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第4章 「偽りの聖女と、崩れる王国」
辺境の離宮にも、春の兆しが訪れておりました。
わたくしとリオさまが二人で耕した庭の土はふかふかに柔らかく、春の嵐に備えて丹念に整えられています。
朝の光が湖面を照らすたびに、空気は少しずつ柔らかくなり、鳥のさえずりが響く――すべてが穏やかで、満ち足りた時間でした。
(この静かな日々が、ずっと続けばいいのに)
心の奥底でそう願いながら、わたくしはアリアの芽を見つめました。
あの日、母と共に慈しんだ「解放」を意味する花。その新芽は確かに陽を求めて顔を出しつつありました。
「セレーネ嬢。そろそろ、王都からの第二の使者が来る頃合いですよ」
リオさまが、庭の中央にある木製のベンチに腰をかけながら、静かにおっしゃいます。
その声には、戦場を渡り歩いた者だけが持つ確信の響きがありました。
「また、前回の“茹で上がったタコ”の使者さまが来るのかしら?」
わたくしは冗談めかして微笑みます。
リオさまは、困ったように笑いながら、わたくしの手の甲にそっと唇を落としました。
「今回は、もっと地位の高い人間が来るでしょう。……殿下はもう、待つ余裕がない」
その言葉を裏付けるように、その日の夕暮れ――離宮の門が力強く、しかしどこか切迫した音で叩かれました。
ドンドン! ドンドン!
リオさまと顔を見合わせ、わたくしは静かに頷いて門を開けました。
そこに立っていたのは、王太子の側近ではなく、公爵家のご子息――エドワード・グラハム公爵令息。
かつて王太子殿下の右腕と称された彼の姿は、疲労にまみれ、衣服も砂埃で色褪せていました。
「せ、セレーネ嬢! 見つけたぞ! なぜ修道院ではなく、こんな場所に……!」
「ごきげんよう、エドワードさま。辺境の離宮は修道院よりも静かで、景色も美しいのです。……さて、本日はどのようなご用件で?」
冷たくも慈悲を含んだ口調で答えながら、わたしはかつての“冷血令嬢”の仮面をそっと被り直しました。
「悠長なことを! 王都は今、崩壊寸前だ! 特にリリア嬢の件で、王宮の威信は地に落ちている!」
***
やがて彼は、疲弊した様子のまま館に入り、わたくしとリオさまを見渡しました。
「リリア嬢の悪行が、ついに露呈したのです」
その言葉に、わたくしは瞳を細めました。
「彼女は、聖女候補という立場を利用し、慈善事業の金を私腹に流用していた。貴女の残された記録が決定的な証拠となり、今やすべて公然の事実だ」
リオさまも頷きながら続けます。
「貴族たちは怒り、民は希望を失った。王太子殿下は判断を誤り続け、王政は崩れかけている」
わたくしの胸に湧き上がったのは怒りではなく、深い虚しさでした。
殿下を守るために四年間、影として苦しみ続けた努力が、結局、何ひとつ報われることなく崩れ去ったのです。
エドワード公爵令息は頭を抱え、そして切実な声で言いました。
「国庫の書類も行方不明のままだ! 殿下は怒号するだけで何もできん。……セレーネ嬢、頼む。貴女の助力がなければ、この国は終わる!」
――遂に、彼が頭を垂れた。
追放された“悪女”へ、王都の高貴なる者が頭を下げる。
それは、わたくしにとってまさに悪評の清算の瞬間でした。
「殿下は貴女の無実を認め、再び婚約者としてお戻りいただきたいと……」
わたくしは、唇の端をわずかに上げました。
「都合のよい“影”を呼び戻すとは、殿下らしい発想でございますね」
「セレーネ嬢……!」
「いいえ。もう戻るつもりはありません。わたくしは、“誰かのために働く”ことを終えたのです」
窓の外に広がる庭を指さし、静かに告げました。
「ここで土に触れ、自らの花を咲かせる――それが、今のわたくしの唯一の使命です」
エドワード令息は必死に訴えます。
「頼む! 貴女の才さえあれば国は立ち上がる! 皆、今や貴女を悪女とは呼ばない!」
***
「エドワード公爵令息」
リオさまの静かな声がその場に響きました。
「あなた方は、セレーネ嬢の力だけを求めている。彼女の心や幸福を、少しも見ようとしない」
「な、何だ貴様――!」
公爵令息が激昂する。
しかしリオさまは怯むことなく、わたくしの手を包み込みました。
「俺は、セレーネ嬢の騎士です。彼女が“悪女”として断罪された日から、俺は誓った。
彼女がもう二度と他人の影のために傷つかぬよう、守り抜くと」
その声は、嵐を鎮めるように静かで力強いものでした。
彼の手の温もりが、わたくしの決意を確かなものに変えていきます。
「セレーネ嬢、もう彼らの世界に戻る必要はありません。あなたは、あなたのままでここにいればいい」
リオさまは、まっすぐにわたくしを見つめました。
「俺はその隣にいる。ずっと、この庭で、あなたが咲かせる花を見届けたい」
――その言葉に、胸の奥が音を立てて震えました。
「エドワードさま。お聞きになりましたね? わたくしの答えは“ノー”。
王太子殿下には、ご自身の怠惰の代償をお支払いいただくといいでしょう」
「……貴様ら、国を裏切る気か!」
「国を裏切ったのは、真実を見ようとしなかった者たちです」
わたくしは微笑み、最後に告げました。
「財務書類の在処は、父アルバロス侯爵が“然るべき時”に発見されるはずです。――それまで王宮が持つかどうかは、存じませんけれどね」
そして、リオさまとともに館の中へ戻りました。
閉ざされた門の音は、王都との縁を断ち切る鐘のように響き渡りました。
***
静寂の戻った館で、わたくしはリオさまの胸の中に身を預けました。
「リオさま……心強かったです。貴方がいなければ、きっと迷っていたかもしれません」
「当たり前です。貴女の自由は、俺が守る。それが、あの日、救われた騎士としての誓いですから」
わたくしはその言葉に微笑みながら、ふと尋ねました。
「リオさま。……リリア嬢の不正を、わたくしが知っていたことを?」
「ええ、感じていました。だが貴女がそれを暴かなかったのは、殿下を守るため、そして自分を解き放つため――でしょう?」
わたくしは静かに頷きました。
「ええ。あの時、彼女の罪を暴くだけでは、何も変わらなかった。だから証拠を残して、“待った”のです」
リオさまは、少し寂しげに微笑みます。
「さすが“氷の女王”だ。しかし俺が愛しているのは、その冷徹な知恵ではなく――今、土に触れ、光に満ちている貴女です」
「リオさま……」
「リリア嬢は聖女の仮面を被った。貴女は悪女の仮面を被った。
だが今、どちらの仮面もいらない。貴女は、ただのセレーネであればいい」
「はい。わたくしはもう、誰の影でもありません。リオさまの――たった一人のセレーネです」
彼の腕に抱かれたまま、わたしは彼の唇にそっと触れました。
それは、偽りの聖女が消えた世界で手に入れた、真実だけの愛の証でした。
***
やがて、春の嵐が訪れました。
風が湖面を荒らし、雨が激しく窓を叩く。わたしは思わず立ち上がろうとします。
「リオさま! 庭が……!」
「大丈夫だよ、セレーネ。貴女が丹精込めた土は、少しの雨風では流れません」
リオさまは、わたくしをそっと膝の上に引き寄せ、嵐の外を見つめました。
「人生の嵐も同じです。貴女が王都で受けた悪評も、いつか過ぎ去るただの風だ」
その言葉に、胸の奥が熱くなりました。
「嵐が去れば、新しい芽が育つ。あなたが蒔いたアリアの花も、きっともうすぐ咲く」
彼の声が優しい鼓動とともに伝わります。
「俺の剣も、誓いも、これからは国のためではなく――貴女のために振るう」
窓の外では、嵐が吠えていましたが、二人の胸の中には確かな静寂がありました。
わたくしは、彼の肩に頭を預けます。
「リオさま。嵐のあとに咲く花、見届けてくださいね」
「ええ。貴女が咲かせる、真実のアリアを」
王妃にはならなかったけれど――その代わりに、わたくしはこの世界で最も幸福です。
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