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1巻
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狸塚という苗字は、千登世も初め全く漢字変換できなかった。こういう風に書くんよ、と永之丞に教えてもらった時にはびっくりしたものだ。
だって、あまりにもストレートすぎる。正体を隠す気が全然ないじゃないかと言いたくなった。たぬきです、と名乗っているようなものだ。
「でも、少数だけど他にも狸塚さんって日本にいるんですね。気になっちゃって、あの後色々調べたんですけど」
くるんと毛先を内側に巻いたショートボブの彼女は、千登世と同期の安藤雪。
笑うと八重歯が覗いてチャーミングになる。
「難読苗字の人見ると、おぉってなっちゃうよね。私、昔、鬼虎さんってクラスメイトいたなぁ」
とは友理の発言。
「きとら?」
「鬼に虎できとら」
「すごい、強そう!」
「そういえば、高校の時の先生が五百旗頭さんでしたね」
そこにまたまた聞き慣れない苗字を出してきたのは、三つ後輩の紺野美玖だった。
胸元までの艶やかな濃茶のストレートヘアーをハーフアップにした彼女は、全身の装いと合わせて見ても大和撫子といった佇まいである。彼女はこの中では一番年下だが、そのおしとやかな見た目とは裏腹に物怖じしない性格で、人の懐に入るのがとても上手いと千登世は思っている。
お昼を食べる時は大体この三人と一緒のことが多い。と言っても決まりではなく、その日の気分によって今日は一人がいいとか、外に行きたいとか、それぞれ自由にしているので、実に気楽な関係だ。
「いおきべ」
千登世がひらがなであること丸分かりの発音で繰り返せば、美玖はスマホでささっと変換したものを見せてくれた。
「なるほどー」
そこからはそれぞれの知っている難読苗字ネタで盛り上がり、気が付いた時には昼休みの三分の二以上が過ぎていた。
「そろそろ戻ろっか」
「そうだね」
友理の声かけで四人連れ立って食堂を出るが、途中の階段で千登世は足を止める。
「あ、私、自販機でコーヒー買っていくから、先に戻っててください」
「了解~」
自分で淹れるコーヒーとは違い、既製品で丁度いい甘さのしっくりくるものを見つけるのはなかなか難しい。そんな中、三階の休憩所の自動販売機にだけある、とあるメーカーの商品は、千登世の好みに上手くマッチした。
なのでこのコーヒーを買うためだけに、千登世はよく三階のフロアを訪れる。
「アイスとホット、両方用意してくれてるのがまた嬉しいんだよね」
硬貨を取り出して、自動販売機の投入口に入れる。
そういえば、今日の晩ごはんはなんだろ。丞くん、駅前のスーパーでキャベツが安いから買ってきてって言ってたけど、それは明日以降だよね、とそんな取り留めもないことを考えながら、ホットのボタンを押そうとした時だった。
「先輩」
「わっ!」
いきなり背後に人の気配を感じて、千登世はその場で小さく飛び上がる。
「あぁ、紺野ちゃん、びっくりした……」
「すみません」
そこにいたのは美玖だった。他の二人と一緒に自部門のフロアに戻ったと思ったが、ここに来たということは、と千登世は素早く自分の缶コーヒーを購入して場所を空ける。
「大丈夫。紺野ちゃんも飲み物?」
しかし美玖は首を横に振った。
「いえ、私は先輩です」
「……んん?」
切れ長の瞳が、すっと千登世を見つめる。するとどうしてだか、千登世は美玖から目を逸らせなくなる。
「先輩にちょっと、ご相談したいことが」
「……私に?」
言われて、ちょっと千登世は戸惑ってしまった。
改まって〝ご相談〟ときた。
美玖とはそれなりに親しい関係ではあるが、それは会社に限った話で、プライベートでの付き合いは特にない。仕事では時に手助けをすることもあったが、彼女の入社時の教育係はさっきまで一緒だった安藤雪だ。そちらの方が、彼女にとっては相談しやすい相手だろうに。
もちろん、頼られたくないわけではないけれど、人選に少し違和感があった。それに、そもそも自分が上手く相談に乗れるのだろうかという心配もあり、千登世は微かに首を傾げる。
「仕事と関係のない、プライベートのことで申し訳ないんですが」
「う、うん」
プライベートな相談なら場所を改めた方がいいんじゃ、誰かに聞かれたら、と千登世は素早く辺りに視線を巡らせる。幸い近くに自分達以外の人影はなかった。
「実は私」
ずいっと真剣な表情の美玖の顔が近付いてきて、ごくりと無意識に唾を飲み込む。
だが。
「付き合っている人がいまして」
そう告げられた瞬間、千登世は全力で首を左右に振った。
(とんでもなく人選を間違えている‼)
「待って、それ私の専門じゃない!」
何一つためになるアドバイスができそうにない。けれど逃げ腰になった千登世の手を、逃すまいと言わんばかりに美玖は思いもよらぬ素早さと力強さで握ってきた。
「いーえ、先輩にしか頼めないんです!」
「いやいやいやいや、なんで? そんなことないと思うよ。いや、その、相談に乗りたくないってわけじゃなくて、ただ私、恋愛の経験値めちゃくちゃ低いし、きっとこれっぽっちもためになることは言えな……」
「そんなことないです!」
被せ気味に断言するその確信は、一体どこからくるのか。
なんだろう、どうしてなんだろうと、千登世は必死に自分が選ばれた理由を考える。
思い当たる節があるとしたら、一つだけ。そう、結婚だ。千登世は最近結婚したばかりの身だ。
もしかして相談とは、彼からプロポーズされるにはどうしたらいいかとか、彼からプロポーズされたけど返事に迷ってるとか、いやもう結婚は決めてるけど式場選びとかの参考意見を聞きたいとか、そういうことだろうか。
できることならお力になりたいし、最後のはちょっとくらいなら役に立てるかもしれない。だが、千登世の結婚相手は少々特殊なので、そもそも話せない部分が多いのだ。
あまり参考になるようなことは言えそうにないなと千登世が思っていると、美玖は前のめりの姿勢で力強く言い切った。
「だって、先輩からたぬきの匂いがぷんぷんするんですもん!」
「…………はい?」
「だから、先輩じゃないと駄目なんです!」
千登世は初め、美玖がなんと言ったのか上手く聞き取れなかった。いや、聞き取れなかったことにしたのかもしれない。
だって。まさか。そんなこと。
「えっと、ごめん……今なんて?」
空耳に違いない。でないとおかしい。
ドッと早鐘を打ち始めた心臓を意志の力で必死に抑えながら、千登世は今度こそしっかり耳を傾けた。
美玖の言葉を、一言一句聞き逃さないように。
「だから、先輩からたぬき臭が!」
だからこそ二度目はもう、耳の調子が悪いでは誤魔化せそうになかった。
はっきり、しっかり聞いてしまった。
美玖は確かにたぬきと、しかも匂いがぷんぷんすると言ったのだ!
(うそうそうそうそ、何かの間違い。そんなまさか、あるわけがない)
電車の扉が開いた瞬間、千登世は素早くホームへ降り立つ。足早に改札を抜けて大通りに出た頃には、半ば駆け足になっていた。
混乱と焦りで泣きたいのをなんとか堪えながら、すっかり日の暮れた住宅街を走る。
あの後、幸いと言うべきか昼休みの終了を告げる放送に全力で乗っかり、とりあえず戻ろう早く戻ろうと美玖を急かして、千登世は話をうやむやにした。そして、そのまま午後の業務に没頭したのだ。
せっかく頼ってきてくれたのにちゃんと答えもせず、定時になったと同時に逃げるように会社を飛び出してきてしまった。申し訳ないことをしたとは思っている。
でも。
「なんでっ⁉」
どうして美玖は、突然あんなことを言ったのだろう。
千登世の胸中は、不安で今にもはち切れそうな状態だ。
たぬきの匂い。
ピンポイントでそう言われたということは、これはもうバレているとしか思えない。
あやかしのことが。あやかしと関わりのあることが。
「それってどうなっちゃうんだろう」
あやかしは決して現世でメジャーな存在ではない。しれっと人の世に溶け込んではいるけれど、あやかしですと名乗っているわけではないのだ。
千登世だって、永之丞と出会うまでは、全くこれっぽっちも実在しているとは思わなかった。いたら夢があるよね、くらいのものである。
結婚するとなった時だって、両親には彼の正体を告げなかった。いや、告げられなかった。
両家の顔合わせの時、永之丞を筆頭に狸塚家の面々は綺麗に人間に化け、人間ですよという振る舞いでその場をやり過ごしてくれた。
だって、自分の家族があやかしや隠り世の存在を受け入れられるとは思えなかったから。仮に受け入れられたとしても、大きな秘密を一方的に打ち明けられ、それをその先ずっと黙って抱えていくのは負担だろうとも思った。
「あやかしが実在してるって、もし世間に知られたら……」
間違いなく大騒ぎになる。
「メディア、実験、誘拐、オークション」
嫌な想像が次々と浮かんできて千登世の恐怖を掻き立てる。
どうしよう、と困惑するのと同時に、他にもショックなことがあった。
「たぬきの匂いがぷんぷんって……」
美玖に言われた言葉が、別の意味で刺さっていた。
「私ってそんなに匂ってるのかなぁ⁉ 獣臭い⁉」
千登世は腕を鼻先に近付けてくんくんと嗅いでみたが、自分ではよく分からなかった。
「どうしよう……丞くんからも全然たぬき臭なんて感じないのに……もしかしてもう鼻が麻痺しちゃってるのかなぁ?」
デリケートな問題なので、ショックも大きい。何より、周囲に不快な思いをさせているのかもしれないと考えると、動揺せずにはいられない。
「でも……」
出会った当初から今まで、千登世は永之丞に何か特有の匂いを感じたことなどなかった。まして獣臭いなんて思ったことは、ただの一度もない。
「そうだよ。丞くんはいつだってシャンプーとかボディソープのいい匂いだよ。それと着物に焚き込んだお香の匂い。尻尾だって、毎日お手入れしてるし!」
だから、どう考えてもたぬき臭がぷんぷんしてるなんてことはないはずなのだ。
「なのにどうして……!」
ハイヒールの踵が忙しなくアスファルトを打つ音が路地に響く。ようやく我が家が視界に入ってきた瞬間、千登世はぐんと一段速度を上げた。そうして勢いよく自宅の引き戸を開き、転がり込むように上がり框のその向こうへ突き進む。
「丞くん……!」
この時間なら居間か台所だと思ったのに、そこに求めるひとの姿はなかった。
千登世は落ち着かない気持ちで家の中を見回し、廊下を曲がった先の和室から明かりが漏れているのに気が付く。
「丞くぅぅぅうん‼」
「おわっ!」
襖を開けると、そこには思った通り永之丞がいた。
千登世はタックルを食らわせる勢いで座っていた彼に抱き着く。
「と、とせちゃん……?」
そのあまりの勢いに一瞬ぐらついた永之丞だったが、驚く彼を余所に千登世は抱き止められた胸元に頭を突っ込み、その場ですーはーと深呼吸を繰り返した。
「待って待って、もしかせんでも匂い嗅いでる?」
嗅いでいる。思いっきり嗅いでいる。
嗅覚の全てを総動員して嗅いでいるが、やはりたぬき臭なんてしない。
「とせちゃん、ほんまどうしたん」
「丞くんはちゃんといい匂いだよ……!」
「あ、ありがとう」
着物に焚き染められたお香と、清潔感のあるニュートラルなボディソープの香り。それ以外は感じない。
「なのに、なんで……」
美玖はたぬきの匂いがするなどと言い出したのだろう。
それに、冷静になって考えてみるとおかしい。
美玖は断言したのだ。初めから、きっぱりとたぬきの匂いだと。
獣臭がすると言われるならともかく、それが犬なのか、はたまた猫なのか、瞬時に嗅ぎ分けられるものだろうか。
「たぬき独特の匂いがあるってこと……?」
あるとして、それを嗅ぎ分けられる美玖は一体何者なのだ。
実家が動物園で、幼少期から色んな動物の匂いに触れてたとか?
「とせちゃん」
絶対音感ならぬ、絶対嗅覚を持ち合わせているとか?
「とせちゃん、スキンシップは大歓迎なんやけど、今は、その、ちょっと……」
永之丞が何やらもごもご言っている。
けれど美玖の件で頭がいっぱいの千登世はそれどころではなかった。いや、それ以前に、周りの状況が全く見えていなかったのである。
そっと肩を掴まれ永之丞から引き剥がされて、ようやく千登世の意識が現実に浮上した。
「えっ⁉」
視界の端に、第三者の姿が映る。
「うそ……!」
千登世は一瞬で真っ青になり、そこから一転、じわじわと顔を赤くする。お客様が来ているというのに、とんでもない醜態を晒してしまった。
突然部屋に乱入し、夫の胸元に頭を突っ込んでくんくん匂いを嗅ぐ妻。どう見ても変態である。
あまりの失態に、千登世は今すぐ消えたいと心の底から思った。けれど思ったところで、どろんと姿を消す術はないし、やらかしてしまったことの取り返しはつかない。
「ごごご、ごめんなさい、すみません」
しどろもどろになりながら、千登世は永之丞とお客様に交互に頭を下げた。
「お客様がいらっしゃっていたのに気が付かず……本当にすみませんっ……!」
弁解が許されるのなら、決して普段から夫の匂いを嗅いでるわけじゃないんです、故あってのことで、今日のこれが初めてなんですと言いたかった。だが、それで先ほどのアレがなかったことになるわけではない。
千登世は頭を下げた状態のまま、じりじりと部屋の外へ向かって後退した。
とにもかくにも、非礼を詫びたのならこれ以上は迷惑にならないよう、一刻も早くこの場から退散するべきである。
「んん?」
ところが、お客様が、千登世に向かって唸り声を上げた。
「!」
驚いて視線を上げると、何故か凝視されていた。
千登世もこの段になって、お客様の姿をきちんと目に映す。
けもみみと尻尾がある。たぬきのそれとは違うけれど、永之丞のお客様であるということは、彼もあやかしに違いない。
人間が珍しいのだろうかと思っていると、相手の方が更にずずいっと距離を詰めてきた。
珍しがられている可能性を真っ先に考えたが、そうではないのかもしれない。先ほどの奇行が、決定的に相手の気分を害してしまった可能性もある。
そんなことを考えている間に、お客様が千登世のすぐ間近まで迫っていた。
さすがにこれは近すぎないだろうか。
千登世がそう思っていると、次に相手はすんすんと鼻をひくつかせる。
「え」
匂いを嗅がれてる⁉ と千登世がぎょっと身を竦めると、彼は急に大声を上げた。
「うっはぁ、この匂い‼」
「また⁉」
匂いという単語に、千登世は反射的にそう返してしまう。
自分の匂いを嗅がれて、おまけに〝この匂い〟とまで言われたのである。
嫌でも昼間の出来事を思い出してしまう。
これはもう否定できない。きっと千登世からはたぬきの匂いがぷんぷんしているのだ。お客様の鼻にまで届くほど、ばっちり。
なのにそれを自分では知覚できていないなんて、と千登世は愕然とする。
しかし、次にお客様の口から飛び出た言葉は予想外のものだった。
「美玖の匂い!」
「えぇと、つまり?」
結局部屋から逃げ損ねた千登世は、永之丞の隣でお客様と向かい合っていた。
「こちら、猫又の三ツ毛銀次くん」
永之丞の紹介に、銀次がぺこりと頭を下げる。
「なんやのっぴきならない相談事があるとかで、アポもなしにいきなり夕飯前に押しかけて来たどうしようもないヤツやけど、まぁ、悪いヤツでは……ない」
少々棘のある紹介だったが、銀次はもう一度頭を下げた。ぴょこんと生えた三角耳が揺れて、千登世は思わずそちらに目を奪われる。
「いや、ホントちょっと気が動転しちゃって、迷惑な時間にすみません。あの、永之丞先輩には昔から世話になってるんです」
「昔から……」
「学校の後輩なんやけど」
「学校って、あやかしの?」
「俺が通ってたんはそやね」
人に紛れて人の学校に通うあやかしもいるそうだが、大抵は隠り世にある学校に通うのだと永之丞は説明した。
「そんで、銀次? 人の奥さんの匂いを嗅ぐんはマナー違反やないか?」
千登世は隣に座る永之丞の顔を盗み見る。少し機嫌の傾いた表情を浮かべていた。
「いや、すみません。でも先輩、先輩の奥さんから匂いがしたんですもん!」
銀次のその言葉に千登世の胸はまたもやっとしたが、今度はそれほどでもない。
何故なら、彼は美玖の匂いがすると言ったからだ。
このタイミングで出てくるということは、彼の言う美玖とは千登世の後輩である紺野美玖に違いない。
つまり銀次は、彼女のことを知っているということだ。
とはいえ、自分から美玖の匂いがすると言われても、千登世にはよく分からないのだが。美玖は香水の類いをつけていないし、匂いが移るほどの接触もなかったはずである。
「はいはい、えぇっと、なんやっけ?」
「美玖です」
「そう、その美玖っていう子が、さっきから銀次が騒いでる、破局寸前の恋人さんなんやろ?」
「恋人⁉」
千登世は目を丸くした。だがそういえば美玖の相談事の内容も、恋愛関係だったと思い出す。
「え、え、本当に? そうなの? 紺野ちゃん、猫又のあやかしさんが彼氏なの?」
しかし破局寸前とは穏やかでない。
「で、その彼女は、とせちゃんの会社の後輩やと」
「すごい偶然だね……」
そう千登世が呟けば、そんなものだと永之丞はさらりと言う。
「縁は、互いに引き寄せられるもんでもあるから」
「いや、でもこんな身近に、人間とあやかしの異種族カップルがいたとは驚きの事実……」
もしかすると千登世が知らないだけで、案外、そこかしこに存在しているのかもしれない。
「とせちゃん、それはちゃうよ」
しかし千登世のその考えは、すぐに二人によって修正された。
「異種族は異種族ですけど、奥さんみたいに人間じゃなくて、美玖は狐のあやかしです」
「えぇっ!」
美玖が人間ではなく、狐のあやかし。
「そんな、え、だってどこからどう見ても」
千登世の目には彼女は人間にしか見えない。違和感を抱いたことだって、今まで一度もなかった。見た目だけではなく、言動も含めての話だ。
でも、美玖があやかしだと言うのなら、たぬきの匂いと言い当てられたことにも説明がつくかもしれない。人間業じゃないと思ったが、あやかしならば優れた嗅覚を持っている可能性もある。
それに、と千登世は内心ホッと息を吐いた。マスコミ、実験、誘拐、オークションなんて怖い想像もしてしまったが、美玖も永之丞と同じあやかしならそういった心配はいらないだろう、と。
「で、とせちゃん」
「は、はい」
「とせちゃんはとせちゃんで、何かあったんやろ?」
永之丞がそう訊いてくれたおかげで、ここにきて、先ほどの奇行について弁解の機会が巡ってきた。千登世はこれでちゃんと説明できると、さっそく昼間の出来事について語った。
「自分でも気付かないうちにたぬき臭を放ってたなんて……」
「あぁ、それで帰ってきた途端にあんなことを」
「そうなの。理由あってのことだったの。周りが見えてなかったのは本当に申し訳なかったけど、でも確かめても丞くんから特別な匂いとかしないと思う……」
念のため、もう一度自分の腕の匂いも確かめてみる。でもやっぱり千登世には、洗剤の匂い以外は何も感じられなかった。
「いや、でもとせちゃん、これは別に実際匂うって話じゃなくて」
「そうですそうです、そんなに落ち込まないでください」
「いえ、でもばっちり言い当てられたのは事実なんで」
二人が慰めるように口々に言ってくれるが、千登世は力なく首を振ってそれを退ける。
「いやいや、あやかしには鼻のいいヤツは確かに多いですけど、それ以前にもっと直感的な部分で、他者を察知する本能があるんです」
だがなおもフォローするように、銀次が言葉を重ねた。
「……本能?」
「はい。なんて言ったらいいのかな……気配、妖気の残滓みたいなもので、正確には鼻で匂いを嗅ぎ分けてるわけじゃないんです。でもそれを言葉で表現しようとすると、匂いって言い方になっちゃうんですよね」
「そうそう、ほら、この事件は匂うなとか、あぁいう比喩みたいなもので。いや、それもちょっとちゃうかな……」
「つまり、実際匂ってるわけではない?」
「ないない」
普通の人間には分からないものだし、あやかしにとっても特別不快なものではないと聞いて、ようやく千登世は安心した。
ただし折り合いの悪い種族のものだと別やけど、と永之丞は付け足す。
「ちなみに、たぬきと狐は……」
先日この家を訪れた紫暢が狐との化かし合いの勝負をしたと言っていたことを思い出して、不安になる。
「相手によるな。そもそも系譜も沢山あるし、種族全体がいがみ合ってるわけやないから」
「なるほど……?」
だがこの様子だと、永之丞と美玖の間に深刻な問題はなさそうだった。
だって、あまりにもストレートすぎる。正体を隠す気が全然ないじゃないかと言いたくなった。たぬきです、と名乗っているようなものだ。
「でも、少数だけど他にも狸塚さんって日本にいるんですね。気になっちゃって、あの後色々調べたんですけど」
くるんと毛先を内側に巻いたショートボブの彼女は、千登世と同期の安藤雪。
笑うと八重歯が覗いてチャーミングになる。
「難読苗字の人見ると、おぉってなっちゃうよね。私、昔、鬼虎さんってクラスメイトいたなぁ」
とは友理の発言。
「きとら?」
「鬼に虎できとら」
「すごい、強そう!」
「そういえば、高校の時の先生が五百旗頭さんでしたね」
そこにまたまた聞き慣れない苗字を出してきたのは、三つ後輩の紺野美玖だった。
胸元までの艶やかな濃茶のストレートヘアーをハーフアップにした彼女は、全身の装いと合わせて見ても大和撫子といった佇まいである。彼女はこの中では一番年下だが、そのおしとやかな見た目とは裏腹に物怖じしない性格で、人の懐に入るのがとても上手いと千登世は思っている。
お昼を食べる時は大体この三人と一緒のことが多い。と言っても決まりではなく、その日の気分によって今日は一人がいいとか、外に行きたいとか、それぞれ自由にしているので、実に気楽な関係だ。
「いおきべ」
千登世がひらがなであること丸分かりの発音で繰り返せば、美玖はスマホでささっと変換したものを見せてくれた。
「なるほどー」
そこからはそれぞれの知っている難読苗字ネタで盛り上がり、気が付いた時には昼休みの三分の二以上が過ぎていた。
「そろそろ戻ろっか」
「そうだね」
友理の声かけで四人連れ立って食堂を出るが、途中の階段で千登世は足を止める。
「あ、私、自販機でコーヒー買っていくから、先に戻っててください」
「了解~」
自分で淹れるコーヒーとは違い、既製品で丁度いい甘さのしっくりくるものを見つけるのはなかなか難しい。そんな中、三階の休憩所の自動販売機にだけある、とあるメーカーの商品は、千登世の好みに上手くマッチした。
なのでこのコーヒーを買うためだけに、千登世はよく三階のフロアを訪れる。
「アイスとホット、両方用意してくれてるのがまた嬉しいんだよね」
硬貨を取り出して、自動販売機の投入口に入れる。
そういえば、今日の晩ごはんはなんだろ。丞くん、駅前のスーパーでキャベツが安いから買ってきてって言ってたけど、それは明日以降だよね、とそんな取り留めもないことを考えながら、ホットのボタンを押そうとした時だった。
「先輩」
「わっ!」
いきなり背後に人の気配を感じて、千登世はその場で小さく飛び上がる。
「あぁ、紺野ちゃん、びっくりした……」
「すみません」
そこにいたのは美玖だった。他の二人と一緒に自部門のフロアに戻ったと思ったが、ここに来たということは、と千登世は素早く自分の缶コーヒーを購入して場所を空ける。
「大丈夫。紺野ちゃんも飲み物?」
しかし美玖は首を横に振った。
「いえ、私は先輩です」
「……んん?」
切れ長の瞳が、すっと千登世を見つめる。するとどうしてだか、千登世は美玖から目を逸らせなくなる。
「先輩にちょっと、ご相談したいことが」
「……私に?」
言われて、ちょっと千登世は戸惑ってしまった。
改まって〝ご相談〟ときた。
美玖とはそれなりに親しい関係ではあるが、それは会社に限った話で、プライベートでの付き合いは特にない。仕事では時に手助けをすることもあったが、彼女の入社時の教育係はさっきまで一緒だった安藤雪だ。そちらの方が、彼女にとっては相談しやすい相手だろうに。
もちろん、頼られたくないわけではないけれど、人選に少し違和感があった。それに、そもそも自分が上手く相談に乗れるのだろうかという心配もあり、千登世は微かに首を傾げる。
「仕事と関係のない、プライベートのことで申し訳ないんですが」
「う、うん」
プライベートな相談なら場所を改めた方がいいんじゃ、誰かに聞かれたら、と千登世は素早く辺りに視線を巡らせる。幸い近くに自分達以外の人影はなかった。
「実は私」
ずいっと真剣な表情の美玖の顔が近付いてきて、ごくりと無意識に唾を飲み込む。
だが。
「付き合っている人がいまして」
そう告げられた瞬間、千登世は全力で首を左右に振った。
(とんでもなく人選を間違えている‼)
「待って、それ私の専門じゃない!」
何一つためになるアドバイスができそうにない。けれど逃げ腰になった千登世の手を、逃すまいと言わんばかりに美玖は思いもよらぬ素早さと力強さで握ってきた。
「いーえ、先輩にしか頼めないんです!」
「いやいやいやいや、なんで? そんなことないと思うよ。いや、その、相談に乗りたくないってわけじゃなくて、ただ私、恋愛の経験値めちゃくちゃ低いし、きっとこれっぽっちもためになることは言えな……」
「そんなことないです!」
被せ気味に断言するその確信は、一体どこからくるのか。
なんだろう、どうしてなんだろうと、千登世は必死に自分が選ばれた理由を考える。
思い当たる節があるとしたら、一つだけ。そう、結婚だ。千登世は最近結婚したばかりの身だ。
もしかして相談とは、彼からプロポーズされるにはどうしたらいいかとか、彼からプロポーズされたけど返事に迷ってるとか、いやもう結婚は決めてるけど式場選びとかの参考意見を聞きたいとか、そういうことだろうか。
できることならお力になりたいし、最後のはちょっとくらいなら役に立てるかもしれない。だが、千登世の結婚相手は少々特殊なので、そもそも話せない部分が多いのだ。
あまり参考になるようなことは言えそうにないなと千登世が思っていると、美玖は前のめりの姿勢で力強く言い切った。
「だって、先輩からたぬきの匂いがぷんぷんするんですもん!」
「…………はい?」
「だから、先輩じゃないと駄目なんです!」
千登世は初め、美玖がなんと言ったのか上手く聞き取れなかった。いや、聞き取れなかったことにしたのかもしれない。
だって。まさか。そんなこと。
「えっと、ごめん……今なんて?」
空耳に違いない。でないとおかしい。
ドッと早鐘を打ち始めた心臓を意志の力で必死に抑えながら、千登世は今度こそしっかり耳を傾けた。
美玖の言葉を、一言一句聞き逃さないように。
「だから、先輩からたぬき臭が!」
だからこそ二度目はもう、耳の調子が悪いでは誤魔化せそうになかった。
はっきり、しっかり聞いてしまった。
美玖は確かにたぬきと、しかも匂いがぷんぷんすると言ったのだ!
(うそうそうそうそ、何かの間違い。そんなまさか、あるわけがない)
電車の扉が開いた瞬間、千登世は素早くホームへ降り立つ。足早に改札を抜けて大通りに出た頃には、半ば駆け足になっていた。
混乱と焦りで泣きたいのをなんとか堪えながら、すっかり日の暮れた住宅街を走る。
あの後、幸いと言うべきか昼休みの終了を告げる放送に全力で乗っかり、とりあえず戻ろう早く戻ろうと美玖を急かして、千登世は話をうやむやにした。そして、そのまま午後の業務に没頭したのだ。
せっかく頼ってきてくれたのにちゃんと答えもせず、定時になったと同時に逃げるように会社を飛び出してきてしまった。申し訳ないことをしたとは思っている。
でも。
「なんでっ⁉」
どうして美玖は、突然あんなことを言ったのだろう。
千登世の胸中は、不安で今にもはち切れそうな状態だ。
たぬきの匂い。
ピンポイントでそう言われたということは、これはもうバレているとしか思えない。
あやかしのことが。あやかしと関わりのあることが。
「それってどうなっちゃうんだろう」
あやかしは決して現世でメジャーな存在ではない。しれっと人の世に溶け込んではいるけれど、あやかしですと名乗っているわけではないのだ。
千登世だって、永之丞と出会うまでは、全くこれっぽっちも実在しているとは思わなかった。いたら夢があるよね、くらいのものである。
結婚するとなった時だって、両親には彼の正体を告げなかった。いや、告げられなかった。
両家の顔合わせの時、永之丞を筆頭に狸塚家の面々は綺麗に人間に化け、人間ですよという振る舞いでその場をやり過ごしてくれた。
だって、自分の家族があやかしや隠り世の存在を受け入れられるとは思えなかったから。仮に受け入れられたとしても、大きな秘密を一方的に打ち明けられ、それをその先ずっと黙って抱えていくのは負担だろうとも思った。
「あやかしが実在してるって、もし世間に知られたら……」
間違いなく大騒ぎになる。
「メディア、実験、誘拐、オークション」
嫌な想像が次々と浮かんできて千登世の恐怖を掻き立てる。
どうしよう、と困惑するのと同時に、他にもショックなことがあった。
「たぬきの匂いがぷんぷんって……」
美玖に言われた言葉が、別の意味で刺さっていた。
「私ってそんなに匂ってるのかなぁ⁉ 獣臭い⁉」
千登世は腕を鼻先に近付けてくんくんと嗅いでみたが、自分ではよく分からなかった。
「どうしよう……丞くんからも全然たぬき臭なんて感じないのに……もしかしてもう鼻が麻痺しちゃってるのかなぁ?」
デリケートな問題なので、ショックも大きい。何より、周囲に不快な思いをさせているのかもしれないと考えると、動揺せずにはいられない。
「でも……」
出会った当初から今まで、千登世は永之丞に何か特有の匂いを感じたことなどなかった。まして獣臭いなんて思ったことは、ただの一度もない。
「そうだよ。丞くんはいつだってシャンプーとかボディソープのいい匂いだよ。それと着物に焚き込んだお香の匂い。尻尾だって、毎日お手入れしてるし!」
だから、どう考えてもたぬき臭がぷんぷんしてるなんてことはないはずなのだ。
「なのにどうして……!」
ハイヒールの踵が忙しなくアスファルトを打つ音が路地に響く。ようやく我が家が視界に入ってきた瞬間、千登世はぐんと一段速度を上げた。そうして勢いよく自宅の引き戸を開き、転がり込むように上がり框のその向こうへ突き進む。
「丞くん……!」
この時間なら居間か台所だと思ったのに、そこに求めるひとの姿はなかった。
千登世は落ち着かない気持ちで家の中を見回し、廊下を曲がった先の和室から明かりが漏れているのに気が付く。
「丞くぅぅぅうん‼」
「おわっ!」
襖を開けると、そこには思った通り永之丞がいた。
千登世はタックルを食らわせる勢いで座っていた彼に抱き着く。
「と、とせちゃん……?」
そのあまりの勢いに一瞬ぐらついた永之丞だったが、驚く彼を余所に千登世は抱き止められた胸元に頭を突っ込み、その場ですーはーと深呼吸を繰り返した。
「待って待って、もしかせんでも匂い嗅いでる?」
嗅いでいる。思いっきり嗅いでいる。
嗅覚の全てを総動員して嗅いでいるが、やはりたぬき臭なんてしない。
「とせちゃん、ほんまどうしたん」
「丞くんはちゃんといい匂いだよ……!」
「あ、ありがとう」
着物に焚き染められたお香と、清潔感のあるニュートラルなボディソープの香り。それ以外は感じない。
「なのに、なんで……」
美玖はたぬきの匂いがするなどと言い出したのだろう。
それに、冷静になって考えてみるとおかしい。
美玖は断言したのだ。初めから、きっぱりとたぬきの匂いだと。
獣臭がすると言われるならともかく、それが犬なのか、はたまた猫なのか、瞬時に嗅ぎ分けられるものだろうか。
「たぬき独特の匂いがあるってこと……?」
あるとして、それを嗅ぎ分けられる美玖は一体何者なのだ。
実家が動物園で、幼少期から色んな動物の匂いに触れてたとか?
「とせちゃん」
絶対音感ならぬ、絶対嗅覚を持ち合わせているとか?
「とせちゃん、スキンシップは大歓迎なんやけど、今は、その、ちょっと……」
永之丞が何やらもごもご言っている。
けれど美玖の件で頭がいっぱいの千登世はそれどころではなかった。いや、それ以前に、周りの状況が全く見えていなかったのである。
そっと肩を掴まれ永之丞から引き剥がされて、ようやく千登世の意識が現実に浮上した。
「えっ⁉」
視界の端に、第三者の姿が映る。
「うそ……!」
千登世は一瞬で真っ青になり、そこから一転、じわじわと顔を赤くする。お客様が来ているというのに、とんでもない醜態を晒してしまった。
突然部屋に乱入し、夫の胸元に頭を突っ込んでくんくん匂いを嗅ぐ妻。どう見ても変態である。
あまりの失態に、千登世は今すぐ消えたいと心の底から思った。けれど思ったところで、どろんと姿を消す術はないし、やらかしてしまったことの取り返しはつかない。
「ごごご、ごめんなさい、すみません」
しどろもどろになりながら、千登世は永之丞とお客様に交互に頭を下げた。
「お客様がいらっしゃっていたのに気が付かず……本当にすみませんっ……!」
弁解が許されるのなら、決して普段から夫の匂いを嗅いでるわけじゃないんです、故あってのことで、今日のこれが初めてなんですと言いたかった。だが、それで先ほどのアレがなかったことになるわけではない。
千登世は頭を下げた状態のまま、じりじりと部屋の外へ向かって後退した。
とにもかくにも、非礼を詫びたのならこれ以上は迷惑にならないよう、一刻も早くこの場から退散するべきである。
「んん?」
ところが、お客様が、千登世に向かって唸り声を上げた。
「!」
驚いて視線を上げると、何故か凝視されていた。
千登世もこの段になって、お客様の姿をきちんと目に映す。
けもみみと尻尾がある。たぬきのそれとは違うけれど、永之丞のお客様であるということは、彼もあやかしに違いない。
人間が珍しいのだろうかと思っていると、相手の方が更にずずいっと距離を詰めてきた。
珍しがられている可能性を真っ先に考えたが、そうではないのかもしれない。先ほどの奇行が、決定的に相手の気分を害してしまった可能性もある。
そんなことを考えている間に、お客様が千登世のすぐ間近まで迫っていた。
さすがにこれは近すぎないだろうか。
千登世がそう思っていると、次に相手はすんすんと鼻をひくつかせる。
「え」
匂いを嗅がれてる⁉ と千登世がぎょっと身を竦めると、彼は急に大声を上げた。
「うっはぁ、この匂い‼」
「また⁉」
匂いという単語に、千登世は反射的にそう返してしまう。
自分の匂いを嗅がれて、おまけに〝この匂い〟とまで言われたのである。
嫌でも昼間の出来事を思い出してしまう。
これはもう否定できない。きっと千登世からはたぬきの匂いがぷんぷんしているのだ。お客様の鼻にまで届くほど、ばっちり。
なのにそれを自分では知覚できていないなんて、と千登世は愕然とする。
しかし、次にお客様の口から飛び出た言葉は予想外のものだった。
「美玖の匂い!」
「えぇと、つまり?」
結局部屋から逃げ損ねた千登世は、永之丞の隣でお客様と向かい合っていた。
「こちら、猫又の三ツ毛銀次くん」
永之丞の紹介に、銀次がぺこりと頭を下げる。
「なんやのっぴきならない相談事があるとかで、アポもなしにいきなり夕飯前に押しかけて来たどうしようもないヤツやけど、まぁ、悪いヤツでは……ない」
少々棘のある紹介だったが、銀次はもう一度頭を下げた。ぴょこんと生えた三角耳が揺れて、千登世は思わずそちらに目を奪われる。
「いや、ホントちょっと気が動転しちゃって、迷惑な時間にすみません。あの、永之丞先輩には昔から世話になってるんです」
「昔から……」
「学校の後輩なんやけど」
「学校って、あやかしの?」
「俺が通ってたんはそやね」
人に紛れて人の学校に通うあやかしもいるそうだが、大抵は隠り世にある学校に通うのだと永之丞は説明した。
「そんで、銀次? 人の奥さんの匂いを嗅ぐんはマナー違反やないか?」
千登世は隣に座る永之丞の顔を盗み見る。少し機嫌の傾いた表情を浮かべていた。
「いや、すみません。でも先輩、先輩の奥さんから匂いがしたんですもん!」
銀次のその言葉に千登世の胸はまたもやっとしたが、今度はそれほどでもない。
何故なら、彼は美玖の匂いがすると言ったからだ。
このタイミングで出てくるということは、彼の言う美玖とは千登世の後輩である紺野美玖に違いない。
つまり銀次は、彼女のことを知っているということだ。
とはいえ、自分から美玖の匂いがすると言われても、千登世にはよく分からないのだが。美玖は香水の類いをつけていないし、匂いが移るほどの接触もなかったはずである。
「はいはい、えぇっと、なんやっけ?」
「美玖です」
「そう、その美玖っていう子が、さっきから銀次が騒いでる、破局寸前の恋人さんなんやろ?」
「恋人⁉」
千登世は目を丸くした。だがそういえば美玖の相談事の内容も、恋愛関係だったと思い出す。
「え、え、本当に? そうなの? 紺野ちゃん、猫又のあやかしさんが彼氏なの?」
しかし破局寸前とは穏やかでない。
「で、その彼女は、とせちゃんの会社の後輩やと」
「すごい偶然だね……」
そう千登世が呟けば、そんなものだと永之丞はさらりと言う。
「縁は、互いに引き寄せられるもんでもあるから」
「いや、でもこんな身近に、人間とあやかしの異種族カップルがいたとは驚きの事実……」
もしかすると千登世が知らないだけで、案外、そこかしこに存在しているのかもしれない。
「とせちゃん、それはちゃうよ」
しかし千登世のその考えは、すぐに二人によって修正された。
「異種族は異種族ですけど、奥さんみたいに人間じゃなくて、美玖は狐のあやかしです」
「えぇっ!」
美玖が人間ではなく、狐のあやかし。
「そんな、え、だってどこからどう見ても」
千登世の目には彼女は人間にしか見えない。違和感を抱いたことだって、今まで一度もなかった。見た目だけではなく、言動も含めての話だ。
でも、美玖があやかしだと言うのなら、たぬきの匂いと言い当てられたことにも説明がつくかもしれない。人間業じゃないと思ったが、あやかしならば優れた嗅覚を持っている可能性もある。
それに、と千登世は内心ホッと息を吐いた。マスコミ、実験、誘拐、オークションなんて怖い想像もしてしまったが、美玖も永之丞と同じあやかしならそういった心配はいらないだろう、と。
「で、とせちゃん」
「は、はい」
「とせちゃんはとせちゃんで、何かあったんやろ?」
永之丞がそう訊いてくれたおかげで、ここにきて、先ほどの奇行について弁解の機会が巡ってきた。千登世はこれでちゃんと説明できると、さっそく昼間の出来事について語った。
「自分でも気付かないうちにたぬき臭を放ってたなんて……」
「あぁ、それで帰ってきた途端にあんなことを」
「そうなの。理由あってのことだったの。周りが見えてなかったのは本当に申し訳なかったけど、でも確かめても丞くんから特別な匂いとかしないと思う……」
念のため、もう一度自分の腕の匂いも確かめてみる。でもやっぱり千登世には、洗剤の匂い以外は何も感じられなかった。
「いや、でもとせちゃん、これは別に実際匂うって話じゃなくて」
「そうですそうです、そんなに落ち込まないでください」
「いえ、でもばっちり言い当てられたのは事実なんで」
二人が慰めるように口々に言ってくれるが、千登世は力なく首を振ってそれを退ける。
「いやいや、あやかしには鼻のいいヤツは確かに多いですけど、それ以前にもっと直感的な部分で、他者を察知する本能があるんです」
だがなおもフォローするように、銀次が言葉を重ねた。
「……本能?」
「はい。なんて言ったらいいのかな……気配、妖気の残滓みたいなもので、正確には鼻で匂いを嗅ぎ分けてるわけじゃないんです。でもそれを言葉で表現しようとすると、匂いって言い方になっちゃうんですよね」
「そうそう、ほら、この事件は匂うなとか、あぁいう比喩みたいなもので。いや、それもちょっとちゃうかな……」
「つまり、実際匂ってるわけではない?」
「ないない」
普通の人間には分からないものだし、あやかしにとっても特別不快なものではないと聞いて、ようやく千登世は安心した。
ただし折り合いの悪い種族のものだと別やけど、と永之丞は付け足す。
「ちなみに、たぬきと狐は……」
先日この家を訪れた紫暢が狐との化かし合いの勝負をしたと言っていたことを思い出して、不安になる。
「相手によるな。そもそも系譜も沢山あるし、種族全体がいがみ合ってるわけやないから」
「なるほど……?」
だがこの様子だと、永之丞と美玖の間に深刻な問題はなさそうだった。
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