上 下
14 / 42
~カイン・イリューヴェル編~

竜の皇子と王兄姫、戸惑いの距離8~カイン×幸希~

しおりを挟む

 ――Side カイン


「ん……、朝、か?」

 起きろと急かしてくるような眩しさを瞼の裏で感じ、意識が闇の中から這い上がった。
 ぼんやりとした視界、それが徐々に現実の色を俺の中に流し込んでくる……。
 ゆっくりと何度か瞬きを繰り返し、ふと……、自分の肌に感じる温もりに視線を落とした。
 
「……あ?」

 俺も素っ裸だが、肌に密着している蒼い髪の女の、同じく素っ裸の姿に、一瞬だけ思考が止まる。
 しっかりと絡まっている互いの両足、すりっと……、俺の胸板に懐いてくる女の顔。
 その小さくて柔らかい、今すぐに自分の熱で塞いじまいたくなっちまうその唇が、小さく俺の名を零す。

「カイン、さん……」

「――っ!!」

 おいおい……、寝起き早々に、なんつー凶悪な誘惑をしてくんだよっ!!
 まるで飼い主の傍で安心しきってる猫みてぇだが、無意識に煽ってくるんじゃねぇ!!
 ――昨日の夜に起こった『奇跡』が、俺の頭の中を凄まじい勢いで駆け巡っていく。
 心の底から本気で惚れた女を抱けた、夢のような夜……。
 この腕の中で乱れ始めた吐息、愛撫に震えながら熱を抱いた素肌。
 最後まで俺を見つめていた、喜びと怯えの果てに『女』へと変わった、愛しい存在。
 昨夜、夢でも、幻でもなく……、俺は。

「ユキ……」

 まだ夢の中にいるユキの身体を、起こさないようにそっと抱き締める。
 細くて柔らかな肢体、ほんのりと甘い女の香りが、この現実を夢のように感じさせてくるかのようだ。
 だが……、偽物なんかじゃねぇんだよな? これは、俺の感じている温もりは、全部本物だ。
 好きで好きで、惚れまくった唯一人の相手。ユキの全てを、俺は抱く事が出来た。
 胸を満たす、溢れ出る程の幸福感に心が震えちまう。
 
「やべ……」

 当然の反応といやぁ、当然、か。
 昨夜はユキの負担を考えて、求めたのは一度きり。
 別に不満はねぇし、俺も最高に幸せだったからいいんだが……。
 ふっ、男の性(さが)ってやつの面倒な生理現象は止めようがねぇよな。
 とりあえず、ユキを残してバスルームに……、っておい、全然離れねぇぞ、こいつ。
 
「むにゃ……、カイン、さん」

「くっ……、そんな可愛すぎる顔(つら)で誘惑してくんじゃねぇよっ」

 互いに全裸でヤバイとしか言い様がない準備OKの状態なんだぞ!!
 しかも、顔だけじゃなくて、胸まで押し付けてきやがるっ。
 あれか? こいつは無意識に襲われたがってんのか? 拷問を仕掛けんのも大概にしろよ!!
 必死にユキを起こさねぇように引き剥がしにかかるが、くそっ、慎重になればなるほど身動きがっ。

「あ、そうか」

 人の形で無理なら、竜体になっちまえばいいんだな。
 それを思いつき、俺はすぐに小せぇ竜の姿になってユキの温もりから抜け出す事に成功した。
 物凄く名残惜しい、つーか、滅多に甘えてこねぇ奴だから、ずっとひっついていたかったんだけどな。
 
(結構痛がらせちまったが……、その幸せそうな寝顔は、俺と結ばれた事を喜んでくれてる、って事だよな?)

 片想いをしていた頃のように、目が覚める幻なんかじゃなくて……。
 お互いの想いを感じ合って、最後まで結ばれたんだよな?

「好きだぜ、ユキ」

 子供みてぇな無防備さで眠るユキの顔を眺めながら人の姿に戻り、名残惜しさと共にその頬を撫でた後、俺はバスルームへと向かった。

 
 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「さーてと……、綺麗にしてやるか」

 洗面器に湯を張りタオルを手に戻ってきた俺は、昨夜の名残が残っているユキを身綺麗にしてやりたいと思い寝台に戻ってきた。
 あとで文句をぶつけられそうだが、気持ち悪いままにしておくよりは良いだろう。
 とりあえず、まずは心を落ち着けて……、これは作業だと自分に言い聞かせとかないとな。
 
「よっと……、出来れば終わるまで目ぇ覚ますなよ~」

「皇子君、おはよー」

 眠るユキを自分の腕に抱き起こし、心を無にして作業にかかろうとしたその時……。
 まさかのノックなしで面倒な二人組が入って来やがった!!
 一応俺は服を着てるわけだが、……ユキは、残念ながら全裸だ。
 ニコニコ野郎ことサージェスティンの方はあんまり動じてねぇみたいだが、同行してきたらしきルイヴェルの方は……。ヤベぇな……、全然目が笑ってねぇ!!

「カイン……」

「よ、よぉ! ルイヴェル、サージェス、い、良い天気、だなぁっ」

 何言ってんだ俺は!! 内心の強烈な動揺が俺の言語感覚を狂わせちまってる!!
 
「そうだな。外で遊ぶには丁度良いだろう……。準決勝の続きでもやるか」

「無表情のくせして殺る気満々かよ!!」

「ルイちゃんはユキちゃんのお兄さんみたいな存在だもんねー。まぁ、反応的には予想通りなんだけど。皇子君に何かあるとユキちゃんが悲しむから抑えようね、ね?」

 一瞬だけルイヴェルの野郎の深緑の瞳によぎった明確な殺意の気配。
 まぁ、俺だってもし番犬野郎やルイヴェルの立場だったら……、平静じゃいられねぇよな。
 ユキに、好きな女に絆を結んで貰えた奇跡が、たまたま俺の許に舞い降りただけ……。
 その幸せを自分から手放す気もねぇし、向けられる面倒な敵意だって正面から受け止めてやる。

「ルイヴェル、俺の事が気に入らねぇなら、いつでも相手になってやるよ。こいつの事をどれだけ好きか、本気で愛しているか、それを証明してやる」

 真紅の双眸に決意と闘気を滾らせ挑んでやれば、――アイツは満足そうに笑いやがった。
 それは小馬鹿にしているわけでも、俺を嘲っているわけでもない。
 ルイヴェルの中で何かが満たされた事を伝えてくるかのような、そんな表情。
 
「レイフィード陛下とユーディス殿下へも、そうやって胸を張って立ち向かうんだな」

 普段通りの、余裕のある低い声音でそれだけを言い残すと、ルイヴェルはサージェスを連れて部屋を去って行った。
 ……ど、どうにか過保護な王宮医師の怒りは避けられたが、そういえばそうだったな。
 ウォルヴァンシア王国に戻れば、今度は超、超過保護の姪御溺愛のレイフィードのおっさんと、ユキの親父さんが待ち受けてるんだった。
 ユキが成熟期を迎えて結婚の許しが出るまでは、絶対に一線を越えるなって、釘刺されてたんだよなぁ……。
 後悔はねぇが、あの最強のコンビを前に、とんでもねぇ目に遭う未来が見えて……。
 俺はぶるりと悪感を覚えて震え上がっちまう。
 いや、きっと話せばわかるよな? ユキを悲しませねぇ為にも、手加減してくれるよな?

「いや、何弱気になっちまってんだよ! 俺!! 男なら当たって砕けろだ!!」

 というわけで、今は結ばれた幸せを噛み締める事だけに意識を向けとこう。
 ある種の現実逃避だが、俺は目の前の幸福だけに酔い痴れる事で逃避を図る事にした。

 
 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「邪魔するぜ」

 案の定、目を覚まして事情を理解したユキに羞恥満載の文句をぶつけられた後、俺は昼食前に第二皇子である兄貴、グランヴェルトの執務室を訪ねた。
 ここに来るまでの間、まだ俺に対して警戒心を抱く野郎や女官の類に訝しげな視線を向けられたもんだが、それも自業自得だ。
 室内で仕事をしていた兄貴が顔を上げ、ただ無表情に俺を正面からその真紅の瞳に映した。

「どうした? また悪戯でもしに来たか?」

「嫌味かよ」

 まぁ、悪戯レベル以上の事を昔はやってたけどな。
 俺が訪ねて来た事に対して兄貴が不快さを表す事はなかったが、過去に散々迷惑をかけた事は事実だ。
 誰の声も届かず、自分の苦しみや境遇に嘆き暴れる事しか出来なかった……、ガキみてぇな自分。
 俺は執務机の前まで近づき、本題を切り出した。

「この前の、ユキを連れ出した場所はなんだ?」

「なんの話だ?」

「ユキと兄貴達が顔を合わせたあの日だよ。アイツを山に連れてったろ」

「後をつけたわけか……。だが、それに関してお前に説明する必要性はないだろう」

 顔色ひとつ変わらねぇ、その心の内が読めねぇ二番目の兄貴……。
 グランヴェルトは長男のアースシャルクとは正反対で、静かに佇む月のような男だ。
 余計な事は語らず、ただ黙々と自分の責務を果たすだけの皇子。
 俺がガキの頃から本当に変わんねぇよな……。

「俺の事が関係あるんだろ? そうでなけりゃ、ユキに口止めをする必要がねぇ」

「私に尋ねるよりも、兄上に尋ねた方が早く答えを得られるのではないか?」

 長男の方が攻めやすいのはわかるけどよ……。
 アースシャルク兄貴とは、俺が禁呪に命を奪われかけた際の犯人絡みで色々と接触し難いってわかってんだろうが。

「誤魔化されんのは好きじゃねぇからな。口を割らねぇなら、話す気になるまでここに居座ってやる気だが、どうする?」

「勝手にしろ。お前がいたところで、私の仕事に支障はないからな」

 ……相変わらずブレねぇな、こいつ。
 視線を手元の書類に戻し、すらすらと羽根ペンを走らせていくグランヴェルトに、居座ろうが怒鳴ろうが無駄だと、改めて悟る。
 こういうタイプの野郎は、尋問にかけようが拷問しようが、絶対に口を割らねぇだろう。
 仕方ねぇか……。

「邪魔したな」

 気は進まねぇが、アースシャルク兄貴の方に行ってみるか……。
 絶対ぇ気まずい空気が漂うんだろうが、頭の片隅にユキと兄貴達が一緒にいたあの場所の事が引っかかっている以上、きっとそれは俺にとって必要な何かに違いない……、気がする。
 だが、執務室を出る寸前に、グランヴェルト兄貴が。

「答えなど、聞くまでもない……」

 それは俺に向けられたものだったのか、ただの独り言だったのか……。
 ただ……、グランヴェルト兄貴の声音には、……哀愁のような気配が僅かに滲んでいた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「皇子君、どうしたのかなー?」

「おう。まだいたのかよ」

 続けて長男の方に突撃をかましてみたが、収穫はなし。
 優男の顔と性格しやがって、最後まで二番目の兄貴と同じように我を張りやがった。
 で、何も掴めねぇまま皇宮内を歩き回ってたら、サージェスの野郎とバッタリ。
 
「国に帰んなくていいのかよ?」

「休暇中だからねー。あと一日こっちを楽しんだら、次はウォルヴァンシアに行く予定だよ」

「来んな」

 俺とユキも、明後日にはウォルヴァンシアに帰る予定だが……、あっちに戻ってもこいつがいんのかよ。はぁ……。
 絡んでくるガデルフォーンの騎士を適当にあしらい、俺は次にどこへ向かうかを考えながら日差しの差し込む回廊を行く。だが、人を構う事が趣味のようなニコニコ野郎は、飽きもせず俺の後を追ってくる。

「何か悩み事があるならお兄さんが聞いてあげるよー?」

「いらねぇ」

「たとえば、皇子君のお兄さんが隠してる何か、とか」

「……いらねぇ」

 思わず足を止めかけたが、思い直して歩みを続ける。
 なんでこのニコニコ野郎が兄貴達と俺の件を知ってる風な口を叩くのかは知らねぇが、大方サージェスの独自情報網とやらに引っかかったんだろう。
 もしくは、兄貴達と俺の話をどっかで盗み聞きしていたか。
 どちらにしろ、サージェスの世話になる気はねぇから無視だ。

「……もう一回山に行ってみるか」

 回廊の外にある庭へと出た俺は、眩い日差しを右手で遮りながら目を細め呟く。
 もう一度あの場所に行けば……、何かが、答えを掴む為のヒントが、見つかる気がした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ふぅ……。この場所に、何があんだろうな」

 相変わらずのメルヘン的景色だが、前回に来た時と同じく、色鮮やかな花の褥が広がっている。
 時を経た巨木が番人のように、集まっている山の動物達を見守っているかのようだ。
 この場所に……、何がある? 俺の意識に引っかかっている何かの正体は……。
 とりあえず、前回よりも注意して歩き回ってみると、ふと……、ユキと兄貴達が笑っていた場所の近くに、真新しい土の盛り上がった部分を発見した。

「なんだ……。何かを埋めたような……」

 掘り返していいモンなのか……。迷ったものの、湧き上がった興味は消せなかった。
 巨木の片方の根元に出来ている土を見つめ、掘り返し始める。
 だが、途中で下に隠れているモンを掘り出されない為に、結界の類が仕掛けられている事に気付いた。
 兄貴達が仕掛けたモンか? 

「くそ……。なんでこんなモンがあんだよっ」

 こういう面倒な仕掛けは得意じゃねぇってのに……。
 一度土の中から手を引き抜き、俺はその場に胡坐(あぐら)を掻いた。
 
「こういうのが得意な奴、つーと……。ルイヴェルの野郎が便利なんだがなぁ」

「ルイちゃーん、皇子君がお願いしますってー」

「ほぉ……。挑戦もせず、すぐに人頼みなのはどうかと思うが、まぁいいだろう」

「――って、なんでいるんだよ!!」

 背後の日差しが遮られたと気づいた瞬間、まさかの二人組が気配もなく出てきやがった!!
 まぁ、サージェスとルイヴェルなら、俺の後を気付かれずに追う事ぐらい、朝飯前ってか。
 グッドタイミングだと喜ぶべきなのか、それとも趣味の悪ぃ真似してんじゃねぇと怒るべきなのか。
 微妙な顔で背後に立った二人を睨んでやると、ルイヴェルから「どけ」と上から目線で促され、場所を強制的に譲り渡す羽目になっちまった。
 土の中へと手を入れ、術の構成を分析し始めた白衣の男の後ろでそれを見守っていると……。

「定期的に術をかけ直しているようだが……。術式から感じられる気配は、お前の兄皇子二人のものだな」

「やっぱりか……」

「どうする? この下にある物は余程大切な物らしいが、許可を取る必要があるんじゃないか?」

 素直に言って許可を出すわけもねぇだろ……。
 ここにユキを連れて来た訳も、俺をのらりくらりと躱すような兄貴達だ。
 ねばったところで得られる答えは、望んだものとは正反対に決まっている。
 
「俺が責任をとる。やってくれ」

 ウォルヴァンシアが誇る、医術と魔術の名門、フェリデロード家の次期当主にかかればあっという間だった。
 結界は抗う事も出来ずにルイヴェルの干渉を受け消え去り……、中から引き上げられた物は。

「箱?」

「破損や汚れを防ぐ為の保存用の術もかかってるねー。何が入ってるのかな」

 大・中・小で言えば、真ん中あたりのサイズをした水色の箱。
 真四角の箱の表面には、『想い出』と綴られた紙が貼られている。
 つまり、兄貴達は自分達の想い出を表す何かを、この箱の中に入れてるって事か?
 けど、そんな物皇宮の自分の部屋にでも置いとけば良い話だろ……。
 まさか、恥ずかしい黒歴史的な何かとか言わねぇよな?
 ルイヴェルからそれを受け取った俺は、ゴクリと得体の知れねぇ緊張感に息を呑み、蓋を開けた。

「……アルバム?」

 記録(シャルフォニア)と呼ばれる術によって風景や人の、その時の姿を残せる。
 魔力領域に保存されるそれらは、必要があれば、写真(シャルフェ)と呼ばれる形として現実に形を残す事も出来るんだが……。それを納めたアルバムなのかもしれない。
 それ以外にもまだ何か入ってるみてぇだが、俺はまずそのアルバムの中を見る事にした。
 
「……あ?」

 なんだ、これ……。なんで、『こんなモン』がご丁寧に集められてるんだよ。
 手を震わせながらアルバムを凝視し始めた俺の様子を見ていた二人が、ひょいっと顔を寄せてくる。

「子供の写真か……」

「黒髪に真紅の瞳の可愛い男の子だねー。今の少し可愛くない大人の誰かさんとは、正反対だけど」

「意味わかんねぇよ……っ」

 なんで、兄貴達の隠したモンの中に、――俺のガキ時代の写真があるんだよ!!
 それも、成長を追って隠し撮りしたようなモンばかりじゃねぇか。
 写真に対するコメントまで綴られている……。
 なんだよ、なんだよ、これ……。何の為に、こんなモンを。

「ふざけんなよ……」

「だが、ここにある物は全て、兄皇子達の想いを表しているんじゃないか?」

「そうだねー。多分、表立って動けなかったせいなんじゃない?」

「……っ」

 俺が道を踏み外す原因になった、あの頃……。
 皇妃であり、正妃の座にあった母さんの腹から生まれた俺は、皇宮の権力者達からすれば、望まれない子供でしかなかった。
 第一皇子アースシャルクと、第二皇子グランヴェルト。
 それぞれの皇子を次期皇帝に推す奴らからの嫌がらせや、やがて差し向けられるようになった刺客。
 その中を必死に生き抜いて足掻いてきた俺を、一度だって兄貴達が救おうとしたか?
 ただ、俺と距離をとり……、見ないように、関わらないように平然とテメェの道を歩いてやがっただろうが。

「ふざけんな……。ふざけんなっ」

 本当は陰で俺の事を弟として認めて、わからないように気遣っていたとでも言うつもりかよ。
 お涙頂戴の三流劇じゃねぇか、こんなの……。
 
「なるほどな……。そりゃあ口止めするよなぁ。ユキを丸め込むには十分だ」

 乾いた嘲笑と、僅かに震えを帯びる自分の声。
 パラパラと捲ったアルバムを閉じると、その拍子に一枚の写真が地面に落ちた。
 どうせそれも俺の写真なんだろう。兄貴達の偽善を集めた、腹の立つ過去の残骸。
 胸の奥で複雑に混じり合う何かを持て余しながら、それを踏みつける。

「皇子君、君が可愛くない性格なのは知ってるけどね……。それ、お兄さん達の想い出だよ」

「うるせえっ!! 兄貴達の偽善に塗れた想い出なんか、全部燃やしてやるよ!! ――痛っ!」

 アルバムを地面に叩きつけようとした瞬間、サージェスが俺の頭を容赦なくはたきやがった。
 ついでにその場から邪魔だとばかりに蹴りをかまして、踏みつけられていた写真を拾い上げる。

「まぁ、君の立場じゃ、すんなり受け入れるとか、許すとか、出来ないとは思うよ。だけど、人の大切にしている物を、想いを勝手に踏み躙るような真似は絶対に許されないし、悲しいだけだよ」

「はっ、兄貴達の女々しい贖罪紛いのモンを受け入れろってか? 冗談じゃねぇよ」

「イリューヴェル皇家は、長寿の種族でありながら次期皇帝の選定や代替わりが特に激しい一族でもある」

「あ? 何言ってんだよ、ルイヴェル」

 箱の中から数枚の紙片を取り出しながらそれを読んでいたルイヴェルが、俺の方に視線を寄越してきた。
 イリューヴェル皇家の内情……。それは俺も知っちゃいるが、何の関係があんだよ。
 
「お前も知っての通り、先代のイリューヴェル皇帝は多くの女に囲まれ、国庫を荒らし尽した。その前の時代にも、何人か問題のある皇帝が国を乱し、自分の子や臣下に討たれた事が何度もある」

「だからなんだよ」

「その長い歴史の中で、万が一に対する危機感が強いのが、イリューヴェル皇家に関わる者達だ。本来であれば後継者の話など遠い先の未来であるというのに、お前は二人の兄皇子を推す者達によって排除されようとしていた。禁呪の件は、それが暴走した果ての面倒事だったが」

 第一皇子の母親の兄、つまり、アースシャルク兄貴の伯父が引き起こした最低最悪の醜聞。
 確かに、次期皇帝の座を正妃の息子として生まれた俺に渡らない様、あのおっさんは暴走しちまった。
 遥か先の未来、いや、イリューヴェル皇家に万が一の事態が起きて、親父が明日にも死ぬか、討たれるかの不安に駆られて……。
 親父の治世を考えりゃ、万が一の事態こそが起きねぇ確率大だってのに……。
 イリューヴェル皇家の歴史が、醜聞を晒した過去の皇帝達の末路が、悪い意味で後世に残っちまった。

「皇国内に湧いた蛆虫(うじむし)共が自分達の権力を保つ為に、さらなる蜜を啜る為に、裏で何をしてきたか……。ある意味で、お前の兄皇子達も犠牲者と言えるだろう」

「感謝しろってか? 陰で出来損ないの異母弟(おとうと)の成長を見守ってきた偽善だらけの兄貴達に」

 こんな物、見なけりゃ良かった。そうすりゃ、土を掘り返す前の自分でいられたんだ。
 痛みと、血が滲む程の強さで自分の手を握り締め、俺は掘り返したその場所を睨み付ける。
 
「兄皇子達の想いを否定するのも、放置するのもお前の自由だ。……だが、今のままのお前を皇宮に帰すと、あれが悲しむ」

「……」

「それに、お兄さん達と一緒に写っている皇子君も、悲しむんじゃないかな?」

「は? なに言って……」

 ユキを悲しませたくねぇのは俺も一緒だが、サージェスの寄越してきた言葉はなんだ? 
 俺が悲しむ? 一緒に写ってる、俺?
 差し出されたその写真は、さっき俺が踏みつけたものだろう。
 くしゃくしゃになったそれをサージェスがある程度まで整え、俺に見せてくる。

「……なん、で」

 場所は、俺が今いる花の褥が広がる滝の前。
 アースシャルク兄貴とグランヴェルト兄貴が……、子供の俺を挟んで、写っている。
 なんだよ、これ……。なんで俺が、兄貴達とこの場所で笑って写真を残してるんだっ。
 懐かしさを覚えたのは、この場所に来た事があったからなのか?
 写真の中の俺は幸せそうに笑って、無邪気に……。
 兄貴達も、その表情は穏やかだ。
 こんな記憶、俺は……。

『あーす、あにうえ~、ぐらんあにうえ~』

 頭の中で、ガキの頃の自分の声が、聞こえた気がした。
 花畑の中を走り回る無邪気な子供、それを見守りながら巨木の下で手を振っていたのは……。
 記憶の枷が外れ、一気に懐かしい記憶の波が俺を呑み込んでいく。
 そうだ……。俺は幼い頃に、兄貴達とこっそり皇宮を出て……、それで。
 三人だけの、秘密の場所と約束して……、あぁ、そうだ。

「この場所で、俺は兄貴達と会ってた。時々だったけど……、兄貴達と」

 イリューヴェル皇帝の座を巡る、争い合う立場としてじゃなく、ただの異母兄弟として……。
 それが終わったのは……、終わらせたのは。
 
「俺だ……」

 ガキなりに自分や兄貴達を取り巻く面倒事を自覚し始めた頃、もう一緒には遊べない、と……。
 俺が、手を差し伸べてくれていた兄貴達に壁を作った。
 自分の相手をしている事が表に出れば、三番目の皇子に優しい言葉をかけたり、その想いを向けていると、兄貴達が困るから、と。
 ずっと忘れていた……。あの日、兄貴達に深く頭を下げて、もう二度と関わらないようにと、頼んだ瞬間の記憶。
 それが悲しくて、自分で決めておきながら、辛すぎて……。
 その夜、俺は体調を崩して寝込む羽目になった……。
 幼い子供の決意は、やがて忘却を選び、……あぁ、本当に救い様のねぇ馬鹿だな。俺は。

「悪いのは全部、俺じゃねぇか……っ」

 その場に崩れ落ちた俺は、アルバムと一緒に受け取った写真を胸に抱き締めながら、らしくもなく、後悔の涙とやらを零しちまった。
 自分の人生を立て直した、と、昔よりも大人になれたと思っていたのに……。
 
「やっぱ……、ガキだな、俺は」

「俺とルイちゃんからすれば、お子様以下だけどねー。でも、その涙は無駄じゃないでしょ?」

「悔いる事も、成長のひとつと言うからな。サージェス、戻るぞ」

「はーい。じゃあ、皇子君、また後でねー」

「……おう」

 役目は果たしたとばかりに去っていくサージェス達を見送り、箱とアルバム、それから、兄貴達と三人で撮った写真を持って、俺は巨木の根元へと移動する。
 昔過ごした、温かな想い出に包まれたこの場所。
 箱の中に入っている写真を取り出し、俺の知らなかった兄貴達の裏側に目を通していく。
 元から気遣い屋のアースシャルク兄貴の丁寧な文字から感じられる当時の俺への想いにも涙が滲んだが、あのグランヴェルト兄貴まで細かに俺に対する本音を綴っているのには驚いた。
 皇宮での境遇に耐えられず、歪みだした後の事まで……、見捨てずに俺を見てたってのかよ。
 俺の成長と共に、兄貴達を縛る権力者達の監視の目が厳しくなった事や、俺が今自分の耳にしている真紅のピアスが、あの二人から母さんを通しての贈り物だった事。
 読めば読むほど……、視界が滲んでくるのは、なんで、なんだろうなぁ。

「はっ……、ブラコンかよ、アイツら」

 渡せなかった、誕生日の手紙まで入ってやがる。
 弟にここまでする兄貴なんか、なかなかいねぇんじゃねぇか?
 両目を手のひらの下に隠し、俺はその場に寝転がった。

「眩しい、からな……」

 誰が見ているわけでもねぇのに、何言い訳してんだか……。
 けど、思い出した記憶と、胸に溢れるこっ恥ずかしい幸福感は……。

「あったけぇなぁ……」
しおりを挟む

処理中です...