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第2章 テストに向けて紆余曲折
第24話 消毒によって生まれる病気 ①
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『入学時点での獣医学生はほとんどが動物病院志望だよ。でもね、獣医業界の空気を知ったり、授業や実習――特に臨床系の勉強もひととおり触れる五年生くらいになったりしたら希望が割れてくるよ。動物病院志望だった人が大動物に興味を持つこともあるね』
上級生との交流会で、先輩はそう口にしていた。
パートナー動物は日原が飼う腎不全の猫も、クラスメイトのてんかんを患う犬も経験を積むための相手だ。
渡瀬が共同で飼育している羊もまた、獣医師が関係する分野である。
今は興味が薄くとも、いずれその分野に路線変更することもあるかもしれない。
仲間が心配ということもあり、日原たちは渡瀬と共に大動物畜舎に向かった。
そこではすでに栗原先輩が待ち構えている。
息を切らせて一番に駆け付けた渡瀬は息を整える間も挟まず、思いっきり頭を下げた。
「すみませんでした! 私っ、ちゃんと世話をしていたつもりだったんですけど、何も気づかず……!」
その勢いは栗原先輩としては予想を上回る反応だったのだろうか。
声を漏らして小さく驚き、むしろ宥める動きを見せる。
「ああっ、いいよいいよ。私も別のことで羊の血液検査をしていたんだけど、それで兆候が見られたから指摘するだけ。配合飼料もあげている環境だと発症しないだろうけど、知る機会はあった方がいい思ってね。それで、これは他の一年も聞く流れかな?」
怒る気配は感じられない。
日原たちがお願いしますと頭を下げると先輩は「偉いねえ」と感心した様子で笑う。
「畜舎にこのまま入るのはよくないから、とりあえずツナギと長靴に着替えてきなよ」
「わかりました。ダッシュで行ってきますっ!」
「いや、もう若干暗いからね。そんな急がなくてもいいのよ?」
まだ神妙な顔で返答する渡瀬は、ともすれば壁を突き破りそうな勢いで行動に移る。
フォローはよろしくとでも言いたげな先輩の視線に頷きを返し、日原たちも更衣室に向かった。
そこでそれぞれツナギと長靴を装着した四人は通路に備え付けられた踏み込み消毒槽に長靴で浸かってから入っていく。
栗原先輩は棒グラフが描かれた用紙を手に、羊の前で待っていた。
飼育されているのは白い顔に白い毛のメリノ種、黒い顔に白い毛のサフォーク種という二種の羊、計十頭だ。
「さて、それじゃあ変に渋らずどんな病気になりそうだったかを最初に答えようか。それは銅欠乏症ね」
言葉と共に用紙を手渡される。棒グラフは銅、亜鉛、鉄、カルシウムといったミネラルを数値化しているらしい。
ビタミンAが欠乏すれば夜盲症といった具合に代表例は生物で習った覚えがある。
だが、専門的なところとなるとさっぱりだ。
駆け出しの日原たちでは紙片一枚を見ても困惑の表情しか浮かべられなかった。
先輩は、まあそんなものと納得した表情で口を開く。
「銅が欠乏すると神経の変性が起こってね、歩様異常や起立不能って症状が現れてくるわけ。大抵はそういう症状が出てから発見されるから、牛海綿状脳症と同系統の病気であるスクレイピーや栄養不足による白筋症、あとは秋にかけての寄生虫による腰麻痺とかから類症鑑別をしていくのが流れ」
類症鑑別。
つまり原因は異なるが、似た症状を出す病気だ。
餌の管理状態や季節、薬の投与状況などである程度は当てをつけることができるのだろう。
しかし状態はわかったものの、原因についてはまだ触れられていない。
肝心のそこが気になって仕方がないのだろう。渡瀬はまだ落ち着かない様子で問いかける。
「そ、それで私の何が原因で病気になりそうだったんですか?」
「思い当たる節だと、渡瀬ちゃんが張り切って消毒をしていたことくらいかな」
「えっ。消毒で、ですか……!?」
渡瀬は驚愕の表情で固まった。
餌の配分などの間違いではないという点が意外だ。
なにせ消毒と羊には繋がりがない。
ならば羊の血液成分にどうやって影響したというのか、日原としても疑問が残る。
そもそも渡瀬が消石灰で消毒していたのは牧場の外縁だ。
牧場は窪地に作られており、中心部は平らなので大動物も歩ける。
けれどもその周囲は傾斜地で、大動物にとっては転倒が怖くなってくる。
そのため、この牧場は坂に強い羊や山羊が外側、内側に牛と柵で二重にエリア分けされているのである。
動物がいるからと外部の人が寄り付くこともあって、定期的に撒かれる消石灰は消毒と人払いとして上手く働いていたように思えたが、問題も抱えていたらしい。
「そう、気付きにくい問題なんだよね。これは小規模飼育をしている農家での消毒とか、自分で牧草地を持っている農家で起こりがちな症例らしいよ。まあ、血中銅濃度が下がってきた今の内に改善に動けば問題はないよ」
先輩が手で示す通り、羊たちは元気だ。
餌台に足をかけ、何。ご飯? ご飯なの? とそわそわしてこちらを見つめてきている。
シャープな山羊と違って丸みがあり、雰囲気も柔らかい。
渡瀬が反芻類の中で彼らに魅力を感じるのもよくわかる。
しかし、こんな風に健康としか見えない彼らが病気になりかねない状況なのだ。
飼育者としては気が気でないだろう。渡瀬は眉を寄せ、不安がったまま先輩を見つめた。
「どういう消毒だったらよかったのか教えてもらってもいいですか?」
「そうだね。じゃあ、現地を見に行こう」
頷いた先輩は、大動物を歩き回らせるための牧場に案内してくれた。
そこは大部分が和牛、乳牛用のスペースだ。
窪地の九割を占め、ほぼ平地となっている。羊と山羊のスペースはその外縁にある傾斜地だ。
最も外縁の柵近くには『飼養衛生管理区域です。疾病蔓延防止のため、関係者以外は近づかないでください』と立札がいくつも作られている。
消石灰を撒いた白い帯状の跡はその禁止区域を視覚化させていた。
それらを前にして栗原先輩は立つ。
「そもそも農場で鳥インフルエンザや口蹄疫が発生した後でも消石灰を撒くね。あれはどうしてかわかる?」
「消毒のため、ですよね……?」
渡瀬が口に出すと、先輩は苦笑した。
上級生との交流会で、先輩はそう口にしていた。
パートナー動物は日原が飼う腎不全の猫も、クラスメイトのてんかんを患う犬も経験を積むための相手だ。
渡瀬が共同で飼育している羊もまた、獣医師が関係する分野である。
今は興味が薄くとも、いずれその分野に路線変更することもあるかもしれない。
仲間が心配ということもあり、日原たちは渡瀬と共に大動物畜舎に向かった。
そこではすでに栗原先輩が待ち構えている。
息を切らせて一番に駆け付けた渡瀬は息を整える間も挟まず、思いっきり頭を下げた。
「すみませんでした! 私っ、ちゃんと世話をしていたつもりだったんですけど、何も気づかず……!」
その勢いは栗原先輩としては予想を上回る反応だったのだろうか。
声を漏らして小さく驚き、むしろ宥める動きを見せる。
「ああっ、いいよいいよ。私も別のことで羊の血液検査をしていたんだけど、それで兆候が見られたから指摘するだけ。配合飼料もあげている環境だと発症しないだろうけど、知る機会はあった方がいい思ってね。それで、これは他の一年も聞く流れかな?」
怒る気配は感じられない。
日原たちがお願いしますと頭を下げると先輩は「偉いねえ」と感心した様子で笑う。
「畜舎にこのまま入るのはよくないから、とりあえずツナギと長靴に着替えてきなよ」
「わかりました。ダッシュで行ってきますっ!」
「いや、もう若干暗いからね。そんな急がなくてもいいのよ?」
まだ神妙な顔で返答する渡瀬は、ともすれば壁を突き破りそうな勢いで行動に移る。
フォローはよろしくとでも言いたげな先輩の視線に頷きを返し、日原たちも更衣室に向かった。
そこでそれぞれツナギと長靴を装着した四人は通路に備え付けられた踏み込み消毒槽に長靴で浸かってから入っていく。
栗原先輩は棒グラフが描かれた用紙を手に、羊の前で待っていた。
飼育されているのは白い顔に白い毛のメリノ種、黒い顔に白い毛のサフォーク種という二種の羊、計十頭だ。
「さて、それじゃあ変に渋らずどんな病気になりそうだったかを最初に答えようか。それは銅欠乏症ね」
言葉と共に用紙を手渡される。棒グラフは銅、亜鉛、鉄、カルシウムといったミネラルを数値化しているらしい。
ビタミンAが欠乏すれば夜盲症といった具合に代表例は生物で習った覚えがある。
だが、専門的なところとなるとさっぱりだ。
駆け出しの日原たちでは紙片一枚を見ても困惑の表情しか浮かべられなかった。
先輩は、まあそんなものと納得した表情で口を開く。
「銅が欠乏すると神経の変性が起こってね、歩様異常や起立不能って症状が現れてくるわけ。大抵はそういう症状が出てから発見されるから、牛海綿状脳症と同系統の病気であるスクレイピーや栄養不足による白筋症、あとは秋にかけての寄生虫による腰麻痺とかから類症鑑別をしていくのが流れ」
類症鑑別。
つまり原因は異なるが、似た症状を出す病気だ。
餌の管理状態や季節、薬の投与状況などである程度は当てをつけることができるのだろう。
しかし状態はわかったものの、原因についてはまだ触れられていない。
肝心のそこが気になって仕方がないのだろう。渡瀬はまだ落ち着かない様子で問いかける。
「そ、それで私の何が原因で病気になりそうだったんですか?」
「思い当たる節だと、渡瀬ちゃんが張り切って消毒をしていたことくらいかな」
「えっ。消毒で、ですか……!?」
渡瀬は驚愕の表情で固まった。
餌の配分などの間違いではないという点が意外だ。
なにせ消毒と羊には繋がりがない。
ならば羊の血液成分にどうやって影響したというのか、日原としても疑問が残る。
そもそも渡瀬が消石灰で消毒していたのは牧場の外縁だ。
牧場は窪地に作られており、中心部は平らなので大動物も歩ける。
けれどもその周囲は傾斜地で、大動物にとっては転倒が怖くなってくる。
そのため、この牧場は坂に強い羊や山羊が外側、内側に牛と柵で二重にエリア分けされているのである。
動物がいるからと外部の人が寄り付くこともあって、定期的に撒かれる消石灰は消毒と人払いとして上手く働いていたように思えたが、問題も抱えていたらしい。
「そう、気付きにくい問題なんだよね。これは小規模飼育をしている農家での消毒とか、自分で牧草地を持っている農家で起こりがちな症例らしいよ。まあ、血中銅濃度が下がってきた今の内に改善に動けば問題はないよ」
先輩が手で示す通り、羊たちは元気だ。
餌台に足をかけ、何。ご飯? ご飯なの? とそわそわしてこちらを見つめてきている。
シャープな山羊と違って丸みがあり、雰囲気も柔らかい。
渡瀬が反芻類の中で彼らに魅力を感じるのもよくわかる。
しかし、こんな風に健康としか見えない彼らが病気になりかねない状況なのだ。
飼育者としては気が気でないだろう。渡瀬は眉を寄せ、不安がったまま先輩を見つめた。
「どういう消毒だったらよかったのか教えてもらってもいいですか?」
「そうだね。じゃあ、現地を見に行こう」
頷いた先輩は、大動物を歩き回らせるための牧場に案内してくれた。
そこは大部分が和牛、乳牛用のスペースだ。
窪地の九割を占め、ほぼ平地となっている。羊と山羊のスペースはその外縁にある傾斜地だ。
最も外縁の柵近くには『飼養衛生管理区域です。疾病蔓延防止のため、関係者以外は近づかないでください』と立札がいくつも作られている。
消石灰を撒いた白い帯状の跡はその禁止区域を視覚化させていた。
それらを前にして栗原先輩は立つ。
「そもそも農場で鳥インフルエンザや口蹄疫が発生した後でも消石灰を撒くね。あれはどうしてかわかる?」
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渡瀬が口に出すと、先輩は苦笑した。
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