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第5章:決定的な裏切り
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その知らせは、まるで悪夢のように突然だった。
「セリーヌ様、ご存知ですか? 旦那様……リヴィア・エラン嬢を妊娠させたそうですわ」
朝のサロンで紅茶を運んでいた侍女が、申し訳なさそうに囁いたとき、セリーヌは一瞬、聞き間違いかと思った。
「……誰を?」
「リヴィア嬢です。男爵家の娘で、よく旦那様と舞踏会で……ご一緒されてましたでしょう?」
白磁のティーカップが、彼女の手から滑り落ち、テーブルにカチンと音を立てた。
「まあ……そう。そうなのね……」
セリーヌは微笑んだ。口元だけで。
けれど心の中では、何かが凍てついた音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
***
その夜。
リュステル邸の食堂には、いつも以上に緊張した空気が漂っていた。
「セリーヌさん、あなた、もう用済みよ」
そう言い放ったのは、当然ながらリュステル夫人。彼女はまるで長年の鬱憤が晴れたかのように、実に上機嫌だった。
「本当にねえ、リヴィア嬢は可愛いの。つやつやした金髪に、透き通るような肌! あなたと違って、ちゃんと子どもも作れるし!」
「……それは、おめでたいことですね。お祝いの品でもお贈りしましょうか? “ご懐妊おめでとう、祝・不義密通”と書いたリボン付きの壺など」
セリーヌの皮肉に、夫人は顔をしかめた。
だが、その横でガレオンは、ひとことも発さず座っていた。ただ、視線をテーブルに落としたまま。
セリーヌは、彼に向かって歩み寄った。
「……ガレオン様。あなたから、何か説明は?」
沈黙。
彼は、懐から何かを取り出し、机の上に静かに置いた。
一枚の、離縁状だった。
あまりに綺麗な筆致で、まるでこの日のために準備されていたように――。
「……あなた、自分の手で書いたの?」
「……母さんの指示だ」
「でしょうね。あなた、いつだって“母さんの言う通り”だったもの」
セリーヌの声には怒りも、悲しみも、今はもうなかった。あるのは、ただ深い諦めだけ。
「セリーヌ。悪かったとは……思っている」
「いいえ、そんな口先だけの“悪かった”はいりません。欲しいのは、最初から“あなた”だったのに。あなたの心、あなたの声、あなたの決意――何ひとつ、私にはくれなかった」
その場の空気が静まりかえる。
セリーヌはゆっくりと紙を手に取り、それを見下ろしてから微笑んだ。
「……ふふっ、なんて美しい筆跡。そうだわ、このまま額に入れて記念に飾りましょう。“自分を捨てた夫の芸術的な字”として」
そう言いながら、くるりと背を向けた彼女の足取りは、驚くほど軽やかだった。
――涙は、もう尽きていた。
***
その夜、寝室に戻ったセリーヌは、トランクに服を詰めながら呟いた。
「ねえ、私、自由になるのよ。やっと、ね」
鏡の中の自分は、妙にすっきりとした表情をしていた。
これまであれほど夢見て、求めて、失ってきた“夫婦”というものを――ようやく、手放せたのだ。
窓の外、夜空には月が浮かんでいた。
そして、あのティーハウスで出会った青年の優しい笑顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
(あの人、今ごろ何をしているかしら)
まだ“好き”でも“運命”でもなかったけれど。
彼の言った「紅茶のお代わりは、おごらせて」という言葉が、今も胸の中でほんのりと温かく残っている。
それだけで――少しだけ、心が救われた気がした。
「セリーヌ様、ご存知ですか? 旦那様……リヴィア・エラン嬢を妊娠させたそうですわ」
朝のサロンで紅茶を運んでいた侍女が、申し訳なさそうに囁いたとき、セリーヌは一瞬、聞き間違いかと思った。
「……誰を?」
「リヴィア嬢です。男爵家の娘で、よく旦那様と舞踏会で……ご一緒されてましたでしょう?」
白磁のティーカップが、彼女の手から滑り落ち、テーブルにカチンと音を立てた。
「まあ……そう。そうなのね……」
セリーヌは微笑んだ。口元だけで。
けれど心の中では、何かが凍てついた音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
***
その夜。
リュステル邸の食堂には、いつも以上に緊張した空気が漂っていた。
「セリーヌさん、あなた、もう用済みよ」
そう言い放ったのは、当然ながらリュステル夫人。彼女はまるで長年の鬱憤が晴れたかのように、実に上機嫌だった。
「本当にねえ、リヴィア嬢は可愛いの。つやつやした金髪に、透き通るような肌! あなたと違って、ちゃんと子どもも作れるし!」
「……それは、おめでたいことですね。お祝いの品でもお贈りしましょうか? “ご懐妊おめでとう、祝・不義密通”と書いたリボン付きの壺など」
セリーヌの皮肉に、夫人は顔をしかめた。
だが、その横でガレオンは、ひとことも発さず座っていた。ただ、視線をテーブルに落としたまま。
セリーヌは、彼に向かって歩み寄った。
「……ガレオン様。あなたから、何か説明は?」
沈黙。
彼は、懐から何かを取り出し、机の上に静かに置いた。
一枚の、離縁状だった。
あまりに綺麗な筆致で、まるでこの日のために準備されていたように――。
「……あなた、自分の手で書いたの?」
「……母さんの指示だ」
「でしょうね。あなた、いつだって“母さんの言う通り”だったもの」
セリーヌの声には怒りも、悲しみも、今はもうなかった。あるのは、ただ深い諦めだけ。
「セリーヌ。悪かったとは……思っている」
「いいえ、そんな口先だけの“悪かった”はいりません。欲しいのは、最初から“あなた”だったのに。あなたの心、あなたの声、あなたの決意――何ひとつ、私にはくれなかった」
その場の空気が静まりかえる。
セリーヌはゆっくりと紙を手に取り、それを見下ろしてから微笑んだ。
「……ふふっ、なんて美しい筆跡。そうだわ、このまま額に入れて記念に飾りましょう。“自分を捨てた夫の芸術的な字”として」
そう言いながら、くるりと背を向けた彼女の足取りは、驚くほど軽やかだった。
――涙は、もう尽きていた。
***
その夜、寝室に戻ったセリーヌは、トランクに服を詰めながら呟いた。
「ねえ、私、自由になるのよ。やっと、ね」
鏡の中の自分は、妙にすっきりとした表情をしていた。
これまであれほど夢見て、求めて、失ってきた“夫婦”というものを――ようやく、手放せたのだ。
窓の外、夜空には月が浮かんでいた。
そして、あのティーハウスで出会った青年の優しい笑顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
(あの人、今ごろ何をしているかしら)
まだ“好き”でも“運命”でもなかったけれど。
彼の言った「紅茶のお代わりは、おごらせて」という言葉が、今も胸の中でほんのりと温かく残っている。
それだけで――少しだけ、心が救われた気がした。
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