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1巻
1-3
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彼女はどんな返答が来るかと不安そうに震えながら手を握り締めて待っている。
「喚ばれちゃったもんはしょうがないし、さっき言ったとおり俺にできることなら協力するよ。だから安心してくれ」
「風見様がそう仰ってくださるお方で本当に良かったです。お傍にいられる私は本当に幸せ者です」
顔を綻ばせたクロエはどうにもむず痒いことばかり言う。こういう性分なのかもしれないが、むしろ彼の方が気恥ずかしくなってしまいそうだった。
「クロエはどうしてそこまで真剣に願うんだ? 知りもしない誰かのために働こうなんてそうそう思えるもんじゃないぞ」
「はじめはただ単に人助けは尊いと教えられてきたからです。ただ、そうやって活動すればするほど助けられない命を実感しました。餓える人も、病に苦しむ人も……目の前で殺される人も見ました。その中には私が殺したも同然の命もあるんです。だから私はその方々のためにも意味のあることをしなければなりません。そうでなければいつかきっと悔やんでしまいます」
聖女のような彼女は真っ直ぐに生きているうちに色々なものを背負ったらしい。今日び医者を目指す人間だってこんなことは言えない。十代の半ばでよくこのような気持ちになれたものだ。
「そっか。クロエは偉いんだな」
とんでもないと否定しようとする彼女の頭を撫で、ならば少しでも彼女の手助けをしようと風見は続けて話を聞こうとした。
「えーと、それで俺はこれから何をすればいいとか、予定はあるのか?」
「あ、はい。やはりまずは知ることから始めていただきます」
「知る?」
テーブルの向かい側に座り直したクロエに聞き返す。
「端的に言えば、見て人の生活を知る。学んで言葉を知る。鍛錬して武芸を知る。これからのために、そういうことを徹底的にしていただくことになりますね。何をおこなうにしてもこういった過程は必要だと思います」
「異世界……なんだよな。しかも魔法がある世界。そういうのって魔法とかでさくっと教えてもらえたりとかは……」
「魔法――現代では律法というのですが、その多くは物理現象を操るものです。確かに一部の術者は幻覚や催眠を操ることも可能ではあるのですが、さすがに情報量が桁違いなので不可能かと思います」
「……あー。つまり、地道な勉強?」
「地道な勉強ですね」
「……」
風見は無言で首を振った。ちょっと眩暈がしたのだ。
「……どのくらい?」
「ひと月で終えましょう! 私が知る全てを片時も離れず、お伝えさせていただきます!」
ずがん、と。
宣言された瞬間、風見は糸の切れた人形のように頭を落としてテーブルにぶつけた。紅茶とお茶菓子が飛び散ったが、気にしない。気にできるほど精神にゆとりがなかった。
(魔法で言語が通じるんじゃないのか!? 海外協力隊のマネをすれば終わりじゃないのか!?)
予備校時代には潤いなき勉強の嵐。
大学生時代にはテスト前の図書館籠り、そしてレポート&論文提出に苦しむ。
社会人となってからは検査室で細菌やウイルスの検査につきっきり。ついでに年に一度は研究発表が待っている。
人生は永久に勉強であるとはよく言ったものだ。よもや二十六歳で異世界に来て言語や常識、武芸を勉強させられる羽目になるとは思ってもみなかった。
「か、風見様!? やはりあのっ、お疲れなのですか!? い、今すぐ医者をっ」
クロエは勉強アレルギーという言葉を知らないらしい。突然倒れた風見に驚き、イスを撥ね飛ばす勢いで縋り付いてきた。
「いや、俺も一応医者だし……」
げっそりとしつつクロエに目を向けると、彼女は何かを大事そうに抱えていた。聖書なら神官らしいなと思ったら、それは羊皮紙の束と羽ペン、インク壺だった。
こいつは俺を殺す気だ。風見はその瞬間、そう確信したという。
「うん、死のう……」
「そ、そんなにお具合がっ……!?」
泣き言を口にすると、クロエはどうしましょうと目に見えてうろたえる。
……が、それが仮病だとバレたが最後、「騙すなんてひどいです!」と本気で涙を流され、風見は陽が暮れるまでみっちりと言語学習をさせられる羽目となった。
涙する女の子に勝つ術なしである。
――そうして。
「風見様、本日はここまでにしましょう。今夜はゆっくりお休みください」
夕食も片手間になるほど授業は凄まじかったが、ロウソクが必要なくらいあたりが暗くなると、クロエは「お疲れでしょうから」とすぐに立ち上がり、部屋を後にした。
勉強には照明が必須だが、こちらには電気の照明がないので夜更かしはデメリットが多いようだ。しかしそれでも早すぎる就寝時間である。
どうやら召喚はそれほどの大イベントだったらしく、気を遣ってくれたのだろう。
「んー、日頃深夜まで起きているからまだ眠くないんだよなぁ」
仕方ないので窓から外を眺めて、眠くなるのを待った。
やはり異世界。地球とは一風変わった夜の景色があった。
まずトンボみたいな虫が蛍のように発光しながら窓の外を飛んでいた。さらにそれらと戯れるかの如く、これまた淡く光る妖精が数匹編隊で追っかけている。
……で、たまにもつれ合って墜落する。大丈夫なのだろうか?
あとは得体の知れない光るもやが流れていったりする。オーロラみたいな何かだ。もしかしたらこれにはマナとかそういう名前があったりするのかもしれない。触れても特に害や効果はないようだった。
「ふーむ、異世界らしいな。妖精、妖精かぁ……」
面白い。実に面白い生き物である。妖精と言えば小人に虫の羽が生えたような存在だ。
つまり虫だろうか?
いやいや、それとも虫っぽい羽根を獲得しただけの哺乳類だろうか?
そこがとてもとても興味深い。ついでに言うとあの形状でどうやって浮力を獲得しているのかも非常に気になる。あの形では鳥のように上昇気流を捕まえることはできないだろう。
実のところ、ハーピー――顔から胸までが人間の女性で翼と下半身は鳥の生き物――を現実に作ろうとすると逆三角形どころではないマッチョになってしまうらしい。羽付きの可愛い女の子がボディビルダーも真っ青な肉ダルマだったら悪夢である。
「いつか調べてみたいなぁ……」
彼は、ふふふふ……! と得体の知れない科学者オーラを漏らした。
しかし研究するにしても切ったり開いたりはできない相手だなぁと思い直したところで、野生の勘なのか妖精たちは、びくぅっ! と過度に反応して散っていってしまった。
「あ……」
もう少し見ていたかったのにと残念に思うが、逃げられたものはしょうがない。
「ま、じきに調べられるよな」
ちょうど、ほどよく眠気もやってきたところだ。今日はこの辺にして寝ようと彼はベッドに入るのだった。
†
異世界に来てすぐさま戦闘? 誰もが驚く偉業を起こす?
風見の場合、それはなかった。
「ですからそこの綴りはこうでございます」
「えっ? こう?」
「あ、この文法も少しおかしいですね」
「くうっ、せめて文字さえ違わなければ……」
「そういえばこの文字の形も若干崩れている気がします」
「うがあああっ、二十代後半の低下していく記憶力を酷使させないでっ!」
この数日は勉強地獄であった。特に集中的に教えられたのは言語と一般常識である。
確かにこちらには日本語や英語が伝わっているものの、それは物好きやマレビトとゆかりのある土地で使われている程度で、公用語は全く別物であった。しかもその文字は風見からするとアラビア文字のようになじみのないものなので覚えるのに苦労した。
日本語がわかるクロエと執事のクライスに挟まれて二日ほどみっちりと勉強した彼は現在、簡単な疑問文や可能不可能くらいなら片言で言えるレベルである。それと平行して勉強しているのは地理やマナーや風習などだ。
ただ、その勉強はいくらしても終わりがない。教えてくれるクロエの意欲はいつまでも尽きないし、クライスは機械のように同じペースかつ終わりを見せずに進めていく。
「一体いつまでこんなことが……」
日の出から正午までみっちりと授業を受けた風見は力尽きて机に突っ伏す。
もう少し授業が優しくなるのを狙っての行動だったが、クロエは羊皮紙とペンを持ち、次の教材作りにがっつり入れ込んでいるところだ。どうやら効果は期待できそうもない。
風見は生気が抜ける思いで、わずかな休憩を噛みしめていた。
と、それを見かねたのかわからないが、クライスが一つの朗報を伝えてくれる。
「猊下、実は午後から少々外へお出かけ願おうかと思っております」
「本当か!?」
飛び起きて確認すると、クライスは起伏のない表情のままで「ええ」と頷いた。
執事服に身を包み、メガネをした彼の髪や肌の色はアルビノのように薄い。整った見かけも相まってまるで彫刻のようだ。
そんな容姿に影響されているのか、彼は感情や人間味がどこか欠落している。視線には冷気さえ感じるほどで最初は見られるだけでも背筋がヒヤリとした。
熱く問いかけても返ってくるのはやっぱり平坦な声のみである。
「少々事件がありまして。猊下には肩慣らしも兼ねてご意見を伺いたいとユーリス様よりことづかっております」
「そうだな! いつまでも部屋にこもってちゃ体に悪いし、頼られたんならしょうがないよな! で、どんなことなんだ?」
この地獄から逃げられる! と喜んだ風見は、生き生きとした目でクライスを見る。
自分に回されるのだから、きっと異世界の生物に関係することなのだろう。動物好きとしてもわくわくしてならない。
「猊下はグリフォンをご存知ですか?」
「グリフォンというと、鷲の上半身とライオンの下半身の、あれでいいのか?」
「相違ございません。体長は猊下の知る単位で言うと二メートルから三メートルの獣で、帝国では貴重な航空戦力の一つでございます」
「確か飛竜は十頭、グリフォンも三十頭くらいしかいなくて希少なんだろ?」
勉強した知識を早速思い出す。
この世界には空を飛ぶ人工物なんてもちろんない。しかし空を飛べる魔物を国で飼育し、航空戦力として活用しているそうだ。ただし魔物は本来、人に従わない。それを無理やり力で抑えつけて使役しているために、それほど多くは飼育できないらしい。
「で、そいつらに何かあったのか?」
「もう事後になりますが、一頭が急死したそうでございます。もう事は希少な財産をみすみす殺してしまった飼育係を処罰すれば終わりなのでございますが、どうせなら猊下にこの死因を突き止めていただき、他のグリフォンも死ぬことがないようにしていただきたいとの仰せでございます。いかがでございましょう?」
「そりゃあまた俺の仕事らしいことではあるな」
動物の病気などを調べてその対策を取る。風見の勤める家畜保健衛生所の仕事はまさにそれだ。
原因の調査自体は別に構わない。この勉強地獄から抜け出したいのもあるし、それに何よりグリフォンという異世界の生物への興味がある。やるか否かなど問われるまでもないことであった。
だがしかし――
「一つ気になるんだけど、その飼育係への処罰っていうのはどんなものなんだ? 確かに絶滅危惧の動物を殺したとかだったら大問題だろうけど、まさか死刑とか――」
「無論、死罪でございましょう。グリフォン一騎は一個中隊相当、運用次第では数百人の命を左右すると言われております。戦乱が絶えないこの帝国でグリフォンを殺したとしたら、とても人の命一つであがなえるものではございません」
民主主義などない、剣と魔法の世界の言葉だ。
その論理は風見でも理解できる。が、納得はできない。風見は羽ペンを置いて立ち上がった。
「わかった、見に行こう。ただし、俺が原因を暴けたらその人にチャンスをやってくれ。俺がその死因を見つけて対処法も教えれば、それは残りのグリフォンを救うことになる。ひいては数千人の命を左右することにもなる。違うか?」
「……なるほど。ではワタクシはそれを含め、ユーリス様にお伝えしてまいりましょう。カザミ様は早速現地へ向かわれますか?」
「ああ、そのつもりだ」
「では現地への案内については隷属騎士に手配させておきます。準備が整われましたら部屋の外にいる者たちに声をおかけください」
クライスはそれだけ伝えるとお辞儀をし、去っていった。
物事を機械のように処理する彼を見ていると、後ろで糸を操っているユーリスの姿が目に浮かぶ。こうして風見が申し出ることも想定の範囲内なのだろう。
そんな彼をクロエがいつの間にか微笑ましそうに見つめていた。
「あ……。クロエ、悪いな。勉強の続きはまた今度でいいか?」
「はい、構いません。風見様が人助けのために動かれるというのなら、そちらの方がずっと喜ばしいです。あのように仰る様は本当に猊下なんだなと改めて思わされました」
「その猊下……マレビトだっけ。それが俺にはまだよくわからないな。どんな人たちがいたんだ?」
「公式な記録では四人いらっしゃいます。一代目の猊下は軍略に秀でた方で、存命中には北方の小国を大国に育て上げたと聞きます」
「諸葛亮みたいな兵法家でもやってきたのかな?」
「ええと。そのような名前の方ではなかったと思います」
風見にとって、軍略といえば諸葛亮や孫子くらいしか思い浮かばない。
けれどそういうことを学んだ人は多いだろうし、いろいろな戦法や戦術を考えた一軍の長は幾多もいる。そういう人の一人が喚ばれたのだろう。
「二代目様は戦において比類なきお方だったとか。どんな律法も彼を捉えることはできず、さらには弓の名手でもあったと聞きます。それになんといっても二代目様はドラゴンを駆って戦場を渡り歩いたことで有名です」
「へえ、竜か。ロマンだなぁ、いつか見てみたいよ」
「あ、あの、ドラゴンですよ? 飛竜ではなくドラゴンを駆ったのですよ!?」
その軽さはおかしいと言いたいのか、大人しかったクロエの声が少しばかり昂ぶっている。
そうは言われても、風見にはドラゴンと飛竜の差がよくわからない。
ファンタジーでよく言うところだと飛竜は空を飛べる爬虫類で、大きさ、鱗の固さなどはドラゴンより劣るのが相場だ。ワイバーンやワイアームと呼ばれるのも同じレベルのモンスターだった。
対してドラゴンは生半可な剣では鱗も傷付けられず、さらに炎やら毒やら吹雪やら各個体の属性に依るブレスを吐く。全長は数十メートルでシロナガスクジラ並の大きさを想像していた。
風見がそう伝えると、クロエはおおむね間違いないと言う。
「私たちは前肢が翼になった竜種――例えば、飛竜やワイバーンならば、何とか飼い慣らせます。しかし、ワイアームを飼い慣らせた例はありませんし、ドラゴンなんてもってのほか。ドラゴンは栄えすぎて自然を乱したものを蹂躙する調停者として君臨していますね」
「なるほど。ドラゴンってやっぱり凄いんだなぁ」
つまり、強くて大きい爬虫類=竜種。
蛇型の竜=ワイアーム。前足が翼の竜=飛竜またはワイバーン。
四脚+背中に翼=ドラゴンというのが主な図式のようだ。
千人の兵が死力を尽くして竜の鱗一枚を削る。こちらではそんなファンタジーが現実らしい。それらを何度も夢見た風見は素直に感嘆のため息をつくのだが、クロエは「他人事ではないのです」と言う。
「ある時は少ない軍で大国を破り、ある時は貧困に喘ぐ民を異邦の知識で救い、ある時は未知の大陸や魔境さえも解き明かす。そして、どんな魔獣にも勝るドラゴンを従えられる英雄――風見様はそれと同じ存在なのですから」
「そう言われても俺には特殊能力なんてないない。せいぜい解剖が得意なくらいだよ」
風見は部屋の隅に積んであった荷物から解剖刀を取り出しながら苦笑した。
これはこちらに召喚される時に車に載せていた荷物だ。
車自体はこちらに来ていなかったが、解剖刀やその他ノコギリやメスなどの解剖道具一式と聴診器、顕微鏡、あとは消毒漕と消毒薬一瓶に安全靴やツナギ、採血用の注射器数本などはある。
診療や治療といったことは無理だが、多少の病理解剖くらいなら顕微鏡と肉眼検査だけで対応できるので、これからの仕事への不安は少ない。
風見は必要になりそうな解剖セットと採材用のパックを取り分ける。
「そんなことはありません。それはきっと風見様がグリフォンに会えばおわかりになると思います」
「問題はそこだな。グリフォンって凶暴って聞くんだけど、真っ当に相手ができるかどうか。何なら麻酔を用意するとこから始めなきゃだな」
「大丈夫です。風見様は猊下ですから」
クロエは自信たっぷりにそう宣言した。何がどう大丈夫なのか風見にはさっぱりである。
「……? まあ、ともかくいろいろ準備したいものはあるな。麻酔は無理にしても針と糸、それから後々必要になりそうなものを集めておきたい」
「そちらに関しては問題ありません。ご要望があればユーリス様が学業ギルドや商業ギルドなどにも手を回して揃えてくださるそうです」
「そうか。なら麻薬に使われる草と、羊の腸、それから木の灰と硫黄とかカルシウムの天然鉱物、あとは酸とかもどんな薬品があるのか知っておきたいし、用意できる品のリストをもらっておきたい。あとちらっと街に寄って使えるものがあるか見ていいか?」
「そうですね。せっかくですからこの世界をご案内しましょう」
この数日、医療行為をするにあたって必要で、かつこの世界にないであろうものについては考えていた。
ある程度はそれらを自作でまかなうためにも、リストを作っておく必要がある。
解剖のセットと消毒薬などを持った風見は、早速出かけるのだった。
†
今回の調査に同行したのはクロエと、あの犬耳を触らせてくれなかったウェアウルフのリズ、それからノーラというウェアラビットだった。
彼女らは馬捌きも慣れたもので自分の手足のように乗りこなし、体の任せ方も様になっている。
しかし馬なんて片手で数えるほどしか乗ったことがない風見は、彼女らの後ろについて馬の自主性に任せるのがやっと。乗っている間、無駄に内股を締めすぎたせいでいざ降りるとふらふらした、情けない姿をさらす羽目になった。
「ぐああっ、お尻が痛いぞ……」
「慣れるまで大変ですよね。私も以前は痛かった覚えがあります」
クロエが気遣ってくれている間に、リズたちは馬を街の兵士に預けていた。このあたりは皇太子のユーリスの名前があるので手厚く対応されているようである。
背後はリズに、左右をクロエとノーラに挟まれるという警護なのか花園なのかわからない状況で、風見は帝都がどのようなものか見回していた。
そこにあるのは所狭しと並ぶレンガ造りの街並みだ。
二階建てか三階建ての店舗兼家が隙間なく並び、先を見れば背の高い鐘楼や一際大きな建物も散見される。おそらく大きな建物は教会、ギルド、役所などだろう。
道には平たい石が敷き詰められていた。どこまで続いているのか辿ると、ずっと先で城壁に仕切られている。しかしそこから向こうが城というわけではない。壁の先には大きく豪華な家々が建ち並んでいる。城はさらにその奥、二つ目の壁に囲まれ、高くそびえていた。
「ここは平民街です。先に進めば貴族街となり、その奥が城となっていますね」
クロエはバスガイドのようにつらつらと説明してくれる。
風見らがいる平民街は今もなお拡大を続けているために外壁は存在せず、大通り以外は秩序なく建物が建設されているらしい。言われてみれば確かにそういう造りの方が街を広げやすそうだ。
「それにしても本当にこんな世界ってあるのか……。中世の街並みってやつか?」
レンガ造りの建物や街を往く馬車、並んだ出店など、いい風情である。
だがその反面、馬糞や砂などで道路がかなり汚れているのも目についた。道の端は特にひどく、汚れを流す側溝も作られていないので衛生的によろしくない。
中世ヨーロッパではこの上さらに人が汚物を道に捨てており、そのためハイヒールやブーツが広まったそうだが、こちらでは壁から突き出た管とそれを受ける蓋付きのボックスが路地裏や家と家の間にあった。これは日本のぼっとん便所や肥溜めの類似品らしい。
「なるほどな。何をすればいいのか、段々とわかってきた」
こういった道の汚物が作る問題は汚れや悪臭だけではない。乾燥した馬糞などが風で飛び、それに混じる寄生虫の卵や細菌を人が吸うことで寄生や肺炎が起こるのだ。
地球でそれらを解決したのは、ここ数世紀で発見された衛生の知識と抗生物質の力である。
問題が見えれば、それだけ対策を思いつけるかもしれない。風見はこの世界の生の姿をもっと知ろうとあちこちに視線を飛ばした。
「クロエ、あっちだ。あっちに行ってみよう。店にはすぐに寄らなくても大丈夫だよな?」
「はい。陽が暮れるまでにグリフォンの放牧地から屋敷に帰られれば問題ありません」
今はまだ昼前で、時間は十分ある。
夢に見た異世界らしくない不条理もあるが、それでも見たことがないもので満たされた世界を、風見は少年のように目を輝かせて見回していた。クロエはそれに嬉々としてついていき、ガイド役を務める。
そんな二人についていく警備はあたりを警戒しつつも、風見への注意も欠かさない。
『リズ団長、猊下ってとても気さくな方ですね。そう思いませんか?』
『どうだか。私にはただ単にお気楽なだけに思える』
『団長らしいですね。でもほら、猊下はウチたちにも笑いかけてくれるじゃないですか。ウチは道具扱いじゃなくて嬉しいんですよ。いつも話しかけようとしてくれるし、警備していたら疲れてないかって聞いてくれますし。ウチも人間だったんだなぁって思えます』
『もの珍しがられているだけかも知らんよ? あれは私たちとは随分と感性が違っている』
『あは。そこが良いじゃないですか』
ひっそりと会話をしていたリズとノーラだが、「おおっ!?」とまた風見が声を上げて先に行ってしまったために慌てて後を追った。
長剣を持つ騎士が道端で話し込む様。
耳と尾を持った亜人がそこら中を歩く様。
人の目の前をひゅんと飛んでいく妖精たち。
噴水前の広場では人の輪ができ、炎や電気の律法が大道芸のように披露されていた。
風見はそんな様を飽きもせずに見続ける。ようやく落ち着いた頃には一時間近くが経っていた。
「はあ、満足だ満足。こっちの世界は目新しいものがいっぱいだな」
「風見様の世界には同じものはないのですか?」
「いや、猫とか犬とか、あと見たことがある植物もいっぱいある。ほら、例えばあそこにあるのはキョウチクトウだよな?」
「そうですね。歴代の猊下が種子を持ち込んだそうでキョウチクトウという名前も広く伝わっています。このあたりでは自生しているものも多いそうですよ。その他に麦などはこちらでも広く使われていますね」
「意外にたくさんの繋がりがあるもんなんだな」
道理で見たことがあるものも多いわけだと納得したちょうどその時、くぅと風見の小腹が鳴いた。昼時なのにまだ何も食べていなかったお腹が、街の出店から漂う香りに刺激されてしまったらしい。
くすりと笑ったクロエは「私もお腹が空いたところです」と気を利かせてくれる。
「せっかくですし、昼食にいたしましょうか。当面の生活費はユーリス様よりいただいているのでご安心ください。風見様はどのような料理がお好みですか?」
「何でもいいな。とりあえずみんなで楽しく食べられるものにしよう。えーと、亜人も食べ物については大体同じものが食べられるって認識でいいのかな?」
ウサギなら草食だし、狼ならば基本的に肉食だ。少し離れたところに立っていた二人に、風見はずいっと歩み寄ると習いたての片言現地語で問いかけてみる。
『好物、ありますか? 好き、食べ物。私は教えてほしい』
『あ。えっ? これってその、もしかして周りの店で一緒に食べようってことですかね!?』
『知らんよ。とりあえず肉とでも答えればいいだろう? ノーラははしゃぎすぎだ。そんなことをしている間に誰かが襲ってきたらどうする』
『騎士が歩き回る帝都でそれは杞憂ですよ。それより団長は自分だけちゃっかり希望を言って! はいっはいっ! 猊下、ウチはハムが食べたいですっ!』
『おい、そこの草食種族』
ぴょんぴょんと跳ねて主張するノーラに、リズはジト目を向ける。
風見としては簡潔な答えが欲しかったのだが、返ってきたのはこんな山ほどの単語だ。必死に聞き取ろうとはしたが拾いきれなかった彼が、クロエに通訳を求めたのは言うまでもない。
「喚ばれちゃったもんはしょうがないし、さっき言ったとおり俺にできることなら協力するよ。だから安心してくれ」
「風見様がそう仰ってくださるお方で本当に良かったです。お傍にいられる私は本当に幸せ者です」
顔を綻ばせたクロエはどうにもむず痒いことばかり言う。こういう性分なのかもしれないが、むしろ彼の方が気恥ずかしくなってしまいそうだった。
「クロエはどうしてそこまで真剣に願うんだ? 知りもしない誰かのために働こうなんてそうそう思えるもんじゃないぞ」
「はじめはただ単に人助けは尊いと教えられてきたからです。ただ、そうやって活動すればするほど助けられない命を実感しました。餓える人も、病に苦しむ人も……目の前で殺される人も見ました。その中には私が殺したも同然の命もあるんです。だから私はその方々のためにも意味のあることをしなければなりません。そうでなければいつかきっと悔やんでしまいます」
聖女のような彼女は真っ直ぐに生きているうちに色々なものを背負ったらしい。今日び医者を目指す人間だってこんなことは言えない。十代の半ばでよくこのような気持ちになれたものだ。
「そっか。クロエは偉いんだな」
とんでもないと否定しようとする彼女の頭を撫で、ならば少しでも彼女の手助けをしようと風見は続けて話を聞こうとした。
「えーと、それで俺はこれから何をすればいいとか、予定はあるのか?」
「あ、はい。やはりまずは知ることから始めていただきます」
「知る?」
テーブルの向かい側に座り直したクロエに聞き返す。
「端的に言えば、見て人の生活を知る。学んで言葉を知る。鍛錬して武芸を知る。これからのために、そういうことを徹底的にしていただくことになりますね。何をおこなうにしてもこういった過程は必要だと思います」
「異世界……なんだよな。しかも魔法がある世界。そういうのって魔法とかでさくっと教えてもらえたりとかは……」
「魔法――現代では律法というのですが、その多くは物理現象を操るものです。確かに一部の術者は幻覚や催眠を操ることも可能ではあるのですが、さすがに情報量が桁違いなので不可能かと思います」
「……あー。つまり、地道な勉強?」
「地道な勉強ですね」
「……」
風見は無言で首を振った。ちょっと眩暈がしたのだ。
「……どのくらい?」
「ひと月で終えましょう! 私が知る全てを片時も離れず、お伝えさせていただきます!」
ずがん、と。
宣言された瞬間、風見は糸の切れた人形のように頭を落としてテーブルにぶつけた。紅茶とお茶菓子が飛び散ったが、気にしない。気にできるほど精神にゆとりがなかった。
(魔法で言語が通じるんじゃないのか!? 海外協力隊のマネをすれば終わりじゃないのか!?)
予備校時代には潤いなき勉強の嵐。
大学生時代にはテスト前の図書館籠り、そしてレポート&論文提出に苦しむ。
社会人となってからは検査室で細菌やウイルスの検査につきっきり。ついでに年に一度は研究発表が待っている。
人生は永久に勉強であるとはよく言ったものだ。よもや二十六歳で異世界に来て言語や常識、武芸を勉強させられる羽目になるとは思ってもみなかった。
「か、風見様!? やはりあのっ、お疲れなのですか!? い、今すぐ医者をっ」
クロエは勉強アレルギーという言葉を知らないらしい。突然倒れた風見に驚き、イスを撥ね飛ばす勢いで縋り付いてきた。
「いや、俺も一応医者だし……」
げっそりとしつつクロエに目を向けると、彼女は何かを大事そうに抱えていた。聖書なら神官らしいなと思ったら、それは羊皮紙の束と羽ペン、インク壺だった。
こいつは俺を殺す気だ。風見はその瞬間、そう確信したという。
「うん、死のう……」
「そ、そんなにお具合がっ……!?」
泣き言を口にすると、クロエはどうしましょうと目に見えてうろたえる。
……が、それが仮病だとバレたが最後、「騙すなんてひどいです!」と本気で涙を流され、風見は陽が暮れるまでみっちりと言語学習をさせられる羽目となった。
涙する女の子に勝つ術なしである。
――そうして。
「風見様、本日はここまでにしましょう。今夜はゆっくりお休みください」
夕食も片手間になるほど授業は凄まじかったが、ロウソクが必要なくらいあたりが暗くなると、クロエは「お疲れでしょうから」とすぐに立ち上がり、部屋を後にした。
勉強には照明が必須だが、こちらには電気の照明がないので夜更かしはデメリットが多いようだ。しかしそれでも早すぎる就寝時間である。
どうやら召喚はそれほどの大イベントだったらしく、気を遣ってくれたのだろう。
「んー、日頃深夜まで起きているからまだ眠くないんだよなぁ」
仕方ないので窓から外を眺めて、眠くなるのを待った。
やはり異世界。地球とは一風変わった夜の景色があった。
まずトンボみたいな虫が蛍のように発光しながら窓の外を飛んでいた。さらにそれらと戯れるかの如く、これまた淡く光る妖精が数匹編隊で追っかけている。
……で、たまにもつれ合って墜落する。大丈夫なのだろうか?
あとは得体の知れない光るもやが流れていったりする。オーロラみたいな何かだ。もしかしたらこれにはマナとかそういう名前があったりするのかもしれない。触れても特に害や効果はないようだった。
「ふーむ、異世界らしいな。妖精、妖精かぁ……」
面白い。実に面白い生き物である。妖精と言えば小人に虫の羽が生えたような存在だ。
つまり虫だろうか?
いやいや、それとも虫っぽい羽根を獲得しただけの哺乳類だろうか?
そこがとてもとても興味深い。ついでに言うとあの形状でどうやって浮力を獲得しているのかも非常に気になる。あの形では鳥のように上昇気流を捕まえることはできないだろう。
実のところ、ハーピー――顔から胸までが人間の女性で翼と下半身は鳥の生き物――を現実に作ろうとすると逆三角形どころではないマッチョになってしまうらしい。羽付きの可愛い女の子がボディビルダーも真っ青な肉ダルマだったら悪夢である。
「いつか調べてみたいなぁ……」
彼は、ふふふふ……! と得体の知れない科学者オーラを漏らした。
しかし研究するにしても切ったり開いたりはできない相手だなぁと思い直したところで、野生の勘なのか妖精たちは、びくぅっ! と過度に反応して散っていってしまった。
「あ……」
もう少し見ていたかったのにと残念に思うが、逃げられたものはしょうがない。
「ま、じきに調べられるよな」
ちょうど、ほどよく眠気もやってきたところだ。今日はこの辺にして寝ようと彼はベッドに入るのだった。
†
異世界に来てすぐさま戦闘? 誰もが驚く偉業を起こす?
風見の場合、それはなかった。
「ですからそこの綴りはこうでございます」
「えっ? こう?」
「あ、この文法も少しおかしいですね」
「くうっ、せめて文字さえ違わなければ……」
「そういえばこの文字の形も若干崩れている気がします」
「うがあああっ、二十代後半の低下していく記憶力を酷使させないでっ!」
この数日は勉強地獄であった。特に集中的に教えられたのは言語と一般常識である。
確かにこちらには日本語や英語が伝わっているものの、それは物好きやマレビトとゆかりのある土地で使われている程度で、公用語は全く別物であった。しかもその文字は風見からするとアラビア文字のようになじみのないものなので覚えるのに苦労した。
日本語がわかるクロエと執事のクライスに挟まれて二日ほどみっちりと勉強した彼は現在、簡単な疑問文や可能不可能くらいなら片言で言えるレベルである。それと平行して勉強しているのは地理やマナーや風習などだ。
ただ、その勉強はいくらしても終わりがない。教えてくれるクロエの意欲はいつまでも尽きないし、クライスは機械のように同じペースかつ終わりを見せずに進めていく。
「一体いつまでこんなことが……」
日の出から正午までみっちりと授業を受けた風見は力尽きて机に突っ伏す。
もう少し授業が優しくなるのを狙っての行動だったが、クロエは羊皮紙とペンを持ち、次の教材作りにがっつり入れ込んでいるところだ。どうやら効果は期待できそうもない。
風見は生気が抜ける思いで、わずかな休憩を噛みしめていた。
と、それを見かねたのかわからないが、クライスが一つの朗報を伝えてくれる。
「猊下、実は午後から少々外へお出かけ願おうかと思っております」
「本当か!?」
飛び起きて確認すると、クライスは起伏のない表情のままで「ええ」と頷いた。
執事服に身を包み、メガネをした彼の髪や肌の色はアルビノのように薄い。整った見かけも相まってまるで彫刻のようだ。
そんな容姿に影響されているのか、彼は感情や人間味がどこか欠落している。視線には冷気さえ感じるほどで最初は見られるだけでも背筋がヒヤリとした。
熱く問いかけても返ってくるのはやっぱり平坦な声のみである。
「少々事件がありまして。猊下には肩慣らしも兼ねてご意見を伺いたいとユーリス様よりことづかっております」
「そうだな! いつまでも部屋にこもってちゃ体に悪いし、頼られたんならしょうがないよな! で、どんなことなんだ?」
この地獄から逃げられる! と喜んだ風見は、生き生きとした目でクライスを見る。
自分に回されるのだから、きっと異世界の生物に関係することなのだろう。動物好きとしてもわくわくしてならない。
「猊下はグリフォンをご存知ですか?」
「グリフォンというと、鷲の上半身とライオンの下半身の、あれでいいのか?」
「相違ございません。体長は猊下の知る単位で言うと二メートルから三メートルの獣で、帝国では貴重な航空戦力の一つでございます」
「確か飛竜は十頭、グリフォンも三十頭くらいしかいなくて希少なんだろ?」
勉強した知識を早速思い出す。
この世界には空を飛ぶ人工物なんてもちろんない。しかし空を飛べる魔物を国で飼育し、航空戦力として活用しているそうだ。ただし魔物は本来、人に従わない。それを無理やり力で抑えつけて使役しているために、それほど多くは飼育できないらしい。
「で、そいつらに何かあったのか?」
「もう事後になりますが、一頭が急死したそうでございます。もう事は希少な財産をみすみす殺してしまった飼育係を処罰すれば終わりなのでございますが、どうせなら猊下にこの死因を突き止めていただき、他のグリフォンも死ぬことがないようにしていただきたいとの仰せでございます。いかがでございましょう?」
「そりゃあまた俺の仕事らしいことではあるな」
動物の病気などを調べてその対策を取る。風見の勤める家畜保健衛生所の仕事はまさにそれだ。
原因の調査自体は別に構わない。この勉強地獄から抜け出したいのもあるし、それに何よりグリフォンという異世界の生物への興味がある。やるか否かなど問われるまでもないことであった。
だがしかし――
「一つ気になるんだけど、その飼育係への処罰っていうのはどんなものなんだ? 確かに絶滅危惧の動物を殺したとかだったら大問題だろうけど、まさか死刑とか――」
「無論、死罪でございましょう。グリフォン一騎は一個中隊相当、運用次第では数百人の命を左右すると言われております。戦乱が絶えないこの帝国でグリフォンを殺したとしたら、とても人の命一つであがなえるものではございません」
民主主義などない、剣と魔法の世界の言葉だ。
その論理は風見でも理解できる。が、納得はできない。風見は羽ペンを置いて立ち上がった。
「わかった、見に行こう。ただし、俺が原因を暴けたらその人にチャンスをやってくれ。俺がその死因を見つけて対処法も教えれば、それは残りのグリフォンを救うことになる。ひいては数千人の命を左右することにもなる。違うか?」
「……なるほど。ではワタクシはそれを含め、ユーリス様にお伝えしてまいりましょう。カザミ様は早速現地へ向かわれますか?」
「ああ、そのつもりだ」
「では現地への案内については隷属騎士に手配させておきます。準備が整われましたら部屋の外にいる者たちに声をおかけください」
クライスはそれだけ伝えるとお辞儀をし、去っていった。
物事を機械のように処理する彼を見ていると、後ろで糸を操っているユーリスの姿が目に浮かぶ。こうして風見が申し出ることも想定の範囲内なのだろう。
そんな彼をクロエがいつの間にか微笑ましそうに見つめていた。
「あ……。クロエ、悪いな。勉強の続きはまた今度でいいか?」
「はい、構いません。風見様が人助けのために動かれるというのなら、そちらの方がずっと喜ばしいです。あのように仰る様は本当に猊下なんだなと改めて思わされました」
「その猊下……マレビトだっけ。それが俺にはまだよくわからないな。どんな人たちがいたんだ?」
「公式な記録では四人いらっしゃいます。一代目の猊下は軍略に秀でた方で、存命中には北方の小国を大国に育て上げたと聞きます」
「諸葛亮みたいな兵法家でもやってきたのかな?」
「ええと。そのような名前の方ではなかったと思います」
風見にとって、軍略といえば諸葛亮や孫子くらいしか思い浮かばない。
けれどそういうことを学んだ人は多いだろうし、いろいろな戦法や戦術を考えた一軍の長は幾多もいる。そういう人の一人が喚ばれたのだろう。
「二代目様は戦において比類なきお方だったとか。どんな律法も彼を捉えることはできず、さらには弓の名手でもあったと聞きます。それになんといっても二代目様はドラゴンを駆って戦場を渡り歩いたことで有名です」
「へえ、竜か。ロマンだなぁ、いつか見てみたいよ」
「あ、あの、ドラゴンですよ? 飛竜ではなくドラゴンを駆ったのですよ!?」
その軽さはおかしいと言いたいのか、大人しかったクロエの声が少しばかり昂ぶっている。
そうは言われても、風見にはドラゴンと飛竜の差がよくわからない。
ファンタジーでよく言うところだと飛竜は空を飛べる爬虫類で、大きさ、鱗の固さなどはドラゴンより劣るのが相場だ。ワイバーンやワイアームと呼ばれるのも同じレベルのモンスターだった。
対してドラゴンは生半可な剣では鱗も傷付けられず、さらに炎やら毒やら吹雪やら各個体の属性に依るブレスを吐く。全長は数十メートルでシロナガスクジラ並の大きさを想像していた。
風見がそう伝えると、クロエはおおむね間違いないと言う。
「私たちは前肢が翼になった竜種――例えば、飛竜やワイバーンならば、何とか飼い慣らせます。しかし、ワイアームを飼い慣らせた例はありませんし、ドラゴンなんてもってのほか。ドラゴンは栄えすぎて自然を乱したものを蹂躙する調停者として君臨していますね」
「なるほど。ドラゴンってやっぱり凄いんだなぁ」
つまり、強くて大きい爬虫類=竜種。
蛇型の竜=ワイアーム。前足が翼の竜=飛竜またはワイバーン。
四脚+背中に翼=ドラゴンというのが主な図式のようだ。
千人の兵が死力を尽くして竜の鱗一枚を削る。こちらではそんなファンタジーが現実らしい。それらを何度も夢見た風見は素直に感嘆のため息をつくのだが、クロエは「他人事ではないのです」と言う。
「ある時は少ない軍で大国を破り、ある時は貧困に喘ぐ民を異邦の知識で救い、ある時は未知の大陸や魔境さえも解き明かす。そして、どんな魔獣にも勝るドラゴンを従えられる英雄――風見様はそれと同じ存在なのですから」
「そう言われても俺には特殊能力なんてないない。せいぜい解剖が得意なくらいだよ」
風見は部屋の隅に積んであった荷物から解剖刀を取り出しながら苦笑した。
これはこちらに召喚される時に車に載せていた荷物だ。
車自体はこちらに来ていなかったが、解剖刀やその他ノコギリやメスなどの解剖道具一式と聴診器、顕微鏡、あとは消毒漕と消毒薬一瓶に安全靴やツナギ、採血用の注射器数本などはある。
診療や治療といったことは無理だが、多少の病理解剖くらいなら顕微鏡と肉眼検査だけで対応できるので、これからの仕事への不安は少ない。
風見は必要になりそうな解剖セットと採材用のパックを取り分ける。
「そんなことはありません。それはきっと風見様がグリフォンに会えばおわかりになると思います」
「問題はそこだな。グリフォンって凶暴って聞くんだけど、真っ当に相手ができるかどうか。何なら麻酔を用意するとこから始めなきゃだな」
「大丈夫です。風見様は猊下ですから」
クロエは自信たっぷりにそう宣言した。何がどう大丈夫なのか風見にはさっぱりである。
「……? まあ、ともかくいろいろ準備したいものはあるな。麻酔は無理にしても針と糸、それから後々必要になりそうなものを集めておきたい」
「そちらに関しては問題ありません。ご要望があればユーリス様が学業ギルドや商業ギルドなどにも手を回して揃えてくださるそうです」
「そうか。なら麻薬に使われる草と、羊の腸、それから木の灰と硫黄とかカルシウムの天然鉱物、あとは酸とかもどんな薬品があるのか知っておきたいし、用意できる品のリストをもらっておきたい。あとちらっと街に寄って使えるものがあるか見ていいか?」
「そうですね。せっかくですからこの世界をご案内しましょう」
この数日、医療行為をするにあたって必要で、かつこの世界にないであろうものについては考えていた。
ある程度はそれらを自作でまかなうためにも、リストを作っておく必要がある。
解剖のセットと消毒薬などを持った風見は、早速出かけるのだった。
†
今回の調査に同行したのはクロエと、あの犬耳を触らせてくれなかったウェアウルフのリズ、それからノーラというウェアラビットだった。
彼女らは馬捌きも慣れたもので自分の手足のように乗りこなし、体の任せ方も様になっている。
しかし馬なんて片手で数えるほどしか乗ったことがない風見は、彼女らの後ろについて馬の自主性に任せるのがやっと。乗っている間、無駄に内股を締めすぎたせいでいざ降りるとふらふらした、情けない姿をさらす羽目になった。
「ぐああっ、お尻が痛いぞ……」
「慣れるまで大変ですよね。私も以前は痛かった覚えがあります」
クロエが気遣ってくれている間に、リズたちは馬を街の兵士に預けていた。このあたりは皇太子のユーリスの名前があるので手厚く対応されているようである。
背後はリズに、左右をクロエとノーラに挟まれるという警護なのか花園なのかわからない状況で、風見は帝都がどのようなものか見回していた。
そこにあるのは所狭しと並ぶレンガ造りの街並みだ。
二階建てか三階建ての店舗兼家が隙間なく並び、先を見れば背の高い鐘楼や一際大きな建物も散見される。おそらく大きな建物は教会、ギルド、役所などだろう。
道には平たい石が敷き詰められていた。どこまで続いているのか辿ると、ずっと先で城壁に仕切られている。しかしそこから向こうが城というわけではない。壁の先には大きく豪華な家々が建ち並んでいる。城はさらにその奥、二つ目の壁に囲まれ、高くそびえていた。
「ここは平民街です。先に進めば貴族街となり、その奥が城となっていますね」
クロエはバスガイドのようにつらつらと説明してくれる。
風見らがいる平民街は今もなお拡大を続けているために外壁は存在せず、大通り以外は秩序なく建物が建設されているらしい。言われてみれば確かにそういう造りの方が街を広げやすそうだ。
「それにしても本当にこんな世界ってあるのか……。中世の街並みってやつか?」
レンガ造りの建物や街を往く馬車、並んだ出店など、いい風情である。
だがその反面、馬糞や砂などで道路がかなり汚れているのも目についた。道の端は特にひどく、汚れを流す側溝も作られていないので衛生的によろしくない。
中世ヨーロッパではこの上さらに人が汚物を道に捨てており、そのためハイヒールやブーツが広まったそうだが、こちらでは壁から突き出た管とそれを受ける蓋付きのボックスが路地裏や家と家の間にあった。これは日本のぼっとん便所や肥溜めの類似品らしい。
「なるほどな。何をすればいいのか、段々とわかってきた」
こういった道の汚物が作る問題は汚れや悪臭だけではない。乾燥した馬糞などが風で飛び、それに混じる寄生虫の卵や細菌を人が吸うことで寄生や肺炎が起こるのだ。
地球でそれらを解決したのは、ここ数世紀で発見された衛生の知識と抗生物質の力である。
問題が見えれば、それだけ対策を思いつけるかもしれない。風見はこの世界の生の姿をもっと知ろうとあちこちに視線を飛ばした。
「クロエ、あっちだ。あっちに行ってみよう。店にはすぐに寄らなくても大丈夫だよな?」
「はい。陽が暮れるまでにグリフォンの放牧地から屋敷に帰られれば問題ありません」
今はまだ昼前で、時間は十分ある。
夢に見た異世界らしくない不条理もあるが、それでも見たことがないもので満たされた世界を、風見は少年のように目を輝かせて見回していた。クロエはそれに嬉々としてついていき、ガイド役を務める。
そんな二人についていく警備はあたりを警戒しつつも、風見への注意も欠かさない。
『リズ団長、猊下ってとても気さくな方ですね。そう思いませんか?』
『どうだか。私にはただ単にお気楽なだけに思える』
『団長らしいですね。でもほら、猊下はウチたちにも笑いかけてくれるじゃないですか。ウチは道具扱いじゃなくて嬉しいんですよ。いつも話しかけようとしてくれるし、警備していたら疲れてないかって聞いてくれますし。ウチも人間だったんだなぁって思えます』
『もの珍しがられているだけかも知らんよ? あれは私たちとは随分と感性が違っている』
『あは。そこが良いじゃないですか』
ひっそりと会話をしていたリズとノーラだが、「おおっ!?」とまた風見が声を上げて先に行ってしまったために慌てて後を追った。
長剣を持つ騎士が道端で話し込む様。
耳と尾を持った亜人がそこら中を歩く様。
人の目の前をひゅんと飛んでいく妖精たち。
噴水前の広場では人の輪ができ、炎や電気の律法が大道芸のように披露されていた。
風見はそんな様を飽きもせずに見続ける。ようやく落ち着いた頃には一時間近くが経っていた。
「はあ、満足だ満足。こっちの世界は目新しいものがいっぱいだな」
「風見様の世界には同じものはないのですか?」
「いや、猫とか犬とか、あと見たことがある植物もいっぱいある。ほら、例えばあそこにあるのはキョウチクトウだよな?」
「そうですね。歴代の猊下が種子を持ち込んだそうでキョウチクトウという名前も広く伝わっています。このあたりでは自生しているものも多いそうですよ。その他に麦などはこちらでも広く使われていますね」
「意外にたくさんの繋がりがあるもんなんだな」
道理で見たことがあるものも多いわけだと納得したちょうどその時、くぅと風見の小腹が鳴いた。昼時なのにまだ何も食べていなかったお腹が、街の出店から漂う香りに刺激されてしまったらしい。
くすりと笑ったクロエは「私もお腹が空いたところです」と気を利かせてくれる。
「せっかくですし、昼食にいたしましょうか。当面の生活費はユーリス様よりいただいているのでご安心ください。風見様はどのような料理がお好みですか?」
「何でもいいな。とりあえずみんなで楽しく食べられるものにしよう。えーと、亜人も食べ物については大体同じものが食べられるって認識でいいのかな?」
ウサギなら草食だし、狼ならば基本的に肉食だ。少し離れたところに立っていた二人に、風見はずいっと歩み寄ると習いたての片言現地語で問いかけてみる。
『好物、ありますか? 好き、食べ物。私は教えてほしい』
『あ。えっ? これってその、もしかして周りの店で一緒に食べようってことですかね!?』
『知らんよ。とりあえず肉とでも答えればいいだろう? ノーラははしゃぎすぎだ。そんなことをしている間に誰かが襲ってきたらどうする』
『騎士が歩き回る帝都でそれは杞憂ですよ。それより団長は自分だけちゃっかり希望を言って! はいっはいっ! 猊下、ウチはハムが食べたいですっ!』
『おい、そこの草食種族』
ぴょんぴょんと跳ねて主張するノーラに、リズはジト目を向ける。
風見としては簡潔な答えが欲しかったのだが、返ってきたのはこんな山ほどの単語だ。必死に聞き取ろうとはしたが拾いきれなかった彼が、クロエに通訳を求めたのは言うまでもない。
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