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天使の生態

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 リリエハイムの種族は天使だ。境界域内を渡り歩きつつ、人助けと啓示を与えることを生業としている。
 このリリエハイムという名は、どこかの言葉では白い花が咲き誇る故郷という意味合いを持つらしい。天使としての純白の翼によく映える名前だと、自分でも思っている。

 現代の天使と言えば、人の街で金銭を対価にステータス更新を計らうだけの弱い種族だ。
 それからすると異端な自分が故郷という名を持つのはおかしいかもしれない。

 ――否。逆だ。かつての天使はどこで生まれ、どういう種族だったのか。それを現代の天使に忘れさせないためにも、自分がこの名を持っていることには意味がある。

「あぁー。育っちゃったんだね、君は」

 残念がって呟きながら前にするのは、人型の巨大な魔物だ。

 このところ旅をしているのは基本も基本。第一層の界隈である。
 そこで拾った噂によると、この魔物は第一層の魔物には類を見ない強さらしい。一般人は無論、中堅の冒険者の手に余るそうだ。
 あるある。そういう強力な個体が生まれてもおかしくない状況には一つ、覚えがある。

 なので、人助けの一環。討伐に出張ってきたのだ。
 腰にはハンドアックスと、大鉈をぶら下げている。華奢な女子の体躯には不釣り合いな武器であるが、二倍以上の身長を持つ魔物と対するなら相応だ。

 リリエハイムは大鉈を引き抜き、軽々と構える。

「ごめんね。お姉さんが痛みなく葬ってあげるから、もう眠っていいの」

 理性もなく吠え、威嚇をしてくる魔物。
 普通なら足の腱などを狙いつつ、泥仕合をしていたところだろう。

 けれどそうはならない。リリエハイムは地を蹴ると目にも止まらぬ速度で魔物の背後を取り、大鉈を振り被って跳んだ。後は脳天からまたまで真っ二つである。
 振り下ろした大鉈は勢い余って地面にまで突き立ち、衝撃で大きなクレーターを発生させる。

 それを腰に据え直した頃、魔物の体はようやく死を理解したらしく魔素へと還元された。
 そんなひと仕事を終えたリリエハイムは、窮状を訴えてきた村に仕事達成を報告しに戻った。

 ほんの五十人にも満たない小規模な村だ。
 ここは近隣で取れる境界域特産の水晶を地上に搬出することで日銭を稼いでいる。
 境界域で暮らす人はどれもこんなもので、しかも大抵は地上では生きていけない理由を持った日陰者が多かった。

「リリエさん、あの忌み子を討伐できたんですね!? 並の冒険者では勝てなかったのに、流石です!」
「人助けが生業なので、これしきはね? でも、一級の冒険者に回るはずの仕事を横取りしているようなものだから肩身が狭いの。このことは内密に。了解?」

 問いかけてみると、オウム返しに「了解!」と返ってくる。

 開拓村じみた過酷な環境ということもあり、村の年齢層はかなり若めだ。
 村長と言うべきまとめ役はリリエハイムをおだてる若者をこらこらとたしなめつつ、丁寧に頭を下げてきている。

「そうだ、リリエさん! 魔法使いのスコットの家にせがれが生まれたんだ。折角だから今の内に啓示をしてくれよ」
「それは順番に。まずは働き手に啓示を与えるのが先よ。昼には終わるから、待っていてね?」
「わかりました。伝えておきます!」

 若手の男性が周囲に集まってきているのはこの啓示も関係している。
 冒険者同様、個人の努力や才能で得られる天啓があれば、暮らし自体が楽になるかもしれないのだ。
 男女分け隔てなく行っているものの、頑張った分だけ強くなれるという要素なのでお年頃な男性陣の方が積極的なのである。

 ――と、まあそんなのが巡る村々での主な仕事だ。
 それらを終えて息ついた頃を見計らってやって来るのは数人の村娘である。

「リリエさん、いつもいつもありがとうございます。ささやかですけどお菓子と料理があるんです。持って帰ってください」
「ええ、ありがとう。頂きます」

 幻想種である天使にとって、食事は大して重要ではない。あくまで嗜好品の一種だ。
 それよりは種族的な生態に根差した施しを与える生業を怠らないことと、それに対する感謝を適切にもらう方が重要である。

 幻想種というのは、魔素なんてあやふやなもので構成された存在だ。
 大衆から確固たる畏怖や畏敬を得る存在の方が自分を見失わないで済む。

「ところで、リリエさん。今回はね、とっておきがあるんですよ?」

 選別を渡してきたのとは別の村娘三人は何やら意味深な笑みを浮かべ、揃って後ろ手に何かを隠している。

「ええと、なにかしら?」

 期待と不安混じりに問いかけてみる。
 すると村娘たちはしたり顔だ。待っていましたと言わんばかりに答えた。

「それはお酒です! 本当は水晶の搬出時期までしまっておくんですけど、男どもが飲み散らかすよりも普段お世話になっているリリエさんに飲んでもらった方がいいですから」

 という主張らしい。
 村娘は三者三様に蒸留酒、清酒、果実酒と思しき酒瓶を見せてくる。

 ごくりと生唾を呑みかけたものの、リリエハイムはそれを何とか笑顔で隠した。首を横に振り、押し返す。

「いいえ、それは折角だからあなたたちで楽しむべきね。ほら、私はそういうのがなくても生きていけるし。それにお土産はもうもらったもの」

 そう言って引き下がるのが天使としての美徳だ。
 堅苦しいかもしれないがこうして生きるのが最も性に合う生物なのである。

 集団主義だとか、ヒーローになりたがりとか、女と見れば情熱的に口説かずにはいられないとか。そういう血が流れていると言ってもいいだろう。
 小さな嗜好のために、彼らが長期にわたって我慢しているものを頂く訳にはいかない。

 そう思っていたのだが……。

「え。でも美味しいですよ?」

 村娘の素直な感想が胸を打ち貫く。

 うん、それは間違いない。重々承知している。
 そんなことを思って口ごもっているリリエハイムに対し、別の酒を持っている村娘が追い打ちをかける。

「新鮮な肉を炭で焼いて、塩をパラパラ振って。それを噛みしめて口中に広がる肉汁と油を楽しんだら、渋みのある果実酒でクイッと」
「うっ」
「川で取った魚を燻製にしてあります。それをちょっと炙り直してひと口。いいですよね、熟成したお味。それがまた、甘口な清酒と合うのです」
「くぅっ」
「干した果実と木の実ね。そして交易でもらったチーズ! そして蒸留酒。言わずもがなですよ、これ」
「くうぅっ!」

 どうしてこう、人間というものは罪深いことを考え、そして欲をくすぐるのが上手いのだろうか。
 天使はこうしたことを思いつかないし、思いついたとしても一人では実行もしない。

 だからこそ、人が考案する文化には刺激があるのだ。
 古くから天使は人のそんなところに魅了されてきた。境界域の深層から、こんなところまで堕落してしまったのだ。

 まあ、悪いことではない。
 生きる上で楽しいのはいいこと。
 知らないでいるのは勿体ない。甘美で結構なのだ。

 ああ、本当に甘美な誘惑である。
 このイケないことに手を出すような、ぞくぞくとする背徳感。天使はこういう誘惑にすこぶる弱い。
 迷いはこの麻薬のような感覚が徐々に痺れさせていった。



 ……で、しばしば拠点にしているログハウスで村娘と一緒に酒をかっくらったわけだ。

「あのー、もしもし?」

 酒瓶を抱きしめて寝ていたリリエハイムは、聞き慣れないその声で目を覚ます。
 困惑気味の美少年が、こちらを覗き込んでいるではないか。

 ああ、何かよくわからないが、やらかした。

「ひゃわっ……!?」

 慌てて飛び起きる。
 抱き締めていた酒瓶は遠くに転がし、口の端に流れていた涎も拭き取って証拠隠滅。
 しかし自分の銀の長髪は寝転げていたせいで派手に癖がついており、もう駄目だコレ。

 服についたしわを伸ばすなど、ささやかな誤魔化しを続けながらもリリエハイムは脂汗を禁じえない。

「すみません、返事がなかったものでお邪魔しちゃいました」
「いらっしゃいませぇっ!?」

 酒のおかげで思考がまとまらないせいだ。目がぐるぐるとしたまま、さらにダメな応答をしている気がしたが、事態を把握しきれない。
 美少年は何やらこんな様子に若干困った様子だ。

 ごめんね。訪ねてきたら全員が酒でグロッキーなんて確かに扱いに困る。
 その気持ち、よくわかる。

 彼は立ち上がると、周囲を見回した。
 死屍累々、ゴミ散乱という惨状なので非常にお恥ずかしい限りである。
 顔を逸らして他人行儀にしていると、彼は何やら炊事場に向かった。そこで水瓶を覗き込むと、コップに水を注いで持ってきてくれる。

「もうすぐ日暮れです。ここにはもう食材は見えないですし、警備がてら外を歩き回って食材を確保してこようと思います。それで料理を作るので、今晩の寝床と明日の啓示について交渉させてもらってもいいですか?」

 近場で暮らす住人だろうか。
 噂を聞き付けた者が訪ねてくることはちょくちょくあることだ。
 それ自体には何も問題ないと頷きを返すと、彼は早速動き始める。

 ならばとリリエハイムは立ち上がった。
 彼が戻ってくるまでにこの惨状と、自分の醜態をどうにかする。それを決意したのだった。
 
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