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第五章 「病に倒れる公爵」
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その知らせが飛び込んできたのは、いつものようにわたしが家計簿をつけていた午後のことでした。
重苦しい足音とともに食堂の扉が開き、蒼ざめた侍従が駆け込んできます。
「奥様、たいへんです! 旦那様が……旦那様が倒れられました!」
「……っ!?」
胸がぎゅっと握りつぶされるみたいに痛み、思わず立ち上がりました。
「今は……どちらに?」
「外から……愛妾の館から……運ばれて……」
そこまで聞いてしまった瞬間、心臓に針が刺さるような痛みが走ります。
――そう、あの方はまた愛人の元に行っていたのです。
でも。
(関係ない……そんなこと、今はどうでもいい)
わたしはスカートをつまみ、駆け出していました。
寝室の扉を開いた瞬間、熱で顔を赤くし汗で髪を濡らしたリアン様が、シーツの上に横たわっている姿が目に飛び込んできました。
いつもは完璧な姿勢と冷ややかな仮面を崩さないその人が、苦しげに眉をひそめて浅い呼吸を繰り返している。
「……リアン様!」
駆け寄り、まだ温もりを宿す手をとると、予想以上に熱い体温が指先に触れました。
(こんな状態で……わたしが放っておけるはずないでしょう!)
侍女長に薬湯を、と頼み、わたしは濡れ布巾でその額を拭きました。
リアン様は弱々しくうなされながら、ふいにわたしの手を強く握って離さず、熱にうわごとのように言いました。
「……リディア……」
耳に届いた自分の名に、心臓が跳ねました。
「ずっと……傍に……」
わたしを妻として蔑むように呼びつけていた彼が、今は掠れ声で縋るように名を呼ぶ。
その手を離せなくなってしまって……。
「……ええ。わたしはここにいます。ずっと傍にいますから」
静かにささやき、髪の乱れを耳元で整えてあげました。濡れた黒髪はいつもより柔らかく、触れた指先が熱のせいかじんわり痺れる気分。
その夜、眠りながらもわたしの手を握り、汗に濡れる身体を震わせる彼を見ていると、不思議な感覚が胸を包みました。
(わたしは……本当に、彼を嫌いきれるのでしょうか)
借金返済のために嫁いだだけ。そう言い聞かせてきたはずなのに。
こんな弱い部分を見せられてしまったら――。
翌朝。
幾夜かの看病の甲斐あって、やがてリアン様は薄く瞼を開きました。
うわ言ではなく、確かな意識が宿った瞳。
「……リディア?」
「はい。ここにおります」
落ち着いた笑みを返しながらも、心臓が激しく鼓動を響かせるのを抑えられません。
彼はぐっとわたしの手を握り、そのまま額を預けるように引き寄せました。
「……傍にいてくれ」
その声は、今まで聞いたことがないほど素直で優しいものでした。
胸がぎゅっと締め付けられて、涙が出てしまいそうです。
思わず、彼の髪にそっと手を伸ばし、撫でてしまいました。いつもの冷たい人ではなく、ただ静かに眠る一人の青年のように感じられて――。
「……はい。傍におります」
その返事を聞いて満足したように、彼はまた深い眠りに落ちました。
その表情は、これまで見た中で一等安らかに思えました。
けれど、その安らぎの裏には、まだわたしの知らぬ「秘密」が潜んでいるのです。
彼の愛人遍歴がただの仮面でしかないこと。
黒薔薇公爵の裏の顔――国家を影から守る密偵の長にして、冷徹な影の統率者。
その事実を知るまで、わたしはもう少しだけ時間を待たされることになるのでした。
重苦しい足音とともに食堂の扉が開き、蒼ざめた侍従が駆け込んできます。
「奥様、たいへんです! 旦那様が……旦那様が倒れられました!」
「……っ!?」
胸がぎゅっと握りつぶされるみたいに痛み、思わず立ち上がりました。
「今は……どちらに?」
「外から……愛妾の館から……運ばれて……」
そこまで聞いてしまった瞬間、心臓に針が刺さるような痛みが走ります。
――そう、あの方はまた愛人の元に行っていたのです。
でも。
(関係ない……そんなこと、今はどうでもいい)
わたしはスカートをつまみ、駆け出していました。
寝室の扉を開いた瞬間、熱で顔を赤くし汗で髪を濡らしたリアン様が、シーツの上に横たわっている姿が目に飛び込んできました。
いつもは完璧な姿勢と冷ややかな仮面を崩さないその人が、苦しげに眉をひそめて浅い呼吸を繰り返している。
「……リアン様!」
駆け寄り、まだ温もりを宿す手をとると、予想以上に熱い体温が指先に触れました。
(こんな状態で……わたしが放っておけるはずないでしょう!)
侍女長に薬湯を、と頼み、わたしは濡れ布巾でその額を拭きました。
リアン様は弱々しくうなされながら、ふいにわたしの手を強く握って離さず、熱にうわごとのように言いました。
「……リディア……」
耳に届いた自分の名に、心臓が跳ねました。
「ずっと……傍に……」
わたしを妻として蔑むように呼びつけていた彼が、今は掠れ声で縋るように名を呼ぶ。
その手を離せなくなってしまって……。
「……ええ。わたしはここにいます。ずっと傍にいますから」
静かにささやき、髪の乱れを耳元で整えてあげました。濡れた黒髪はいつもより柔らかく、触れた指先が熱のせいかじんわり痺れる気分。
その夜、眠りながらもわたしの手を握り、汗に濡れる身体を震わせる彼を見ていると、不思議な感覚が胸を包みました。
(わたしは……本当に、彼を嫌いきれるのでしょうか)
借金返済のために嫁いだだけ。そう言い聞かせてきたはずなのに。
こんな弱い部分を見せられてしまったら――。
翌朝。
幾夜かの看病の甲斐あって、やがてリアン様は薄く瞼を開きました。
うわ言ではなく、確かな意識が宿った瞳。
「……リディア?」
「はい。ここにおります」
落ち着いた笑みを返しながらも、心臓が激しく鼓動を響かせるのを抑えられません。
彼はぐっとわたしの手を握り、そのまま額を預けるように引き寄せました。
「……傍にいてくれ」
その声は、今まで聞いたことがないほど素直で優しいものでした。
胸がぎゅっと締め付けられて、涙が出てしまいそうです。
思わず、彼の髪にそっと手を伸ばし、撫でてしまいました。いつもの冷たい人ではなく、ただ静かに眠る一人の青年のように感じられて――。
「……はい。傍におります」
その返事を聞いて満足したように、彼はまた深い眠りに落ちました。
その表情は、これまで見た中で一等安らかに思えました。
けれど、その安らぎの裏には、まだわたしの知らぬ「秘密」が潜んでいるのです。
彼の愛人遍歴がただの仮面でしかないこと。
黒薔薇公爵の裏の顔――国家を影から守る密偵の長にして、冷徹な影の統率者。
その事実を知るまで、わたしはもう少しだけ時間を待たされることになるのでした。
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