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イーリアスに対する悪あがき Ⅰ

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 イーリアスの剣によって首を貫かれた。
 どう捉えても重傷間違い無しの一撃である。カドは諦観にも似た思いを抱いていた。

(あー、うん。これはハルアジスも避けられないですよね。無理です)

 意表を突いて首への刺突なんて、想定していなければ避けられるものではない。自分が行った事の避けにくさをすぐに自ら体感することになるとは皮肉なものだ。
 けれど――

「くっ……!」
「おっと? こりゃいい反応だったな」

 ハルアジスと違うことがあるとすれば、まだ終わっていないことだ。
 体が動く。それはつまり、脊髄は断たれていないということだろう。
 刺突の瞬間、ほんの五センチメートルでも体を反らすことが間に合ったのだ。

 カドは右手でイーリアスの剣を掴み、左手で彼の腕を掴む。
 こうでもしておけば、このまま剣を動かされて即死ということは防げるはずだ。

 しかし、そんなことをしても重傷には変わらない。向けられるのは余裕綽々の顔である。
 こちらの傷が深い上、無手で有効な抵抗手段もほぼ考えられないからだろう。

「くっ……。ごぼっ!」

 せめて呪文でも詠唱しようとしたところ、血の泡が出た。
 どうやらイーリアスの攻撃は脊髄には届かなかったものの、血管と気管は裂いたらしい。
 首に灼熱の痛みがあるだけではなく、水を誤嚥した時のような苦しさがひとりでに増えていった。

 カドが抵抗できないのを察したのか、サラマンダーが口を開ける。

「しゃあっ……!」
「む。お前みたいなトカゲの系統は厄介な特技を持つんだよな」

 魔法を使おうとした気配を察したのだろう。イーリアスは剣を素早く抜き去ると、カドのどてっ腹を蹴り飛ばして距離を作った。
 カドは小学生の後転のようにぐるぐると床を転がされる。

 ようやく動きは止まったものの、顔を上げて対応に転じる事ができない。
 血液は頚部の筋肉を分けて外に出るより、それよりも近い穴である気管に入り込もうとするのだ。
 一度むせれば、反動で息を吸った拍子にもっと多くの血が肺に入ってしまう。土下座と同じく頭を下げ、静かに深い呼吸をしなければ自分の血で溺れてしまいかねない。

 どうやってこの危機を脱したものかと思考を巡らせていたところ、イーリアスから声をかけられた。

「お前、嬢ちゃんの知り合いなんだろう? だが、悪いな。もう終わりだ」

 その言葉が意味するところは言われずともわかる。竜に一撃を入れたのと同じ。この傷には呪詛がかかっているのが感じられた。
 頚動脈と頚静脈が傷ついている以上、竜と違ってのらりくらりとした治療はできない。

 この動脈と静脈は首の両側にあるので代わりは効く。
 馬では頚動脈が分岐した後の内頸動脈や外頸動脈が菌に汚染されて破ける喉嚢真菌炎と呼ばれる症状がある。
 この治療でどちらかの動脈を結紮することがあるのだが、その場合は視力低下や顔面の麻痺など、本来血が届くはずだった顔に何らかの異常をきたすことがあるのだ。

 縛ればまだ何とかなるが、それでも大血管だ。影響は少なからず出る。
 尤も、この状況がすでにそんな治療にすら辿り着けない王手なわけだが。

 覆しようがない状況ということを最も理解しているであろうイーリアスは剣をこちらに向けたまま、続けて声をかけてくる。

「お前さん、あの少年を助けていただろう? 悪い人間じゃないとは思うんだがなぁ、冒険者としてはお偉いさんを目の前で害されて何もしないと首を切られちまう。代わりと言っちゃなんだが、遺言くらいは聞いてやるよ。何かあるか?」

 それがせめてもの優しさなのだろう。
 言葉を返す余裕がないカドはサラマンダーの顔を捕まえ、後方に押しやる。
 その仕草で意味を悟ったのだろう。イーリアスはそれを見ると「おいおい……」と唸って後味悪そうに息を吐いた。

「了承した。出来ればそいつを野に放ろう。それでいいな?」

 これ以上は頭を下げられない体勢なので、笑みを作って返す。

 まあ、やるべきことは終えた。
 ハルアジスにはひと泡を噴かせたし、竜はまもなくここに来るのでイーリアスと対峙できるだろう。
 リリエにもトリシアが事情を伝えてくれるはずだ。

 今の自分に関わる事柄についてはある程度精算したと見ていい。
 何のために苦しみ足掻くか? そんな問いには答えがない状況なのだ。

(……うーん。次に目指すべき人生の目標もないですし、もうこの辺りで終わっても別に良いでしょうかね)

 杖という状態を経験してからというもの、欲というものをあまり感じない。
 それ故なのか、生き足掻こうとする気力も希薄だ。
 このまま眠ってしまった方が楽ではないか。そう思って気を張るのをやめ、脱力して床にもたれかかる。

 そんな時のことだ。
 不意に、イーリアスの横から人が歩いてくる音がした。
 まさかハルアジスのお早い到着かと思って顔を少しばかり上げる。

 目に映ったのは、女性だ。
 こんな薄暗い地下であっても周囲を清め照らすような金の長髪を靡かせて歩いてくる人物。それはトリシア――ではない。
 身につけているプレートメイルの意匠が違うし、顔つきもどこか異なる。

 一体誰なのか。
 そんな疑問の答えは彼女が腰に佩いた騎士剣にあった。
 これは、ハイ・ブラセルの塔で見た剣と同じなのである。

 イーリアスの前をかつかつと歩いてきても、彼は何も反応しない。視線すら向けないことには大きな違和感がある。これはまさか幻覚だろうか。
 そんな事を思っていると、彼女が口を開いた。

「あなたにここで諦められるのは、嫌かな。エワズが悲しんでしまうもの」

 彼女は目の前で膝を折ると、頬に触れてきた。
 その手のひらに熱は感じないものの、存在感はある。失血による幻覚というわけではないらしい。
 けれどもイーリアスは相変わらず少しも反応をしない。彼女のことは見えていないのだろうか。

「私はあなたに貸したままじゃない? だからその分を取り立たせてもらいたいなって」

 貸しというのは、この体が出来上がる際に力を一部もらったことだろうか。
 取って帰るというのであれば、なくなる前にどうぞと言う他ない。
 そう思っていたところ、彼女は眉を寄せた。

「いいえ。私にはもう体なんてないから、返してもらっても受け取れないわ。だからその分はエワズに還元してほしいの」

 どこか寂しさもないまぜになった笑みが、そこにはあった。
 彼女は自分の胸に手を当てる。

「私はね、欲張りなの。皆が笑顔になれれば良いと思って、それに邁進してきた」

 ああ、その話は聞いた。
 家にいた特殊な馬だった彼を見捨てるのが嫌で一緒に家を飛び出し、この境界域で英雄となることによって故郷に大手を振って帰ろうとした話だ。

「でもそんな願いがいつまでも叶い続けるわけがなくて、エワズを悲しませてしまった。あなたがここで死んでしまっても、きっと彼は悲しむわ。だから、ね? 私と同じ失敗はしないであげて」

 彼女は振り返ってイーリアスを見た後、再びカドの頬に手を伸ばして微笑む。

「あ。でも、ごめんなさい。ただの残留思念だから彼を倒せるような都合の良い力なんてあげられない。けれど、あなたならそんな力は必要としていないと思うの。諦めなければなんとかする手段があるでしょう? それも使わずに終わるのはもったいないじゃない」

 がっくりとくる話だ。
 臨死体験で正体不明の何かが語りかけてくると言えば覚醒の前触れだろうに、彼女は持ち前の力でどうにかしろと言う。
 いや、そもそもこの体が出来た時点でもらうものは貰い終えているはずなのだ。さらに求めるのも変な話だろう。

 そんな納得を読心したのか、彼女は表情を変える。

「あげられるとしたら、私の欲張りなところかな?」

 向けられたのは、悪戯な笑顔だ。
 彼女は添えた手でカドの顔を上げさせると、額に口づけをしてくる。

「ここで諦めないで。エワズのために。もちろん、待っているのは彼だけではないわ。あなたがまだ見ていない、この世界の素晴らしいところはまだまだある。それを見ずして終わるなんてもったいないと思うの。今あるものを失うのを怖がって。まだ見ぬものを楽しんで? ――あなたは、そんな風に欲張れる人になる」

 彼女はそれだけ言って満足したほほ笑みを浮かべると、消えてしまった。
 言いたいことだけ言って去るとは、なんとも自分勝手な幽霊だ。

 だが、言われたことはよくわかる。
 カドとしても未練がないわけではない。世話になった竜に対して、こんな死に別れをするなんて寝覚めが悪いにもほどがあった。

 そして折角この地で二度目の生を得たのである。
 地球の常識なんて通じない広大な世界を見ずに終わるなんて、あまりにも惜しい。
 彼女はそれらを放って死ぬことはもったいないと思わせる欲を本当にくれたらしい。

「けほっ、げほっ。は、はははっ……。ほんとに、もう……!」

 顔を上げ、イーリアスを見つめたカドは口元を歪めた。
 全く、性質の悪い幽霊だ。彼女が掛けた言霊のせいで、ここで死ぬのは惜しいと、胸が窮屈な痛みを発しておちおち眠れやしない。

 言葉通りの欲が根付かされたかのような感覚を覚えたカドは、血を吐きながら失笑する。
 うん、こうなってしまうならば仕方がない。


 ――さあ、悪あがきを始めよう。

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