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第3章 志の原点

第36話 解剖実習 ①

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 コウが死んでしまった翌朝、日原は鹿島と共に牛の世話に向かっていた。

 羊の世話がある渡瀬は午後しか時間を合わせられなかったので、鹿島と朽木が世話してくれていたらしい。
 朝が苦手な二人なのに担当してくれたことには感謝だ。

 けれども本日の鹿島は眠そうな様子も見せず、ちらちらとこちらを見てくる。眠気より気遣いが勝っているのだろう。
 いつまでもそうさせるのは心苦しいので日原は敢えて視線を合わせた。

 すると彼も意図に気付いた様子で切り出してくる。

「もう休まなくてもいいのか?」
「うん。いきなり部屋に一人になったから寂しかったけど、十分に悲しんだし、部屋や気持ちの整理なんかも終わったし。日常生活に戻っていかないとね」

 死に瀕する動物を多少延命することしかできなくとも、痛みや苦しみを与えないためにはやはり獣医師としての知識が必要だ。
 だからこそ、切り替えて前に進むのは必要なことだった。

 以前の空元気とは少し事情が異なる顔つきでいると、鹿島はもうそれ以上気にすることはなかった。

 そうして解剖室前に到着した。
 先日の四頭は変わらず牛房内にいる。

 鎖肛、肺炎の二頭は揃って座り込んでいたのだが、鎖肛の子牛はこちらの姿を見つけるや、ミルクがもらえると思って柵に寄ってきた。

「俺は牛糞を片付けるから、その間に乾草とミルクを準備してくれ」
「うん、了解」

 鹿島は角スコップを手に牛房に入る。
 雪かきと同様に牛糞を拾い上げ、外に置いた手押し車に乗せるというだけの作業だ。実質、三頭しか糞を落とさないこともあってすぐに片が付く。

 一方、日原は先日見せてもらった通りに乾草を飼い葉桶に運んでから鎖肛の子牛用にミルクをお湯で溶かした。
 それを持って歩くと、待たされ続けた子牛は柵越しにずっとこちらの動きを追ってくる。

「はいはい、今あげるからね」

 いざ与えてみると、渡瀬にせっついていたように元気よくミルクを飲んでいく。
 愛らしく思える半面、複雑な気持ちだ。

 スコップの柄尻にもたれかかりながら、鹿島も暗めの面持ちで目を向けている。

「……解剖実習、今日の午後一番からだな」
「そうだね」

 コウの死に直面してすぐにまた命から学ぶことになるとは、武智教授が口にしていたように間が悪いことだ。

 けれども、この牛たちの死については仕方ない点も見えてくる。
 病気を患う一般のペットと産業動物とでは状況が異なるのだ。

「そっちの子牛は普通に抗生物質をあげても治らなかったし、見るからに辛そうだからなんだよね。この牛も治すなら単に肛門の穴を開けるだけじゃ済まなくて、それに関わる筋肉まで縫い合わせて作る必要がある。しかもその治療だけで問題なく生きられるかどうかもわからないから、廃用になるって話だっけ」
「ああ。似たことを放射線の先輩が言っていたな」

 それは臨床系の講座を訪問していた時のことだ。

 麻酔を始めとして、薬は高価なものが多い。
 小型犬と大型犬で手術料金が変わるのと同様に、投薬量や手術に関する人手がそれなりに必要になるから大動物の治療は気楽にいかないのである。

 例えば肥育農家なら五、六十万円で子牛を買い、成牛は百から二百万円で売れる。
 差し引きの金額で餌代、予防接種、治療費などを払わなければならない。

 無論、通常の疾病であれば治療をするが、重度の奇形や骨折など治療が難しいものとなれば話は変わってくる。
 一部の大農場であれば子牛は自農場で賄うし、牛糞も堆肥化して売るし、草は自農場で作るという一貫経営でコストは抑えている。
 それをしてもなお、大手術は割に合わないのが現状だ。

 経営上どうにもならないので廃用という扱いになるのもよくわかる。
 小動物臨床とはまた様相が違う世界なのだ。

「そういえば、解剖の加藤教授は、この子たちは僕らの実習のためだけに連れてこられたわけじゃないって言っていたよね。やっぱりそこが気になるよ」
「そんなことも言っていたか。もしかするとその牛みたいに珍しい症例だから記録として残すのも重要ってことなのかもしれないな」

 鹿島の呟きに日原は頷く。
 この牛たちに治療の見込みはなくとも、それを分析することによって次の代では失敗を避けるというのは確かにありそうだ。

 命を無駄にせず、学び取る。少なくともそれが今の自分たちにできる最善だろう。
 重くなった空気の中、二人は牛の世話を終えた。

 ――そして、午後一時からの解剖実習の時はあっという間にやってきた。

 必要と言われたのは分厚い解剖学のテキストと、スケッチブックである。
 要するに解剖をして体表の筋肉を見るので、それをスケッチして覚えるという内容になるらしい。

 別室でツナギに着替えたクラスメイト三十人が解剖室に集まる。
 実習を担当するのは見慣れた加藤教授と、初めて見る准教授。そして研究室生だ。

 解剖室は水を弾く塗装が施された床で、水洗用の排水溝が中央に走っている。
 ステンレス製で六人程度は同時に囲えそうな移動式の解剖台や、天井にクレーンがあること、あとはニクダシの際に見た巨大な冷凍倉庫があるのが特徴的な施設だ。

 そんな解剖室内で加藤教授を囲い、解剖実習が始まる。

「それでは解剖実習を始めます。今日勉強するのは体表の筋肉です。後で口頭テストもするので、しっかりと覚えるように。また、早めに終われば内臓の外形も見ます。長丁場になるので、適度に座って貧血にならないようにしてください」

 解剖をしてスケッチという内容を複数個所で行うと、どれほど時間がかかるだろう。長丁場というのは言葉の綾には思えない。
 日原が嫌な予感をさせていたところ、渡瀬は何かを察した様子で口を開いた。

「先輩の話だと、この実習は六時過ぎまで続くことが多いし、馬の解剖が入った時は十一時近くまでやったとか言っていたよ……」
「そんなにっ……!?」
「授業のコマ割りなんてあったもんじゃないな……!?」

 渡瀬がこそりと口にすると、近くにいた日原と鹿島は本当に予想以上の長丁場に驚愕の表情を浮かべた。

 現在は午後一時である。
 十時間もぶっ続けで実習とは確かに想像を絶するものだ。

 尤も、普段は省エネで、やる気を出す時には元気な朽木にとってはさしたる問題でもなかったらしい。
 この会話を拾い聞いた周囲の生徒までどよめく中、彼女は活き活きとして教授の動きに注目していた。

 今度はどうやら安楽殺や解剖の流れについて話すらしい。
 刃渡り十センチ程度の直刀と曲刀、シェフが肉を切った後に使うことがある棒やすり、その他注射器などが用意されていた。

 教授はひとまずそれらには触らず、褐色瓶を手に取ってみせてくる。
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