チューリップと画家

中村湊

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チューリップ

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 デートの日以来、アイリスは彼となかなか会えず2週間が経とうとしていた。食堂に行っても、そこには、ハルとヴォルフの姿しか見えない。『描きたい絵が溜まっているらしくて』と、ヴォルフが申し訳なさそうに言う。
 事実、モーネスへの絵画の注文は溜まっていたのだ。描くというエネルギーを今、彼自身がやっとぶつけられている状態に入っているらしい。ハルも、彼が使うカンヴァスやデッサン帳、絵の具などを取りそろえる仕事も多くなったと話している。

 アイリスは、美術回廊での手入れが終わった帰り道に、懐かしい顔に出会った。柔和な笑顔と、刻まれた皺、少し白髪交じりの紳士。後ろに控え、細目に厳しめの瞳が彼女に気づくと和らいだ笑顔を向ける。

 「アイリス、久方ぶりだね? 元気そう、とは……まぁ、言いがたいか」
 「フルフィルメント侯爵様。先日の生地と仕立て、ありがとうございます。わたしは、変わらず絵画の手入れをさせていただいています」
 「こやつが、君が居なくなってから寂しがってな」
 「こほんっ、旦那様? わたくしめがいつ、寂しがっていると?」
 「まぁ、立ち話も疲れるだろう。トーナルに言って、私の部屋で少し話をしないか? アイリス?」

 軽く礼をし執事は颯爽とトーナルと話しを付けてきて、侯爵の王宮での私室で茶席を設けた。侯爵家にいた時は、執事や料理長と3人で良くお茶をしていた。
 立場上、侯爵が加わることは難しかったがこの王宮での場合、王宮画家の居住区に住まう画家をはじめ侍女においても少々立場が変わる。
 高位貴族などの誘いによる茶席や食事には、誘いを受けて共に時間を過ごすことを許される。王宮内においてのみに限ってだが。特にフルフィルメント侯爵は、絵画への知識や援助などの関係から王宮内に私室を設けるのを許された数少ない貴族。

 王宮内でのこのような時間は、王宮画家と貴族たちが絵画の注文を受けたりするためでもあり、貴族の中には侍女のリボンを贈り逢瀬をすることにも繋がる。

 「まぁ、この部屋は相変わらず私の趣味の絵画の資料が主だが……気になる本があれば、また貸しても良い」
 「ありがとうございます」
 「それにしても……風の噂で耳にしたが、チューリップの画家紳士と縁深いようだな?」
 「そ、それは……侯爵様のお耳汚しに……」
 「いや、私としては嬉しいのだ。君が、少ない身内である君の心を動かした紳士なのだからな」
 「わたし、侯爵様の思っているような……」
 「なにか心配ごとでもあるのか? なに、これでも亡くした妻との恋物語を聞いた君ならわかるだろうが。この後ろに控える男も相当な恋の手練れだぞ?」

 侯爵は笑顔で胸を軽く叩いた。アイリスは、思わずほころび笑顔になっていた。その表情を見たフルフィルメント侯爵と執事は、ますます喜び、彼女の話しを少しずつ聞いていた。
 アイリスは、話した最後には涙を流して、「もう、遅いのでしょうか?」と嘆いている。今までの彼女からは想像だにしなかった、大きな変化。
 王宮への勤めになって1年足らずで、彼女の感情は蕾から膨らみ花開き始めている。その花を育てたのが、【チューリップ】の画家。モーネス。
 ひとしきり話し、涙もおさまり。ゆっくりと温かい紅茶を飲んで、部屋から退出していった。
 フルフィルメントは、執事の方を見やると「これは、我が姪のためにもひと肌脱がねばならぬか?」と真剣に言う。「旦那様の真剣は、度が過ぎますから……トーナル氏にも加わっていただけるとわたくしめとしては助かりますが?」と、老執事の手練れもニヤリとしていた。

 「それで、わたしの所に協力と言う名の恋の仲人をせよ? と?」
 「いや、人聞きの悪い言い方をしないでくれ。トーナル」
 「まぁ、わたしも心配ではいたんですよ。アイリスとモーネスの件は……なにしろ、今、モーネスの絵画の描いている状態と言うのが……見ていられないのでね」
 「あの男が、か?」

 小さく頷くトーナルは、向かい合って座っていたソファーから立ち上がり部屋の奥にあった小さなカンヴァスの絵画をテーブルに置いた。
 チューリップ。には、違いない。しかし、彼の描いているチューリップは、今までの絵画とは違い荒々しい感情の昂りと求めてやまない色、そして露わに描いているモノ。姿ができてきている。
 窓辺のテーブルに花瓶とチューリップの花。それを優しい表情で慣れた手つきで手入れをしているであろう侍女。特別なリボンの印をしている、侍女。明らかにアイリス。

 「今は伏せているが……これが露見すると、彼の立場が危ういのですよ。フルフィルメント侯爵」
 「ふむ……私としては、一個人としては喜ばしいと言わせていただきたいが。露見するのは時間の問題か……それは、こちらで対処しよう」
 「助かります」
 「それから、モーネスと同じく道を見つけた者がいまして。ヴォルフ、知っているかと思います」
 「あぁ、彼も良い絵を描く」
 「これです」
 「これもまた……違った道を選んだな。だが、良い」

 フルフィルメント侯爵は、控えの執事に耳打ちし2つの絵画を梱包し絵画鞄に仕舞わせた。

 「さて、この後のことは私に任せてもらいたい。君なら、分かってくれると思う。彼の遺志を継げる者を、これ以上、亡くし、彼女の心を本当の意味で失いたくはないのだ」
 「……わかっています。同じてつをわたしも踏みたくはないのです」

 ゆっくりと口に紅茶を運び、飲み終えると侯爵はトーナルの部屋から出ていった。

 それから、モーネスの新しい絵画が出来上がる度に、王宮から姿を消した。ヴォルフの絵画も同じだった。
 王宮画家たちの多く、いや、彼ら以外は、変わらずブリューワー派の絵画を描いている。しかし、彼らも気づいている。肌で、筆で、絵画の変革の時期であると……ブリューワー派の絵画の中に居ながら、少しずつ変化している。自分の絵画というものを、得るのだから……。
 筆使い、色合い、塗り方。デッサンの仕方。カンヴァスで仕上げていく時の自身と絵画との向き合い方。心が変化すれば、色もなにもかも変わる。

 美術回廊の絵画も微妙に変化した。
 落ち着いた色合いで日常の中の非日常の絵画たちから、柔らかい陽射しの中にいるような温かみを感じる日常の絵画へと絶妙な色の変化で。
 王宮画家の中で、それを創めた男は今はとうに居ないが、その遺志を継いだ画家はいたのだから。

 美術保管庫の【チューリップ】を初めて観たモーネスは、その日から、その絵画を超えるような自分の絵画を模索してきた。
 そして、彼女に出逢った。

 『心が初めて揺さぶられました』

 感情が欠落した侍女と言われていた彼女の、あの時の表情。瞳。唇の動き。
 彼女の感情はあると、蕾になり、蕾が膨らみ、花開き始めた彼女。愛しい花を、傍で一緒に……。

 絵筆に想いのたけと、色で塗りこめていく。彼女への想いを……。

 「好きでは、足らない。愛している、アイリス」

 新たな一枚の絵画は、チューリップだけでなく春の季節に咲く花の庭園が描かれており。その中に佇む女性を描いていた。
 王宮の庭園で、画家の静物画のためだったであろう花を選んでいる時の彼女をデッサンした姿。寂しげな瞳で、どこか花をそこから切り離すのを躊躇う彼女の表情。

 【庭園の花】

 裏に鉛筆で走り書きした。仮の題名だが、彼の中の花は庭園に佇む女性でもあり、庭園に咲いている花々でもある。
 昇華しきれない想いと、絵画への想い。彼女に、再び、想いを告げたい。あの時のように、傷つけたくはない。自分の想いと欲求だけで、彼女を戸惑わせたくは……ない。
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