上 下
63 / 136

少女の話と妖精養蜂 Ⅰ

しおりを挟む
 保護した女性が倒れてしまったこともあり、境界付近まで出張るのは中止である。
 何故かと言えば、それはエワズの乗り心地の悪さ故だ。ばっさばっさと空気を叩き落して飛ぶドラゴンの飛行は、体には決して優しくない。

 そもそも一日で境界付近まで移動しきってしまうつもりだったため、休みやすい地形の当てもこの先にはなかった。
 そんな理由から、カドたちは保護した女性を休ませるためにもこの一か月拠点としていた川辺に移動した。

 そこにある河岸段丘はちょうど木々も疎らで、見晴らしも良い地形となっている。
 カドと女性を背に乗せたエワズは、そこに降り立った。

 一か月は寝泊まりしたものの、残念ながらここには家なんてない。石を並べた簡易かまどと、輪切りにした丸太を並べて作った簡素な寝台があるのみだ。
 カドはその寝台に草や枝葉を集めると毛皮を敷いてベッドにする。そこに女性を寝かせると、エワズに目をやった。

「よし。とりあえず寝かせる点についてはこれでいいですね」
『うむ。それは良いのだがこの娘、ちと……』

 彼女の傍に伏せたエワズは顔をしかめた。
 彼が言わんとしているところはよくわかる。カドも同感だと頷きを返した。

「ええ、そうですね。臭うのでこのボロをひん剥いて、温かいタオルで拭いましょうか。着替えは、まあ、あり合わせで適当に」
『その物言い、山賊と大差なく思えるのだが』
「別にエロイことをしようとしているんじゃないですし、良いじゃないですか。ついでに手が足りなさそうなので数を呼びましょう」

 カドはそう言うと指笛を吹き鳴らした。そして何を待つこともなく、森の方向へと歩いていく。

 音への反応はすぐにあった。
 羽虫同様の大きな羽音がいくつもこの場に近づいてくる。

 飛来してきたのは、人の手のひら大の生物だ。小鳥のように軽快に飛ぶと、カドの周囲を旋回した。

「もう帰らない。違った? 違った?」
「また来た。知らない人連れてきた」
「収穫? 収穫?」
「はいそうですよー。分けてあげますから、皆を呼んでくださいねー」

 空中でホバリングしたまま代わる代わる顔を覗き込んでくるのは、虫の羽を持つ小人――妖精だ。
 カドが笑顔で応じると、彼らは喜色を浮かべて散開した。
 ご飯だ、宴だ、甘い蜜だと騒ぎ立てて飛ぶと、さらに十数匹の妖精が集まってくる。

 そんな妖精たちにまとわりつかれながらカドが近寄るのは、樹の傍に置かれた箱だ。
 縦横三十センチに満たない箱が重箱式に積み上げられている。
 その高さは人間の身長ほどにもなる。カドが前に立つと、周囲の妖精はわくわくと何かを心待ちにした様子だ。

「さて。それじゃ〈毒霧〉」

 カドはクラスⅡの魔法を無詠唱で発動させる。
 これは〈毒素生成〉の上位魔法だ。〈毒素生成〉は生物由来の成分であれば生成できる魔法。〈毒霧〉はその成分を霧状にして散布できる魔法である。

 指を向けると白い霧が生じ、箱を包み込んでいった。
 箱の下部には、ほんの一センチほどの高さの窓がついている。〈毒霧〉はそこから侵入していった。
 途端、窓からわっとハチが溢れ出してくる。

 そう、これは重箱式の養蜂箱だ。
 警戒した蜂は霧の中でしばらくぶんぶんと飛び回っていたが、次第に元気を失って地面へと落ちていく。
 何も殺したわけではない。ジガバチの仲間らしき虫から記憶した麻痺毒を、〈毒霧〉によって使用しただけである。

 ハチが痺れて動けなくなったのを見計らうと、カドは重箱式巣箱全体を持ち上げた。

「はい、妖精さん。下に一段足してください」
「わかったー」
「よいしょよいしょー」

 幼稚園児のような返事をすると、数匹の妖精が共同作業で箱を持ってくる。
 カドはその上に本体を下ろした。

 次に最上段の箱を少しだけ押し上げると、ナイフで中身を切る。そして箱を取り去り、頂点に板を被せた。

「いいですか、妖精さん。ハチの巣は成長した分だけ取っていくんです。取り過ぎたらダメですよ。もっと蜂蜜が欲しいなら、春から秋にかけて花が咲く植物をいっぱい植えて、その周囲にこんな養蜂箱を設置して育てていってくださいね」

 カドはこの一か月、妖精には養蜂の何たるかを叩き込んでおいた。
 蜂蜜が大好物の彼らは、天真爛漫な本性も忘れ、これ以上となく真剣に技術を習得していったのである。

 蜂蜜はそもそも、農畜産物の一つだ。
 受粉もおこなってくれるハチは農業全体の下支えとしても非常に重要な存在なので、その病気は家畜保健衛生所の獣医がチェックしているのである。

 カドが彼らに養蜂を教えたのもそんな獣医としての使命――ではなく。ちょっとした狙いがあるのだ。
 同じように次々とハチの巣を採取したカドは、その重箱から巣を剥がすと布で圧搾して器に蜂蜜を溜める。

 搾りカスはロウ成分の塊だ。
 これは蜜ろうといい、柔らかいガムのような素材で人体には無害だ。
 そのままロウソクにしたり、薬用成分と混ぜて軟膏にしたり、香料や油と混ぜて化粧品にしたりと用途は様々である。

 ただし、妖精はそれらに一切興味を持っていないのでこれはカドがまとめて頂いておいた。

「では、サラちゃん、お湯を沸かしてください。妖精さんはコップと器を……って、もう持ってきてますね」
「早く! 早く!」

 思えば、蜂蜜の圧搾中から妖精はもう慌ただしく準備をしていた。
 エワズの前には、大きな植物の葉による簡易シートがもう敷かれている。それどころか、コップや器の用意まで済んでいる様子だ。

 その準備の良さにカドが舌を巻いていると、妖精は寄ってたかって背を押してきた。
 カドは急かされるままに動き、サラマンダーが沸かした湯で蜂蜜を溶く。
 並べというまでもない。妖精は一つずつコップを持ち、すでに長蛇の列を作っていた。

「う、んんっ……」

 配膳中、妖精がわいわいと騒いだことで女性は目を覚ましたらしい。
 彼女は驚きに目を瞬きつつ、周囲を見回している。
 そこには出会った際のような恐怖心はほとんど感じなかった。この楽天的な妖精たちに囲まれた状況が、雰囲気を和らげているのかもしれない。

 カドは彼女に目を向ける。

「おはようございます。とりあえずハニードリンクをどうぞ。疲れにはよく効くと思います」

 カドが人間用のコップにハニードリンクを注ぐと、妖精は複数引きで持ち上げて彼女のもとまで運んでいく。
 返す言葉に困って口をもごもごとさせていた彼女の手に、コップは置かれた。

 手空きになった妖精は、彼女の周りを飛び始める。

「温かいうちに飲んで。飲み干して。体も心もポッカポカ!」
「どうぞどうぞ、臭い人間さん!」
「くさっ……!? あ、ああ。そうだよね……」

 純真無垢な表情のまま繰り出される言葉の刃が女性に突き刺さっていた。
 彼女が頷くと、「そうそう!」やら「臭いよね。臭い!」と集団で追撃をかましていく。そういう点は本当に妖精の残酷なところだ。

 配膳を終えたカドは自分もそちらに移動すると、魔本から冒険者の遺品である衣服を取り出す。

「見たところ、装備もなさそうなのでこれをどうぞ。僕はカドと言います。あっちは見た通りのドラゴンさんです。妖精はただの近隣住民なので気にしないでください。とりあえず、あなたのお名前は?」

 ハニードリンクにちびちびと口をつけていた女性に問いかける。
しおりを挟む

処理中です...