「あ、スライド終わったね。じゃあ、今日の授業はここまで。総代の人、お願いします」

 九十分授業の長丁場はチャイムの五分前に終わりを迎えた。
 学級委員長的な役割の生徒に声がかかり、起立と礼の合図がかかる。
 教授はいそいそと片付けを始め、質問に行く生徒はそこに駆け寄る授業終わりの風景となった。

 この時といえば、保健所から高齢のペットを預かった生徒が様子を確認するのもお決まりの風景だ。
 日原も学内の無線LANから自室のカメラにアクセスし、コウに異常がないことを確かめる。

 体を捻じって仰向けとなったその寝格好は、温かい時期だとしばしば見かける。
 これで寝苦しくはないのだろうか。
 まあ、いつものことなのでひとまずはいいだろう。

 さて、困った現状に立ち返る。

「うーん、解剖学……。テストが怖いな」

 まだまだ授業が始まったばかりで雰囲気を掴めていないだけかもしれないが、前期末試験を思い浮かべた日原は苦しげな表情を浮かべる。
 そんな時、横合いから延びてきた手が目の前に五百円硬貨を置いた。

 目を向けると鹿島が商人のようにごまをすっている。
 見た目の優等生っぽさからは大きくかけ離れた行動だ。

「学生食堂の分を奢るから、ノート、貸してくれないか?」

 その頬には寝跡が付いている。
 案の定、彼は盛大に居眠りをしていた方の生徒だった。

「悪いけど、僕のノートは虫食い状態だからあまり役に立たないよ?」

 教授はスライドを口頭で読み、たまに説明を入れる。
 そんな時は追いつけるが、大抵はページ繰りが早かった。日原が見せたノートを前に、鹿島は腕を組んで唸る。
 その試案姿は優等生のそれなのに、どうしてこうなのか。

「これ、見る?」

 そこへ、朽木がノートを差し出してきた。

 彼女は大抵の授業は眠そうにしているものの、興味をそそられる一部では能力を発揮する。今回の解剖はその珍しい該当例で、ノートがしっかりと取られていた。
 鹿島は硬貨を彼女に献上し、ノートを受け取る。

「ありがたい……! でも、この調子だと定期試験が悩ましそうだな」
「それは僕も思った」

 朽木のノートを見てなお、その情報量に鹿島は眉を寄せる。
 三人寄れば文殊の知恵ではない。日原が同意を示し、朽木も「やだねぇ」とへたれた。

「ふっふっふ……」

 けれども、渡瀬は違うのだろうか。彼女は不敵な笑みを浮かべる。

「それなんだけどね、先輩がそのうち過去問をくれるってさ!」
「あ、そうなんだ? よかった。それなら安心できるよ。だって問題集もないし、どこから手を付けていいのかわからなかったし」

 これは赤点もあり得るのでは?

 日原はそんな危惧を漠然と抱いていた。
 しかし、なるほど。そういう解決法があるとわかれば気が楽である。

「生理学、生化学、動物遺伝育種学はそれぞれ生物の発展みたいな感じだったからまだわかるんだけど、解剖学が一番の鬼門だったんだよ。これで赤点は回避できそうだね」

 胸を撫で下ろした日原は教材をカバンにしまい、次の講義室に移動しようとする。それを止める手が二つあった。

「日原、試験前の勉強では解説をよろしく頼む……!」
「……ウチも!」

 赤点を取りそうという自覚があるのか、鹿島と朽木の二人は強く訴えてくる。

 どうせ試験前は一緒に勉強をすることだろう。
 やる気や苦手科目を補い合うのはいいものだ。日原は泣きつく二人を快く受け入れる。

 そんなこんなで次の講義室に移動し始めたところ、渡瀬は話題転換をしてきた。

「獣医らしいものといえばさ、今後の研究室訪問も楽しみだよね!」

 研究室。それは各専門教科の教授が開いている塾みたいなものだ。
 大学四年生からはどこかしらの研究室に所属し、コアタイムの九時から十七時はそこで研究をしつつ、授業があればそちらに出るという生活になるらしい。

 その研究室訪問は直近における最大のイベントなので、日原たちも反応を示す。

「担任の武智教授が授業で言っていたやつだよね。いろいろと訪問して、レポートを提出だっけ」

 担任教授の裁量によって内容が決められるホームルームの延長のような授業が週に一度あるのだ。
 教養科目も含め、授業の度にレポート課題が増えていくので渡瀬は言うまでもなく、日原でも流石にげんなりとしてくる。

 ともあれ、自分たちの未来像を捉えるためにも、研究室を見学して来いと言われている。
 訪問予定についてはすでに鹿島がまとめてくれていた。

「明日の午後から主な基礎系と一部の感染症系。来週の同じ時間に臨床系の講座を見ることが決まっている。後期に実習が控えている解剖学講座については省いたぞ」

 総論が終わった後に各論。そして実習というのが大まかな授業の運びらしい。
 夏休み以後の後期には鹿島が言うとおりの実習が控えているそうだ。

 この授業はまだ獣医らしさを体感しきれなかったが、今後に控えるものを聞くとまた意欲が盛り返してくる。
 もしかすると担任教授的にも、こんな効果を期待したのかもしれない。

「私は臨床系の講座の見学が楽しみかな。皆は?」

 体を動かす方が得意そうな渡瀬は確かに研究が多そうな基礎教科向きという感じではない。
 外科や内科、放射線や、大動物が関わる繁殖学など臨床科目の研究室が合っているだろう。
 獣医の花形といえばそちらだ。日原もその意見に同意する。

「僕もどちらかと言えばそっちかな。鹿島はこだわりがないんだっけ?」
「ああ。俺は全般的に経験してみて、面白いと思える分野に進みたいところだ」

 入学当初から蜂を飼い始めるように、鹿島は趣味と実益重視だそうだ。確かに彼らしい判断である。
 残る朽木の趣味についてはどうだろうか。

「ウチは解剖とか寄生虫とか、基礎的な方が好みかも」
「研究材料集めに東南アジアに行くこともあるらしいね。そういうフィールドワーク的には確かにクッチーぽいかも!」

 渡瀬が笑うのも無理はない。朽木はインドア派ではあるものの、興味の対象に関しては行動的だ。冒険家じみた服装でジャングルを突き進むのは似合いそうである。

 四人はそんな展望を話しながら、次の授業に向かうのだった。

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