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第17章 夜の温室で
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夜の帳が降りようとしていました。
薄暮の光が温室の硝子を透かし、揺らめく灯りが外から滲んで見えます。
昼まで賑やかにさえずっていた小鳥の声も消え、かわりに雨だれが一定のリズムで硝子を叩いていました。
その静寂の中で、私は深く息を吸い込みました。
胸の奥には、どうしようもなく押さえきれないざわめきがありました。
――あの人は、なぜ姿を消したの。
リュカが去り際に残した「整いました」という言葉が、何度も頭の中でこだまします。
私を思ってくれたの、それとも裏切りの予兆だったの。
真実を確かめるように、私は薄暗い温室の扉に手をかけました。
「……もうこんな遅くなのに」
アレクシス様はまだ戻られません。
けれど、どうしても確かめたいことがありました。
“幻影草”――リュカが最後に記していたその草の名。
祖母の日誌にも一度だけ登場した、恐ろしい禁忌の植物。
明かりも持たず、私は静かに扉を押し開けました。
夜気が頬を撫で、濡れた草の香りが微かに漂います。
「リュカ様……? ここにいらっしゃいません……?」
応える声はなく、ただ風が草の葉を擦るような音が響きました。
私は胸の前で両手を組み、歩みを進めます。
と、その時――温室の奥、机の上から淡い青色の光が漏れているのを見つけました。
小さな薬瓶。
瓶の中で液体がゆらぎ、わずかに甘い芳香を放っています。
「……この香り……」
知っている。これは祖母が最後に調合していた、封印の薬。
私の手が震えながら瓶を持ち上げたその瞬間、背後から声がしました。
「答えを、知りたいですか?」
びくりと振り向くと、そこにリュカが立っていました。
白い外套の裾は濡れ、琥珀の瞳が淡く光を宿しています。
「リュカ様……! どこに行っていたのですか。皆心配して……」
「心配をかけてしまいましたね。すみません」
「もう……急にいなくなるなんて……どうして?」
彼は静かに微笑み、濡れた肩を軽く払いました。
「……領内を偵察していました。そして、あなたに伝えるために戻りました」
「伝える……?」
「危険が迫っていること。そして……忘れ物をしていたのです。“真実”を伝えるという、約束を」
その声に鼓動が速まります。
リュカの表情は穏やかで、どこか寂しげでもありました。
「リリアーナ様。あなたの祖母上が命をかけて封じた草のことをご存じですか?」
「……幻影草のこと?」
「ええ。あれはただの毒草ではありません。人の心を映し取り、幻を生み出す――愛も憎しみも狂気に変える恐ろしい植物です」
「そんなものが……この土地に?」
「残念ながら……ある森の中に……幻影草の源泉があります。私はあらためて、それを探すためにここへ来ました。父は源泉を発見して、その草による中毒になったのです」
彼の瞳にかすかな苦痛が宿ります。
「私は、あなたの祖母上を恨んでいました。錯乱した父を救えなかった人だと。けれど真実は違った。
祖母上は、幻影草の蔓延を封じるために命を削って、一旦は源泉を封じ込めたのですから」
「一旦……」
「ええ。悪党たちがその封印を解こうとしている。僕は人々を守ろうとしてここに来ました。父だけではなく、この土地、国中の人々を。
だからこそ、私は償いと感謝を両肩に背負い、この病の源を断ち、この世から消し去りたい……」
胸の奥が熱くなりました。
祖母が遺したあの日誌に綴られた“愛するほどに救いは遠のく”という一文が思い出されます。
あれは罪ではなく、祈りの言葉だったのですね。
「では……この瓶は?」
「最後の解毒薬です。幻影草の毒を打ち消す唯一のもの。ただ、まだ大切な何かが足りないから……封印が解かれてしまうんです」
そう言って、リュカは瓶を光にかざしました。
青い光がわずかに揺れ、私の瞳に反射してきらめきます。
その瞬間――。
「リリアーナ!」
鋭い声とともに、扉が勢いよく開きました。
アレクシス様が濡れた外套を翻しながら駆け込んでこられました。
右手には剣。冷ややかな閃光が一瞬、温室の空気を裂きます。
「リュカ、貴様――何をしている!」
「待ってください、アレクシス様!」
私は慌てて二人の間に立ちました。
「お願いです、リュカ様は敵ではありませんわ!」
「その瓶を持って何をするつもりだ!」
「人々を救うための薬ですよ、閣下!」
二人の怒気が交錯し、温室の空気が張りつめました。
けれどリュカは瓶を差し出し、真剣な眼差しで告げました。
「閣下。幻影草の毒を操る悪党“毒商人”が、祖母上の封印を解くために、この地に潜んでいます」
「毒商人だと?」
「はい。あの者たちは薬草を盗み、毒と解毒薬を両方作り、毒を撒いてから解毒薬を売りつける。
リリアーナ様の妹君に毒を盛ったのも連中の仕業だったのですよ」
「……まさか」
私は息を呑みました。あの日の不自然な発作が、すべて繋がったのです。
アレクシス様は眉を寄せ、鋭い声を放ちました。
「……なぜ黙っていた」
「信じてもらえないと思ったのです。証拠がありませんし、何より危険に巻き込んでしまうのが怖くて……でも、奴らはここを狙っています」
「……」
一瞬の沈黙のあと、アレクシス様は剣を納め、深く息をつきました。
「だが、これ以上一人の判断で動くな。――俺たちと共に行動するんだ」
「はい。承知しました」
その時、稲光が一閃し、硝子窓を白く照らしました。
直後に響く、ガラスの砕ける音。
「危ない! 悪党たち!」
リュカが叫びました。
咄嗟にアレクシス様が私の腕を掴み、そのまま胸へと抱き寄せます。
破片が次々と降り注ぎ、彼の背が盾となって私を守りました。
「怪我はないか」
「……大丈夫です」
「お前は本当に、俺を心配させるな」
息の混じる声。震える鼓動が、すぐそばに。
その温かさに、怖さよりも不思議な安心が勝っていました。
「ごめんなさい。でも、見過ごせなくて」
「わかっている。……お前のそういうところがたまらない……」
「え……?」
見上げると、灰青の瞳がまっすぐ私を見ていました。
何かを告げようとした瞬間、外から叫び声が。
「閣下! リリアーナ様! 外に敵がいます!」
リュカの緊迫した声。
温室の外には黒い外套をまとった数名の影――瓶のようなものを手にした男たち。
「毒商人たちです!」
「来たか……リリアーナ、下がれ」
アレクシス様が剣を抜き、リュカは瓶を構えます。
激しい風が吹き抜け、花弁が舞い上がりました。
「俺から離れるな」
「……はい!」
叫び終えるより早く、扉が破られました。
冷たい雨とともに敵たちが押し入り、鋭い閃光が走ります。
「リリアーナ――俺がいる」
その声が胸の奥に届いた次の瞬間、剣閃が闇を裂き、
リュカの投げた薬瓶が敵の持つ毒瓶に当たり、爆ぜるような光が空気を切り裂きました。 鼻に強烈なツンとした刺激臭。
「毒だわ、嗅いじゃダメ!」
私は咄嗟にアレクシス様の胸にしがみつきます。
白い煙が立ちのぼり、鼻を突く匂いが消えたころ――戦いは終わっていました。
リュカが膝をつき、割れた瓶を拾い集めます。
「……すべて燃えました。これで幻影草の苗は残っていません」
「ご苦労だった。……そして、お前も」
アレクシス様が私に視線を向け、肩をそっと抱き寄せました。
「怖かったろう」
「はい。でも……あなたの腕の中は、怖くありませんでした」
彼の唇がわずかに笑みに歪み、髪を撫でます。
「お前が無事でよかった」
「アレクシス様……」
名前を呼んだ途端、胸の奥が熱くなり、涙が滲みました。
雨が止み、硝子越しに月が姿を現します。
その白い光が、抱き合う二人をやさしく照らしていました。
「礼を言うな。俺がそうしたいだけだ」
そう言いながら、彼は指先で私の頬に触れ、涙を静かに拭いました。
私は微笑みました。
風が優しく吹き抜け、硝子の外で花々がそっと首を垂れました。
薄暮の光が温室の硝子を透かし、揺らめく灯りが外から滲んで見えます。
昼まで賑やかにさえずっていた小鳥の声も消え、かわりに雨だれが一定のリズムで硝子を叩いていました。
その静寂の中で、私は深く息を吸い込みました。
胸の奥には、どうしようもなく押さえきれないざわめきがありました。
――あの人は、なぜ姿を消したの。
リュカが去り際に残した「整いました」という言葉が、何度も頭の中でこだまします。
私を思ってくれたの、それとも裏切りの予兆だったの。
真実を確かめるように、私は薄暗い温室の扉に手をかけました。
「……もうこんな遅くなのに」
アレクシス様はまだ戻られません。
けれど、どうしても確かめたいことがありました。
“幻影草”――リュカが最後に記していたその草の名。
祖母の日誌にも一度だけ登場した、恐ろしい禁忌の植物。
明かりも持たず、私は静かに扉を押し開けました。
夜気が頬を撫で、濡れた草の香りが微かに漂います。
「リュカ様……? ここにいらっしゃいません……?」
応える声はなく、ただ風が草の葉を擦るような音が響きました。
私は胸の前で両手を組み、歩みを進めます。
と、その時――温室の奥、机の上から淡い青色の光が漏れているのを見つけました。
小さな薬瓶。
瓶の中で液体がゆらぎ、わずかに甘い芳香を放っています。
「……この香り……」
知っている。これは祖母が最後に調合していた、封印の薬。
私の手が震えながら瓶を持ち上げたその瞬間、背後から声がしました。
「答えを、知りたいですか?」
びくりと振り向くと、そこにリュカが立っていました。
白い外套の裾は濡れ、琥珀の瞳が淡く光を宿しています。
「リュカ様……! どこに行っていたのですか。皆心配して……」
「心配をかけてしまいましたね。すみません」
「もう……急にいなくなるなんて……どうして?」
彼は静かに微笑み、濡れた肩を軽く払いました。
「……領内を偵察していました。そして、あなたに伝えるために戻りました」
「伝える……?」
「危険が迫っていること。そして……忘れ物をしていたのです。“真実”を伝えるという、約束を」
その声に鼓動が速まります。
リュカの表情は穏やかで、どこか寂しげでもありました。
「リリアーナ様。あなたの祖母上が命をかけて封じた草のことをご存じですか?」
「……幻影草のこと?」
「ええ。あれはただの毒草ではありません。人の心を映し取り、幻を生み出す――愛も憎しみも狂気に変える恐ろしい植物です」
「そんなものが……この土地に?」
「残念ながら……ある森の中に……幻影草の源泉があります。私はあらためて、それを探すためにここへ来ました。父は源泉を発見して、その草による中毒になったのです」
彼の瞳にかすかな苦痛が宿ります。
「私は、あなたの祖母上を恨んでいました。錯乱した父を救えなかった人だと。けれど真実は違った。
祖母上は、幻影草の蔓延を封じるために命を削って、一旦は源泉を封じ込めたのですから」
「一旦……」
「ええ。悪党たちがその封印を解こうとしている。僕は人々を守ろうとしてここに来ました。父だけではなく、この土地、国中の人々を。
だからこそ、私は償いと感謝を両肩に背負い、この病の源を断ち、この世から消し去りたい……」
胸の奥が熱くなりました。
祖母が遺したあの日誌に綴られた“愛するほどに救いは遠のく”という一文が思い出されます。
あれは罪ではなく、祈りの言葉だったのですね。
「では……この瓶は?」
「最後の解毒薬です。幻影草の毒を打ち消す唯一のもの。ただ、まだ大切な何かが足りないから……封印が解かれてしまうんです」
そう言って、リュカは瓶を光にかざしました。
青い光がわずかに揺れ、私の瞳に反射してきらめきます。
その瞬間――。
「リリアーナ!」
鋭い声とともに、扉が勢いよく開きました。
アレクシス様が濡れた外套を翻しながら駆け込んでこられました。
右手には剣。冷ややかな閃光が一瞬、温室の空気を裂きます。
「リュカ、貴様――何をしている!」
「待ってください、アレクシス様!」
私は慌てて二人の間に立ちました。
「お願いです、リュカ様は敵ではありませんわ!」
「その瓶を持って何をするつもりだ!」
「人々を救うための薬ですよ、閣下!」
二人の怒気が交錯し、温室の空気が張りつめました。
けれどリュカは瓶を差し出し、真剣な眼差しで告げました。
「閣下。幻影草の毒を操る悪党“毒商人”が、祖母上の封印を解くために、この地に潜んでいます」
「毒商人だと?」
「はい。あの者たちは薬草を盗み、毒と解毒薬を両方作り、毒を撒いてから解毒薬を売りつける。
リリアーナ様の妹君に毒を盛ったのも連中の仕業だったのですよ」
「……まさか」
私は息を呑みました。あの日の不自然な発作が、すべて繋がったのです。
アレクシス様は眉を寄せ、鋭い声を放ちました。
「……なぜ黙っていた」
「信じてもらえないと思ったのです。証拠がありませんし、何より危険に巻き込んでしまうのが怖くて……でも、奴らはここを狙っています」
「……」
一瞬の沈黙のあと、アレクシス様は剣を納め、深く息をつきました。
「だが、これ以上一人の判断で動くな。――俺たちと共に行動するんだ」
「はい。承知しました」
その時、稲光が一閃し、硝子窓を白く照らしました。
直後に響く、ガラスの砕ける音。
「危ない! 悪党たち!」
リュカが叫びました。
咄嗟にアレクシス様が私の腕を掴み、そのまま胸へと抱き寄せます。
破片が次々と降り注ぎ、彼の背が盾となって私を守りました。
「怪我はないか」
「……大丈夫です」
「お前は本当に、俺を心配させるな」
息の混じる声。震える鼓動が、すぐそばに。
その温かさに、怖さよりも不思議な安心が勝っていました。
「ごめんなさい。でも、見過ごせなくて」
「わかっている。……お前のそういうところがたまらない……」
「え……?」
見上げると、灰青の瞳がまっすぐ私を見ていました。
何かを告げようとした瞬間、外から叫び声が。
「閣下! リリアーナ様! 外に敵がいます!」
リュカの緊迫した声。
温室の外には黒い外套をまとった数名の影――瓶のようなものを手にした男たち。
「毒商人たちです!」
「来たか……リリアーナ、下がれ」
アレクシス様が剣を抜き、リュカは瓶を構えます。
激しい風が吹き抜け、花弁が舞い上がりました。
「俺から離れるな」
「……はい!」
叫び終えるより早く、扉が破られました。
冷たい雨とともに敵たちが押し入り、鋭い閃光が走ります。
「リリアーナ――俺がいる」
その声が胸の奥に届いた次の瞬間、剣閃が闇を裂き、
リュカの投げた薬瓶が敵の持つ毒瓶に当たり、爆ぜるような光が空気を切り裂きました。 鼻に強烈なツンとした刺激臭。
「毒だわ、嗅いじゃダメ!」
私は咄嗟にアレクシス様の胸にしがみつきます。
白い煙が立ちのぼり、鼻を突く匂いが消えたころ――戦いは終わっていました。
リュカが膝をつき、割れた瓶を拾い集めます。
「……すべて燃えました。これで幻影草の苗は残っていません」
「ご苦労だった。……そして、お前も」
アレクシス様が私に視線を向け、肩をそっと抱き寄せました。
「怖かったろう」
「はい。でも……あなたの腕の中は、怖くありませんでした」
彼の唇がわずかに笑みに歪み、髪を撫でます。
「お前が無事でよかった」
「アレクシス様……」
名前を呼んだ途端、胸の奥が熱くなり、涙が滲みました。
雨が止み、硝子越しに月が姿を現します。
その白い光が、抱き合う二人をやさしく照らしていました。
「礼を言うな。俺がそうしたいだけだ」
そう言いながら、彼は指先で私の頬に触れ、涙を静かに拭いました。
私は微笑みました。
風が優しく吹き抜け、硝子の外で花々がそっと首を垂れました。
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