25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい

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第18章 沈黙の毒草

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 冷たい朝の光が、まだ眠る庭の霜を照らしていました。  

 昨夜の嵐のあと、空はどこまでも澄みわたり、まるで世界がすべてを洗い流したかのように静まり返っていました。  
 けれど、私の胸の奥は落ち着きません。  
 空の青が美しく見えるほど、不安がくっきりと輪郭を持つようになるのです。  

 温室での事件――毒商人たちの襲撃。  
 あの後、アレクシス様の部下たちが駆けつけ、全員が捕らえられました。  
 けれど、土に埋められていたあの瓶だけが、心から離れませんでした。  

 青く光る液体。幻影草。禁忌の名。  
 そして今朝から、指先が妙に冷たかったのです。  

「……また、冷えてる」  

 小さく息を吐き、両手を擦り合わせました。  
 まるで血の気がゆっくりと抜けていくような感覚が続いていたのです。  

「リリアーナ様? お加減でも?」  
 扉の向こうから、メアの心配そうな声が聞こえました。  

「少し寒気がするだけよ。メア、朝食の支度をお願いできるかしら」  
「はいっ。でも、無理はなさらないでくださいね」  

 明るい声が遠ざかると、私は机の上の日誌を開きました。  
 祖母が書き残した最後のページ。  
 その文字のひとつひとつが、今の私に語りかけてくるように思えました。  

 “幻影草――吸い込むことで精神を蝕む。微量でも長く摂取すれば、記憶と体温に異常が生じる。”  

(まさか……あの煙のせいでしょうか)  

 昨日の夜、爆ぜるような音とともに温室を包んだ白い煙。  
 ほんの一瞬だったのに、私は確かに息を吸い込んでしまいました。  

 胸がちくりと痛み、唇を噛みました。  

「アレクシス様には……言えないわね。心配をかけたくないもの」  

 そう口にした途端、胸の奥がきゅうっと締めつけられるように痛みました。  


 ***  


 その日の午後、アレクシス様は領地の議会へ出かけて行かれました。  
 事件の報告と、流通経路の調査のためです。  

 私は一人、温室で薬草の整理をしていました。  
 春の陽射しがやさしく差し込み、草花の香りが柔らかく漂っています。  
 けれど、どこか世界の輪郭が曖昧に見えていました。  

「……光が、霞んでいる?」  

 立ち上がろうとしたその瞬間、視界が揺らぎました。  
 足元から力が抜け、地面に手をつきました。  

 頭の奥がじんじんと痛みます。  
 体が急に冷え、次の瞬間には火照りが走りました。  
 胸が乱れて、指先がひくりと震えました。  

「やだ……嫌な感じ……!」  

 声にならない呻きが漏れたとき、背後で扉が勢いよく開きました。  

「リリアーナ!」  

 響いたその声に振り返ることもできず、ただ涙がこぼれました。  
 視界の端に銀の髪が揺れ、次の瞬間、アレクシス様の腕が私を受け止めてくださいました。  

「体が熱い……! どうした、何があった!」  
「ごめんなさい……すこし……息が……」  
「リュカを! すぐに呼べ!」  

 立ち上がろうとした彼の腕を、私は必死に掴みました。  

「行かないで……アレクシス様、そばにいてください……」  
「……わかった。離れない」  

 彼はそのまま私を抱き上げ、温室のベンチへ運んでくださいました。  
 胸に耳を押し当てると、鼓動の音がどくんどくんと響きました。  
 その音を確かめるように、私は浅い息を繰り返しました。  

「意識を保て、リリアーナ!」  

 遠くで彼の声が揺れ、世界がにじんでいきました。  


 ***  


 気づけば、あたりは雪明かりに包まれていました。  
 氷の森――懐かしい夢の中の場所です。  
 風が木々を撫で、どこかで水の流れる音がしました。  

「……どうして、ここに?」  

 問いかけた声は霧のように薄れ、代わりに柔らかな光が差してきました。  
 その中に、ひとつの影が立っていました。  

「お祖母様!」  

 銀の髪が月光を受けてゆるやかに輝いています。  
 その表情は穏やかですが、瞳の奥には厳しさが宿っていました。  

「ここは“聖泉”の在り処です。かつて罪と伝説が交わり、命を脅す場所」  
「聖泉……?」  

 祖母はゆっくりと頷かれました。  
 凍てついた泉の縁に歩み寄ると、透明な氷の下で水がほのかに青く揺れていました。  

「この森で“幻影草”が生まれました。わたしはその根を封じましたが、完全ではなかったのです。  
 そして今、その残滓があなたの中で目を覚ましはじめています」  

「残滓……まさか、私の体に……?」  

「恐れることはありません。私にも、孫のあなたの血にも、癒しの力があります。わたしの祈りと同じ力が」  

 祖母の声が、雪に溶けるように静かでした。  

「この泉で、もう一度“浄化”を行いなさい。  
 幻影草の記憶も、その毒も、あなた自身の内から解き放つのです。  
 あなたが選びなさい――癒しの者として生きるか、それとも幻影に飲まれるかを」  

 青白い光が私の胸に宿りました。  
 心の底から湧き上がる痛みと涙があふれます。  

「お祖母様……わたし、まだ……アレクシス様のもとへ帰らなければ……」  

「ならば、内なる泉を開きなさい。愛する者を想い、その血を流すのですよ」  

 光が私を包み、雪が羽のように舞い散りました。  
 遠くで、誰かが名を呼んでいました。  

「リリアーナ! 目を開けろ!」  

 その声に導かれるように、私は手を伸ばしました。  
 雪と光が溶け合い、世界がゆっくりと色を取り戻していきました。  
 そして、その先に――アレクシス様の温かな瞳が、確かにありました。  

 彼の手が私の頬に触れた時、わずかに温もりが戻ってくるように感じました。  

「怖くない。俺がいる」  

 ――その言葉だけが、霞む意識を繋ぎとめてくれました。  


 ***  


 気がつくと、私は寝台の上にいました。  
 カーテンの隙間からこぼれる光が、ぼんやりと床を照らしています。  

「お目覚めですか、リリア様」  

 枕元にはメアがいて、安堵の笑みを浮かべていました。  

「メア……私……」  
「リュカ様が診てくださいました。特別な毒は出ていなかったそうです。ただ少し、幻影の影響が残っているかもしれないって」  

 幻影草――やはりそうだったのですね。  
 その言葉を聞いただけで、背筋にひやりと冷たいものが走りました。  

 メアがお粥を差し出してくれましたが、受け取ろうとした指がかすかに震えてしまいました。  
 その震えを見て、メアは心配そうに唇を噛みました。  

「アレクシス様は?」  
「お部屋の外にいらっしゃいます。ずっとリリア様のそばに」  

 その言葉に、胸の奥がじんと温かくなりました。  

「……呼んでもいい?」  
「すぐにお呼びします!」  

 メアが駆け出してから、ほんの数秒後。  
 静かに扉が開いて、アレクシス様が入ってこられました。  

 黒の上着を脱がれたその姿は、どこか疲れて見えました。  
 けれど私を見つめる瞳は、いつものように優しく、深い光を湛えていました。  

「目が覚めたか」  
「はい……ご心配をおかけしました」  
「リュカが言うには、幻影草の影響は軽いが、まだ油断はできないと」  

 低い声が部屋の中にやわらかく響き、胸の奥に落ちていきました。  
 私は小さく頷きました。  

「……ごめんなさい。もっと慎重であれば」  
「謝るな。悪いのは、お前を巻き込んだ悪党の方だ」  

 ぽつりと落とされた言葉。その声には、深い苦悩がにじんでいました。  

「大切な者を失うのではないかと……怖かった。お前がいないと生きられない……」  

 その一言に、胸がぎゅっと締めつけられました。  
 アレクシス様は椅子を引き寄せ、私の手を包み込みました。  
 その手が、ほんの少しだけ震えていました。  

「アレクシス様……私、生きています」  
「……そうだな」  

 彼の声はかすかに掠れていました。  
 私はその手を握り返し、静かに微笑みました。  

「もう逃げません。あなたの隣で、どんな春でも冬でも、どんな時でも歩いていきたいんです」  
「……そんなことを言われたら、もう心が溶けちまうだろ……」  

 穏やかに笑うその瞳に、涙が滲みました。  
 私はその指をそっと持ち上げ、頬に触れました。  

「ねえ、アレクシス様」  
「なんだ」  
「一つ、お話ししたい夢があるんです」  

 アレクシス様が目を細められ、私は静かに息を吸いました。  

「意識を失っている間……私は“氷の森”にいました」  
「氷の森?」  
「ええ。雪明かりの中に泉があって、そこに……祖母がいたんです」  

 彼の瞳がわずかに見開かれました。  

「お祖母様は言いました。『幻影草の根は完全に封じ切れていなかった。魂の中に残った毒を、わたしが浄化しなければならない』と」  
「魂の中の……毒?」  

「はい。でも、その消し方は……。  
 『愛する者を想い、その血を流せ』って。たぶん、泉で見たあの光は、祈りの形……」  

 アレクシス様は黙って私の目を見つめていました。  
 その沈黙には、重さと温かさがありました。  

「……お前の祖母上は、やはり特別な方だったんだな」  
「ええ。今ならわかります。あの泉も、幻影草も、すべて繋がっているんです。  
 だから、氷の森の光が消えていないなら、それは完全な終わりではないということなんです」  

「つまり……まだ残っているのか」  
「はい。夢が真実なら、すでに森の泉の封印が崩れているはずです」  

 その瞬間、外から急を知らせる声が響きました。  

「閣下! 外に異変が! 遠方の森の端に奇妙な光が走っておりますと!」  

 アレクシス様の表情が一瞬で引き締まりました。  
「幻影草の残光か……悪党ども」  

「行かれるのですか」  
 問いかける私に、彼はわずかに微笑まれました。  

「ああ。必ず帰ってくる。お前を置いていったりはしない」  

「信じています。いつだって」  

 彼はゆっくりと立ち上がり、扉の前で振り返られました。  
 その瞳の奥に、静かな決意と優しさが宿っていました。  

「どうかお気をつけてください。あの森はただの森ではありません」  

「覚えておく」  

 そう告げて、アレクシス様は穏やかに笑われました。  

 扉が静かに閉まったあとも、彼の言葉の余韻が消えません。  
 その背に向けて、私は胸の奥でそっと祈りました。  

「……どうか無事で」
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