【完結】悪評令嬢は、王太子の影武者でした~婚約破棄で自由を得た私は、辺境の庭で恋を育てます~

朝日みらい

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第3章 「辺境の庭と、再会の声」

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 辺境の離宮での暮らしが始まってから、一ヶ月半が過ぎようとしておりました。  

わたくし――セレーネ・アルバロス侯爵令嬢、改めただの「セレーネ」は、今やすっかり泥に親しんだ庭師でございます。

王宮で纏っていた絹のドレスは、丈夫な作業着へ。政務書類を捌いていた指先は、今ではすっかり土の感触に馴染み、小さなマメが愛おしいほどに増えました。  

けれど、心はこれまでになく満たされておりました。  

湖面に映る空の色が、まるでわたくしの心そのものであるように、穏やかで澄み渡っているのです。  

(ああ、なんて静かで、豊かな時間なのでしょう)  

この湖畔の館は、王都から遠く離れ、誰の視線にも晒されない場所にございます。  

わたくしは、ただ自分の手で庭を蘇らせることに全ての時を注いでいました。  

ある晴れた日の午後。  

土を掘り返しながら、わたくしは独り言のように呟きました。  

「この土は少し粘りが強いわね……もう少し砂を混ぜないと、アリアの根が伸びられないかしら」  

アリア――それは、母と共に愛した花。花言葉は「解放」。  

わたくしがこの庭に最初に咲かせたいと願う、「新しい人生」の象徴でございます。  

スコップを振るうたび、記憶の奥底にある古い庭の風景が蘇ってまいります。  

完璧さを求められた王宮の庭は美しくも、どこか息苦しい檻でした。  

でも、今のこの庭は違います。  

わたくしの手と汗で形を変え、息づいてゆく。  

この土と風こそが、わたくしの心の写し鏡――初めて「自分自身」を育てているような気がいたしました。  

そんな時、背後から穏やかな声が聞こえました。  

「セレーネ嬢。その土に語りかけているなんて……すっかり本物の庭師になりましたね」  

振り返ると、そこには懐かしい姿――  
一ヶ月前に旅立ったはずの青年騎士、リオ・グレイス様が立っておられました。  

彼は以前より穏やかな表情で、傷の跡も癒え、陽光を背に立っております。  

「リオさま! 本当に……いらしてくださったのですね!」  

わたくしは、泥のついた手袋を外すのも忘れ、思わず駆け寄りました。  

その足取りは、王宮の舞踏会での一歩よりも、はるかに自由で軽やかでした。  

リオさまは、柔らかな笑みを浮かべておっしゃいます。  

「約束しましたでしょう? 貴女の庭が完成するまで、俺が傍で見守ると」  

その微笑みは、春の陽射しのようにあたたかく、わたくしの胸をたちまち満たしていきました。  

***

「一体どうなさったのです? ご出立のとき、あんなに急いでおられたでしょうに」  
わたくしは、館の中へ招き入れ、お茶を注ぎながら尋ねました。  

リオさまは、深く頷かれます。  

「王都で、ひとつの任務を終えてきました。……セレーネ嬢。貴女が去られた後の国の様子を、ご存知ですか?」  

「新聞で少しだけ。『王政の混乱』『財務崩壊』……そのような見出しを見ました」  

わたくしが茶器を差し出すと、リオさまは静かに口を開かれました。  

「私が追っていたのは、リリア聖女候補の裏の顔です」  

その言葉に、わたくしは息を呑みました。  

「彼女は慈善事業の資金を横領し、王太子の失態を隠れ蓑にして、機密文書まで盗もうとしていたのです」  

「やはり……そうでしたか」  

わたくしがかつて影武者として止めようとしていた事実――その証明が、今ここに突き付けられました。  

「貴女が残した財務の記録が決定的な証拠となりました。今やリリア嬢は“偽りの聖女”として糾弾され、王都は大混乱です」  

リオさまの声は冷静でしたが、その奥には憤りと憐憫が入り混じっておりました。  

「そして、まもなく王宮の使者がここへ参ります。……殿下の助力を求めるために」  

「でしょうね。けれど――もう縛られる気はありません」  

わたくしは、湯気の立つお茶をテーブルに置き、静かに微笑みました。  

リオさまは、わたくしの手をそっと取られます。  

「セレーネ嬢。貴女の手は、もう誰かの影のために働く必要はない」  

彼の眼差しには、優しさと恋慕の炎が宿っていました。  
その温もりに触れた瞬間、胸の鼓動が音を立てて跳ねました。  

(この手で触れたい。この人の隣で、生きていたい――)  

***


リオさまが再び滞在を始めてから数日後のこと。  
離宮の穏やかな昼下がりを、突如として響く怒号が破りました。  

「セレーネ・アルバロス! そこにいることは分かっている! 殿下の名において――直ちにお戻りなさい!」  

門前で声を張り上げていたのは、王太子殿下の側近であった使者。  

以前、馬車に同乗していた、あの真面目一徹な貴族です。  

わたしとリオさまは、庭でお茶を飲んでいる最中でした。  

「あらまぁ、ご苦労様ですこと。辺境の修道院……いえ、この離宮まで探しに来られたなんて」  

泥のついた作業着のまま、わたくしは優雅にティーカップを傾けました。  

「どうしましょう、リオさま。お客様のようですわ」  

リオさまは愉快そうに微笑み、立ち上がられます。  

「行きましょう。あなたの騎士として、お供いたします」  

二人で並んで門を開けると、使者はぎょっとした目で固まりました。  

「せ、セレーネ……嬢? その姿は一体……! それに隣の男は誰だ!」  

「あら、まだ把握なさっていなかったのですね」  

わたくしは、あくまで上品な笑みを浮かべながら応じました。  

「修道院へ向かう道中で、父から密かにこの離宮へ立ち寄るよう命じられておりましたの。上司が無能ですと、部下も大変ですね」  

「な、貴様っ……! 不敬だぞ!」  

「不敬? “悪女令嬢”に何を期待なさっているのかしら」  

わたくしはリオさまの腕に手を絡ませました。  

「この方は旅の途中で怪我を負われた騎士。わたくしの……守護者です」  

リオさまは静かに一礼しました。  

「私はリオ・グレイス。セレーネ嬢の警護を任じております。王宮の干渉は不要です」  

使者は顔を紅潮させ、書状を突き出します。  

「国が崩壊寸前なのだ! お前が隠した書類の在処を明かせ! 王都へ戻り職務を果たせ!」  

わたくしは書状を眺め、微笑みました。  

「いいえ、お断りいたします」  

静寂が流れます。  

「わたくしはもう、誰かのために生きるのをやめました。この手で土を耕し、自らの人生を育むのです」  

使者が眉を吊り上げるのを横目に、わたくしは続けました。  

「安心なさい。必要な書類は、父が適切な時期に“発見”するでしょう。ただし、それを理解できる頭が王宮に残っていれば……の話ですけれど」  

リオさまが穏やかに一歩、前へ出ます。  

「セレーネ嬢はこの庭の主です。これ以上、彼女の自由を奪うなら――私が相手になります」  

その一言に、使者は怯えたように言葉を落とし、そのまま退きました。  

去りゆく背を見送りながら、わたくしはリオさまを見上げ、いたずらっぽく微笑みます。  

「リオさま、今のわたくし、“悪女”に見えました?」  
「ええ。完璧でしたよ、セレーネ嬢。使者の顔は茹で上がった蟹そのものでした」  

ふたりで声を上げて笑い合い、リオさまは軽くわたくしの頭を撫でました。  

その手の温かさに、胸がふっと溶けていくようでした。  

***


やがて訪れた静けさの中で、わたくしたちは膝を並べ、春咲きの球根を植えました。  

風は柔らかく、指先の土は生きているように温かでした。  

「リオさまは……どうして、わたくしにここまで優しくしてくださるのですか?」  

問いかけると、彼は静かに微笑みます。  

「四年前、命を救ってくださった貴女を、忘れられるわけがありません。そして――気づいたのです。あの夜からずっと、俺は貴女に惹かれていたのだと」  

わたくしは息を止めました。  

言葉ではなく、その瞳がすべてを語っていると感じたのです。  

リオさまは、わたくしの手を包み、自らの頬をそっと触れさせました。  

「貴女がこの庭で土に触れる姿は、誇りと美しさに満ちている。……これは、俺の愛の告白です、セレーネ嬢」  

その優しい声が、胸の奥に染み入りました。  

「リオさま……わたくしも、貴方の隣でこの庭を完成させたいです。  
 この手で、わたくしの人生を、そして貴方と共に未来を育てたい――」  

二人は手の温もりで、互いの心を確かめ合いました。  

***


使者が去ってからというもの、離宮には再び穏やかな日々が戻りました。  

わたくしとリオさまは力を合わせ、薪を割り、食事を作り、庭を整えながら過ごしています。  

ある夕暮れ、リオさまは庭の中央に手作りの木製ベンチを置いてくださいました。  

「これで、疲れた時もゆっくり庭を眺められます」  
「素敵ですわ、リオさま」  

ふたり並んで腰かけ、暮れゆく湖の光を見つめました。  

沈みゆく夕陽が水面を染め、金色の風が頬を撫でていきます。  

「セレーネ。もう“悪評”など、どこにもありませんね」  
「はい。わたしはこの庭で生まれ変わりました。リオさまと、アリアの花と共に」  

リオさまは、そっとわたしの肩を抱き寄せます。  

「“解放”の花……まるで貴女の人生そのものです」  
「ええ。この花が咲く頃には、きっとわたしたちも花開いているのでしょう」  

わたくしは両手で彼の頬を包み、その唇にそっと触れました。  
驚いたように瞬きをした後、リオさまは優しくそれを受け止め、わたくしを抱きしめてくださいました。  

(たとえ王妃になれなくても、この温もりがあれば、わたしは世界で一番幸せです)  

湖の水面を撫でる風が、春の香りを運んできました。  
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