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征士視点③

1 ルナティック

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※征士視点です。
今までの話から少し時間を遡って、征士が二十一歳のときの話です。

 ロックグラスでウィスキーを一気に飲み干した。テーブルにグラスを置いて勢いよく注ぐ。ストレートのそれをまた喉に流し込んだ。
 ……どれだけ飲んだだろう。酒瓶が林立している。かなり派手に飲んでいる。グラスが手元の明かりを反射して光った。
 二十歳になってから酒を覚えた。どうも僕はアルコールに強い体質のようだ。それでも今日は飲みすぎていることを充分理解している。でもやめられない。
 琥珀の液体をあおったところで、ふと棚の一点に目が留まった。ベージュの分厚い一冊。僕が結婚したときにこの家に持ち込んだアルバムだ。
 立ち上がり、ふらふらと棚に近寄った。アルバムを手に取り、戯れに開く。

「……ふふ。懐かしい、な」

 アルコールでぼやけた僕の目に入ったのは、一枚の馬鹿馬鹿しい写真だった。何も知らない幼い僕の姿に、笑みがこぼれるとともに、少しばかり憤りも感じる。この頃の僕は今の苦労なんてわからないだろう。

『虹川くん。さっきのマーケティングの講義のノート見せて?』

 結婚しているにもかかわらず、大学で僕にぎゅうぎゅう身体を密着させる女子学生。わざとなのか、胸を腕に押し付けてくる。いくら何とも思っていない相手だろうと、久しく感じていない柔らかさには、心臓が高鳴ってしまう。

『虹川さん、資料を持ってきました。……今夜、お食事ご一緒にいかがです?』

 最近働き始めた虹川産業会社の若い女性社員は、何かといえば食事や飲みに僕を誘う。きっちりメイクした顔を僕の顔に近寄せながら。……誘惑、しているのだろう。女性特有の匂いを撒き散らしながら、僕に迫ってくる。

 薄暗い空間の中で、妻の月乃さんが寝返りを打った。先程から寝返りを繰り返している。今日も眠りが浅い様子だ。
 月乃さんは娘の知乃を生んだ後、産後鬱になってしまった。一番ひどい状態のときは、抗鬱剤三錠、睡眠薬も三錠服用していた。現在は抗鬱剤は抜けたが、睡眠薬一錠飲んでいる。薬を一錠ずつ減らす度、月乃さんは辛そうだ。

『急に仕事中、やる気が出なくなるの』
『あまり眠れていないからかしら。お昼過ぎくらいにすごく眠くなって、集中力がなくなって困るわ』
『一番辛いのは、病気を周囲にあんまり理解してもらえないことね。見た目だけ、多少話しただけじゃ、健康に思われるみたい』

 時々月乃さんは愚痴をこぼす。
 可哀想だとも思うが、僕だって辛い状況だ。彼女ばかりが辛いのではないと、つい恨みがましく見つめてしまう。見つめるだけでは飽き足らず、アルバムを持ったまま、ベッドにいる月乃さんの側へ行った。
 月明かりに照らされる、色白の美しい顔。僕はそっと輪郭を撫でた。僅かに触れただけだったが、月乃さんは目を覚ましてしまった。

「……征士くん?」

 僕を見上げる綺麗な瞳に堪えきれず、キスを落とす。月乃さんはぼんやりと無防備にキスを受け入れてくれた。

「……どうしたの、こんな夜中に。酔っているの?」

 アルコールの匂いで気付かれたのか。その通りだ。酔っている。
 ──欲求不満の果ての自棄酒。僕は月乃さんを愛している。月乃さんとしたくてしたくて……でも出来なくて。理屈ではわかっている。数多の他の女性からの誘惑に抗っているけど、健全な男として、時折「女」を感じてしまって自己嫌悪に陥る。

「ん? 何これ?」

 月乃さんは僕が持っていたアルバムが気になったようだ。別に見られて困るものでもない。先刻見た馬鹿馬鹿しい写真を見せてあげた。

「え? え? これ、征士くん?」
「そうです、僕ですよ。笑えるでしょう」

 僕は兄との二人兄弟。女の子が欲しかったという母親に、五歳の頃無理矢理女児用ドレスを着せられたときの写真だ。これでもかとフリルがついた水色ドレス姿の僕は、ちょっと見ただけでは判別つかないかもしれない。

「うわ、可愛い~! めちゃめちゃ可愛い! すっごく似合っているわ。可愛らしい女の子そのものね」
「そこまで言われると複雑ですね……。母親がふざけて着せただけです。ふざけついでに『まあちゃん』と呼ばれましたよ」

 月乃さんはそれを聞いて、とても楽しそうに笑った。

「あはは! まあちゃん! いいわね。今度私もそう呼ぼうかしら」
「やめてください。僕達の間には知乃がいるじゃないですか」

 女の子がいる僕達に、そんな呼び方は不要だ。しかし、月乃さんは気に入ってしまったらしい。何回も呼びかけてきた。

「まあちゃん、まあちゃん」
「やめてくださいってば」
「そんなこと言わないで。可愛いわ、まあちゃん」

 可愛いと言われて、喜ぶ男は少ないだろう。僕は段々腹が立ってきた。アルバムを取り上げ、月乃さんを押し倒した。

「何するのよ、まあちゃん」
「それ以上言うなら、覚悟してください」

 僕は月乃さんのナイトウェア越しに、強く胸を揉んだ。形の良い月乃さんの胸はいつだって触りたい。ずっとずっと触りたかった。
 月乃さんは驚いた表情だ。当たり前だ。月乃さんが産後鬱になってから、性行為はしていない。病気で不安定になっている上、薬服用中。無理は強いたくなかったし、万が一妊娠したら一大事だ。だから僕も我慢し続けていた。
 タガが外れかけた僕に対して、当然だが月乃さんは拒絶してきた。

「や、やだ……。やめてよ……」

 通常ならば、きっとそこでやめていただろう。だが僕は、その時大分酔っていた上に欲求不満の頂点だった。十八歳の頃から我慢して、もう二十一歳。他の女性の誘惑を退けることに疲れ切っていた。ふっと月乃さんの耳に息を吹きかけた。

「僕は夫でしょう。抱く権利があるはずです」

 囁くと、月乃さんは身体を震わせた。

「それは、そうだけど……。ダメ……」

 弱々しく、手で僕を押し退けようとする。月乃さんの拒否に怒りの感情さえ芽生えた。若い僕を、こんなに我慢させて。

「ダメってことはないでしょう。それとも僕のこと、もう愛しては、いないんですか?」

 正常な判断は失われていた。強引にナイトウェアをたくし上げる。久しぶりに見る、月乃さんの肢体に興奮する。
 ──ルナティック。月の光を弾く白肌の月乃さんが、僕を狂わせる。胸の紅を口に含んだ。

「い、いや……」

 まだ月乃さんは僕を拒む。八つ当たり気味に言ったけど、案外本当に月乃さんは僕をもう愛してはいないのかもしれない。月乃さんに捨てられるなんて──絶対イヤだ。
 僕を身体に刻み込んでやろう。
 僕なしではいられないようにしてやろう。
 月乃さんの足の間に顔を埋める。閉じようとする足を無理に広げて、秘所を舐めた。突起に指で触れ、未だ濡れていない蜜口に舌をねじ込んだ。唾液で中を湿らせる。少しうるおったところで、顔を離した。

「挿れますからね」
「……っ、……っ」

 月乃さんは返事をしない。ただ首を振るだけ。黒絹の長い髪が、ベッドマットの上でうねった。
 屹立した僕のもので一気に貫こうとして……気付いた。情緒不安定な月乃さんは、声を殺して泣いていた。静かに涙を流す彼女。はっと僕は我に返った。酔いも醒め、常軌を逸した己の行動に呆然とする。ナイトウェアを直して月乃さんの身体を抱きしめた。
 ボディーソープの良い香り。月乃さん愛用のボディーソープ、ラベンダーの香りが僕を落ち着かせた。だけど月乃さんの頬には、透明な雫が次々伝う。

「……っく、……んくっ……」
「月乃さん……」

 月乃さんの涙に胸を抉られた。月乃さんを泣かせてしまった。更に強く、抱きしめる。泣かせるつもりではなかった。僕を捨てられたくない気持ち……ただ、それだけ。
 小さく月乃さんが、何か言った。聞こえず耳を近寄せる。

「…………嫌い、よ。征士くんなんて、大嫌い……」

 呟かれた言葉に衝撃を受けた。大嫌い。それだけは死んでも聞きたくない言葉だった。過去のトラウマの鼓動が戻る。月乃さんに嫌われたら…………僕は生きている価値がない。

「すみませんでした……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです。嫌わないでください」

 月乃さんは僕の謝罪が届いていないのか、腕から抜け出し、薬袋を手繰り寄せた。止める間もなく、睡眠薬三錠をシートから取り出し、水差しの水で乱暴に飲む。そのままどっとベッドに倒れ込んだ。

「月乃さん! 薬は処方通りに……!」
「征士くんに言われる筋合いはないわ。放っといて頂戴」

 背を向けて、僕を見ようともしない。思わず引き寄せ、肩に顔を埋めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい。僕が全部悪かったです。だから許して。嫌わないで……」

 月乃さんは無言だ。僕は許しを請い続けた。

「お願いします。月乃さんに嫌われたら、僕は死んでしまいます。もう二度としません。愛しています。愛して、います……」

 真実、月乃さんに嫌われたら、僕は死にそうになる。謝り、愛を告げていると、不意に月乃さんが僕の髪を撫でた。

「月乃さん?」

 彼女はまた小声で呟いた。

「…………い、……る……」
「え?」

 月乃さんを見ると、目を閉じていた。眠っているかいないかはわからない。身体をひたすら抱きしめ、ラベンダーの香りに包まれながら、眠れぬ夜を過ごした。
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