4 / 12
第四章 「夫の嫉妬、妻の反発」
しおりを挟む
――夜会から数日。
わたしはまだ、あの屈辱と、予想外の救いの手を差し伸べてくださったルシアン殿下のことを胸の奥で思い返していました。
あの時、殿下がいなければ、きっと立っていることすらできなかったでしょう。
けれど……。
あの夜、会場の隅でこちらを睨みつけていたリアン公爵の瞳を思い出すと、不思議な熱が心臓を締めつけてくるのです。
(なぜ……? わたしを放っておいたのは、あなたなのに。どうして、そんな顔をされたのですか)
夫が他の令嬢と腕を組んで笑っている姿には慣れてしまった――そう思い込んでいました。
なのに、目の前で王子にエスコートされて踊るわたしを見たときだけ、彼の瞳にあれほど露骨な感情が宿っていたなんて。
それを考えるだけで、胸の奥がざわめいて仕方ないのです。
応接間で家計簿をつけていたわたしがペンを置いたのは、夜も更けた頃でした。
と、その時、予想外に扉が開き、重い足音が近づいてきます。
「……まだ起きていたのか」
低く響く声。振り返れば、月明かりを背にして立つのは夫――リアン様でした。
「……はい。家計を整えておくのも、わたしの務めですから」
「真面目だな」
ちらりと視線を向けられる。けれど、その眼差しは妙に刺すようで、まっすぐ見返すことができません。
「それで……随分と楽しそうだったな」
唐突に投げかけられた言葉に、わたしはペンを落としそうになりました。
「……え?」
「ルシアン殿下と、だ。随分と笑顔を振りまいていたようじゃないか」
ぞくりと背中を走る声。
冷たい調子のはずなのに、なぜか胸の奥まで熱を帯びさせる響きでした。
「わ、笑顔なんて……わたしはただ、あの場から立ち直るために――」
「言い訳は聞いていない。……男に媚びるのが得意なようだな」
刹那、胸の奥をぐさりと刺されました。
彼の言い方は、決して穏やかなものではなく、むしろ傷つけるために選ばれたような言葉。
握りしめた手が小さく震えたのを、自分でも抑えられませんでした。
(……そんなこと……言われたくありません……!)
気づけば声に出していました。
「あなたにだけは……言われたくありません!」
はっとしました。
それは、わたしが初めて彼へ向けて放った強い拒絶でした。
リアン様は目を見開き、それからわずかに顔を伏せました。そのわずかな動揺を見た瞬間、こちらの胸がちくりと痛みます。
「……そうか」
彼はそれ以上なにも言いませんでした。
ただ、強く視線をこちらに落とし、けれど一歩も近づかず、静かに背を向けていきました。
まるで、戸惑いとも怒りともつかない感情を押し殺すかのように。
それから数日。
わたしと彼の関係は、これまで以上にぎくしゃくし始めました。
食事の席では最低限の言葉しか交わさず、廊下ですれ違っても視線を合わせることもままなりません。
(これでいい……はずです。だって、わたしは……愛を求めてはいけないのですから)
何度も自分にそう言い聞かせていたのに。
屋敷の窓から、夜も更けて彼がまた愛人の屋敷へ向かうのを見送るたび、胸がきゅうっと締めつけられるのです。
そんなある日。
庭で拾った犬のミルが、突然大広間を駆け抜けてしまいました。慌てて追いかけるわたし。
「ミル、だめです! そこは……っ」
あろうことか開け放たれたバルコニーで、わたしは大きな身体に突き飛ばされ、危うく身を乗り出してしまいました。
――その瞬間、強い腕がわたしの腰を抱きしめ、背後からぎゅっと引き寄せられたのです。
「っ……!」
振り返れば、すぐそこにリアン様の顔がありました。
真剣な瞳。ほんの少し乱れた髪。その手は、わたしを抱いたまま離そうとしません。
「……危ないだろう」
低い声が耳に落ちると、背筋にしびれるような熱が走りました。
(なぜ……こんなにも、優しい……?)
抱きしめられている熱が、どうしても胸の奥を震わせてしまいます。
「……放してください」
そう言いながらも、声はかすれていました。
けれどリアン様は、しばし沈黙したまま腕を緩めませんでした。
迷いと葛藤の混じる瞳で、ただわたしを見つめるばかりです。
――そう、まるで必死に抑え込んでいるものがあるかのように。
その夜、彼はどこかへ出かけていきました。
愛人のもとへ通う――それはいつもと変わらぬはずの行動のはず。
けれど、わたしの胸には、ぎこちない嫉妬と、拭いきれない期待が入り混じって、ざわめきが収まらないのでした。
(どうして……あなたはそんなに不器用な方なのですか……?)
――この時のわたしはまだ知らなかったのです。
彼の瞳が、すでにわたしだけを映し始めていたことを。
わたしはまだ、あの屈辱と、予想外の救いの手を差し伸べてくださったルシアン殿下のことを胸の奥で思い返していました。
あの時、殿下がいなければ、きっと立っていることすらできなかったでしょう。
けれど……。
あの夜、会場の隅でこちらを睨みつけていたリアン公爵の瞳を思い出すと、不思議な熱が心臓を締めつけてくるのです。
(なぜ……? わたしを放っておいたのは、あなたなのに。どうして、そんな顔をされたのですか)
夫が他の令嬢と腕を組んで笑っている姿には慣れてしまった――そう思い込んでいました。
なのに、目の前で王子にエスコートされて踊るわたしを見たときだけ、彼の瞳にあれほど露骨な感情が宿っていたなんて。
それを考えるだけで、胸の奥がざわめいて仕方ないのです。
応接間で家計簿をつけていたわたしがペンを置いたのは、夜も更けた頃でした。
と、その時、予想外に扉が開き、重い足音が近づいてきます。
「……まだ起きていたのか」
低く響く声。振り返れば、月明かりを背にして立つのは夫――リアン様でした。
「……はい。家計を整えておくのも、わたしの務めですから」
「真面目だな」
ちらりと視線を向けられる。けれど、その眼差しは妙に刺すようで、まっすぐ見返すことができません。
「それで……随分と楽しそうだったな」
唐突に投げかけられた言葉に、わたしはペンを落としそうになりました。
「……え?」
「ルシアン殿下と、だ。随分と笑顔を振りまいていたようじゃないか」
ぞくりと背中を走る声。
冷たい調子のはずなのに、なぜか胸の奥まで熱を帯びさせる響きでした。
「わ、笑顔なんて……わたしはただ、あの場から立ち直るために――」
「言い訳は聞いていない。……男に媚びるのが得意なようだな」
刹那、胸の奥をぐさりと刺されました。
彼の言い方は、決して穏やかなものではなく、むしろ傷つけるために選ばれたような言葉。
握りしめた手が小さく震えたのを、自分でも抑えられませんでした。
(……そんなこと……言われたくありません……!)
気づけば声に出していました。
「あなたにだけは……言われたくありません!」
はっとしました。
それは、わたしが初めて彼へ向けて放った強い拒絶でした。
リアン様は目を見開き、それからわずかに顔を伏せました。そのわずかな動揺を見た瞬間、こちらの胸がちくりと痛みます。
「……そうか」
彼はそれ以上なにも言いませんでした。
ただ、強く視線をこちらに落とし、けれど一歩も近づかず、静かに背を向けていきました。
まるで、戸惑いとも怒りともつかない感情を押し殺すかのように。
それから数日。
わたしと彼の関係は、これまで以上にぎくしゃくし始めました。
食事の席では最低限の言葉しか交わさず、廊下ですれ違っても視線を合わせることもままなりません。
(これでいい……はずです。だって、わたしは……愛を求めてはいけないのですから)
何度も自分にそう言い聞かせていたのに。
屋敷の窓から、夜も更けて彼がまた愛人の屋敷へ向かうのを見送るたび、胸がきゅうっと締めつけられるのです。
そんなある日。
庭で拾った犬のミルが、突然大広間を駆け抜けてしまいました。慌てて追いかけるわたし。
「ミル、だめです! そこは……っ」
あろうことか開け放たれたバルコニーで、わたしは大きな身体に突き飛ばされ、危うく身を乗り出してしまいました。
――その瞬間、強い腕がわたしの腰を抱きしめ、背後からぎゅっと引き寄せられたのです。
「っ……!」
振り返れば、すぐそこにリアン様の顔がありました。
真剣な瞳。ほんの少し乱れた髪。その手は、わたしを抱いたまま離そうとしません。
「……危ないだろう」
低い声が耳に落ちると、背筋にしびれるような熱が走りました。
(なぜ……こんなにも、優しい……?)
抱きしめられている熱が、どうしても胸の奥を震わせてしまいます。
「……放してください」
そう言いながらも、声はかすれていました。
けれどリアン様は、しばし沈黙したまま腕を緩めませんでした。
迷いと葛藤の混じる瞳で、ただわたしを見つめるばかりです。
――そう、まるで必死に抑え込んでいるものがあるかのように。
その夜、彼はどこかへ出かけていきました。
愛人のもとへ通う――それはいつもと変わらぬはずの行動のはず。
けれど、わたしの胸には、ぎこちない嫉妬と、拭いきれない期待が入り混じって、ざわめきが収まらないのでした。
(どうして……あなたはそんなに不器用な方なのですか……?)
――この時のわたしはまだ知らなかったのです。
彼の瞳が、すでにわたしだけを映し始めていたことを。
11
あなたにおすすめの小説
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
婚約破棄したら食べられました(物理)
かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。
婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。
そんな日々が日常と化していたある日
リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる
グロは無し
もう何も信じられない
ミカン♬
恋愛
ウェンディは同じ学年の恋人がいる。彼は伯爵令息のエドアルト。1年生の時に学園の図書室で出会って二人は友達になり、仲を育んで恋人に発展し今は卒業後の婚約を待っていた。
ウェンディは平民なのでエドアルトの家からは反対されていたが、卒業して互いに気持ちが変わらなければ婚約を認めると約束されたのだ。
その彼が他の令嬢に恋をしてしまったようだ。彼女はソーニア様。ウェンディよりも遥かに可憐で天使のような男爵令嬢。
「すまないけど、今だけ自由にさせてくれないか」
あんなに愛を囁いてくれたのに、もう彼の全てが信じられなくなった。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
あなたの1番になりたかった
トモ
恋愛
姉の幼馴染のサムが大好きな、ルナは、小さい頃から、いつも後を着いて行った。
姉とサムは、ルナの5歳年上。
姉のメイジェーンは相手にはしてくれなかったけど、サムはいつも優しく頭を撫でてくれた。
その手がとても心地よくて、大好きだった。
15歳になったルナは、まだサムが好き。
気持ちを伝えると気合いを入れ、いざ告白しにいくとそこには…
溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~
紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。
ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。
邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。
「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」
そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる