空気のような大公夫人、碧眼の次男に奪われてしまうようです

朝日みらい

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第3章 大公家からの縁談

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 エドモンド様の国外派遣から、数ヶ月が過ぎました。  
 学園を卒業し、実家に戻ったわたくしの日々は、母様の看病と家計のやりくりで埋め尽くされています。  
 あの「また会いましょう」の言葉を胸に、淡々と時を重ねるだけ——それが、わたくしの選んだ道だと思っていました。

 けれど、ある朝の食卓で、すべてが変わりました。

「クラリッサ! すごいことになったぞ!」

 兄様のレオナルドが、息を切らして食堂に飛び込んできました。  
 普段は落ち着いた兄様が、こんなに興奮した顔をするのは珍しいのです。

「どうなさいましたの、兄様?」

「大公家から使者が! お前の縁談の話だ!」

「……え?」

 スプーンが、カチャンと皿に落ちました。  
 母様もベッドから身を起こし、目を丸くしています。

「相手は大公家嫡男、ローレンス様だそうだ! 正式な申し入れ状が届いたぞ!」

 ローレンス様——エドモンド様のお兄様。  
 その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざわつきました。  
 学園祭の夜会で一度だけ、お見かけしたことがあります。  
 完璧な美貌に、氷のような微笑。誰もが魅了される、輝くお方でした。

「そんな……急すぎますわ」

「急じゃないさ! お前のような優れた令嬢なら当然だ! これでヘイゼルウッド家は救われる!」

 兄様は拳を握りしめ、喜びに満ちた声で続けます。  
 父様も隣で頷きながら、ワイングラスを掲げました。

「いやあ、クラリッサ。お前の学園時代の評判が効いたんだな。さすが我が娘だ!」

「父様まで……でも、わたくしにそんな資格が……」

 言葉を濁すわたくしに、兄様は真剣な目で向き合いました。

「資格? お前は母さんの看病を一人でこなし、家計の帳簿まで見てくれている。立派な奥様になれるさ。……頼むよ、クラリッサ」

 その瞳に、家族への切実な想いが宿っています。  
 拒めません。  
 ——家族のためなら……。

◇◇◇

 その日の午後、応接間に通された大公家の使者は、完璧な礼儀作法で申し入れを繰り返しました。  
 金箔の縁取りされた羊皮紙には、ローレンス様の筆跡らしき署名が輝いています。

「ヘイゼルウッド男爵家御令嬢クラリッサ殿と、我が主ローレンス殿下の婚姻を、誠に光栄に存じます」

「恐縮ですわ……ですが、なぜわたくしのような者に?」

 思わず尋ねると、使者はにこやかに答えました。

「ローレンス殿下は、学園時代のご活躍をお聞きになり、強くお望みです。知性と気品を兼ね備えたお方だと」

 知性……気品。  
 エドモンド様との図書室の時間が、誰かの目に留まっていたのでしょうか。  
 胸が少し、温かくなりました。

「ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます」

 使者が去った後、家中は歓喜の渦。  
 侍女のアイリーンが、興奮冷めやらぬ様子で駆け寄ってきました。

「お嬢様! おめでとうございます! 大公家ですよ? 夢のよう!」

「アイリーン、落ち着いてくださいまし。でも……本当に、私でよろしいのかしら」

「もちろんですわ! ローレンス様なんて、王都一の美男子ですもの。きっとお幸せに!」

 皆の笑顔に囲まれながらも、わたくしの心は複雑です。  
 喜び半分、不安半分。  
 そして——エドモンド様の面影が、ちらりと浮かびます。

(エドモンド様……あなたのご家族に嫁ぐなんて、どんなお気持ちでいらっしゃるのかしら)

◇◇◇

 数日後、再びの使者と共に、衝撃的な噂が届きました。  
 夕食の席で、父様が新聞を広げて読み上げます。

「ふむ……“大公家次男エドモンド、国外派遣延長か。兄ローレンス殿下の補佐として長期滞在の見込み”……ほう、これは」

「エドモンド様が、帰国の予定なし、ですって?」

 わたくしの声が、かすかに震えました。  
 兄様が眉を寄せます。

「そうだな。もう二年近くになるのか。兄の補佐で手腕を発揮しているらしいが……帰ってこないのか」

 胸に、鋭い棘が刺さったようです。  
 “また会いましょう”の約束が、遠い幻のように感じます。  
 涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えました。

「クラリッサ、どうした? 顔色が悪いぞ」

「いいえ、何でもありませんわ。ただ……少し、驚いただけです」

 父様は気にする様子もなく、話を続けました。

「まあ、エドモンドが帰らなくても、ローレンス様がいれば大公家は安泰だ。お前との縁談も、きっとその一環さ!」

 その楽観に、苦笑しか出ません。  
 けれど、心の奥で小さな炎が灯りました。  
 ——待てないでしょうね。  
 家族を救うために……。

 その夜、わたくしは一人、応接室で使者に答えを伝えました。

「ローレンス様とのご縁談……お受けいたします」

 使者は満足げに頷き、退出しました。  
 扉が閉まる音が、わたくしの決意を封じ込めるように響きます。

◇◇◇

 縁談の報せは、瞬く間に領地中に広がりました。  
 翌朝、近所の貴族令嬢たちが、次々とお見舞いに訪れます。

「クラリッサお嬢様、おめでとうございますわ! 羨ましい限りですの!」

 先頭に立つのは、隣領のミネット嬢。  
 派手なドレスに、きらびやかな宝石。いつも通り、華やかです。

「ありがとうございますわ、ミネット様。でも、まだ正式ではありませんのよ」

「いいえ、もう決まりみたいなものですわよね? ローレンス様ですよ? 社交界の華!」

 他の令嬢たちも、口々に祝福の言葉を。  
 けれど、中には少し棘のある視線も感じます。

「でも、ヘイゼルウッド家って、少し財政が……ねえ?」

 後ろで囁く声に、ミネット嬢が鋭く睨みました。

「失礼ですわ! クラリッサお嬢様は、学園でトップの成績だったんですのよ?」

「まあ、そうでしたわね……でも、エドモンド様とはどうなるのかしら。あの二人、噂でしたもの」

 その言葉に、わたくしの手が止まりました。  
 皆の視線が、一斉に集まります。

「エドモンド様? ああ、国外にいらっしゃる方ね。もうお忘れかしら?」

 ミネット嬢が笑ってフォローしてくれましたが、心臓が早鐘を打ちます。  
 ——噂、されていたのですね。  
 わたくしたちの、静かな時間。

「ふふ、クラリッサ様ったら、顔を赤くして。エドモンド様は次男ですもの。ローレンス様こそ、正統派ですよ?」

 別の令嬢、アメリア嬢が、にこやかに言いました。  
 けれど、その目は少し、冷たい輝きを帯びています。

「ええ、そうね。わたくしは、家族のために選びましたの」

 平静を装って答えましたが、内心では動揺が広がります。  
 ミネット嬢が、そっとわたくしの手を握りました。

「気にしないで。妬ましいだけよ、あの子たち」

「ありがとう、ミネット様」

 その温かな手に、少し救われます。  
 令嬢たちの訪問が終わると、ようやく静けさが戻りました。

◇◇◇

 数日後、大公家からの正式な婚約書が届きました。  
 豪奢な箱に収められたそれは、宝石のように輝いています。  
 兄様と父様は大喜びですが、母様だけは、少し心配げです。

「クラリッサ……本当に、いいの?」

 ベッドサイドで、母様が小さな声で尋ねました。  
 わたくしは、優しく母様の手を握ります。

「ええ、大丈夫ですわ。ローレンス様は、きっと素敵なお方ですもの」

「でも、あなたの心に……誰かがいらっしゃるのでしょう?」

 その言葉に、胸がちくりと痛みました。  
 母様は、何もかもお見通しです。

「……昔の、思い出ですわ。今は、家族が一番ですから……」

「そう……。あなたは、いつも強い子ね」

 母様は微笑みましたが、目元に涙が光りました。  
 わたくしも、そっと母様の頰に触れます。

「母様のためにも、幸せになりますわ。約束します」

 その約束が、どれほど重いものになるのか——まだ、知る由もありませんでした。

◇◇◇

 婚約の準備が進む中、王都から届いた噂が、わたくしの不安を煽ります。  
 侍女のアイリーンが、こっそり耳打ちしました。

「お嬢様、ローレンス様は……お綺麗な方ばかりとお付き合いなさるんですって」

「え……?」

「社交界の話ですけど、愛人さんが何人も、とか」

 心臓が、冷たく締めつけられます。  
 けれど、兄様の声が響きました。

「そんな噂、気にしないでくれ! 貴族の嫡男だもの、多少の遊びは仕方ないさ」

「兄様……」

「それに、お前が入れば変わるさ。大公家の奥様だぞ?」

 その言葉に、頷くしかありません。  
 ——変われるのは、わたくしの方かもしれませんわね。

 夜、窓辺で月を見上げます。  
 エドモンド様の碧眼が、浮かびます。  
 手を取られた、あの温もり。

「エドモンド様……ごめんなさい」

 小さな独り言が、夜風に溶けました。  
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