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第27章 春の城と新しい風
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ヴァレンティーヌ公爵領に春が訪れました。
丘の上に広がる薬草園には、やわらかな陽射しが降り注いで、冬の間眠っていた草花たちが次々と芽吹き始めています。緑の香りと、土の生き返る匂い。それらを胸いっぱいに吸い込むのが、私の一日の始まりでした。
「リリアーナ様、また朝一番でお庭ですか? 旦那様に ‘朝はゆっくり休め’ と言われていたでしょうに」
明るい声でそう言うのは、いつも元気な侍女のメアです。まだ少し寝癖が残っているのがとても彼女らしい。
「メア、朝の光は薬草によく効くのですよ。芽吹きの時期ですから、放っておけません」
「芽吹きよりも奥さまの体力が大事です。ほら、また泥だらけになって……あぁ、もうっ、うちの公爵夫人は働きすぎです!」
メアは呆れながらも笑って、手早く私のスカートについた土を払ってくれました。
「働いているというより、触れていると安心するんです。この土も、草も、息をしているみたい」
「まったくもう……旦那様がまた心配で眉間にしわを寄せますよ」
メアにそう言われたとたん、背後から静かな声がしました。
「それは、確かに寄ったな」
「ひゃっ!? 公爵様!?」
振り返ると、アレクシス様が立っていらっしゃいました。朝の光を背に、黒の上衣が風にわずかに揺れて、その淡い銀灰色の髪が光を受けてきらめいています。
「おはようございます、アレクシス様。……あの、朝から城の外に?」
「君がいないと静かすぎてね。つい探しに出た」
いつもは淡々とした方なのに、そんなふうに言われて、胸がどきんと跳ねてしまいます。
この方は本当にずるいです。いつまで経っても、慣れそうにありません。
「お仕事前の貴重なお時間を、すみません……」
「構わない。むしろ、こうして庭で君が笑っているのを見る方が、よほど仕事の活力になる」
「公爵様っ……朝からそんな……」
頬が熱くなるのを感じて、思わず俯きました。
その横でメアがにやにやしています。やめてください、そういう顔。
「メア。妻をからかうと減給だ」
「ひぃっ!? そ、そんなっ! 減給だなんてっ!」
慌てて両手を振るメアを見て、アレクシス様がわずかに口元を緩めました。
「冗談だ」
「旦那様、冗談が怖いです……」
苦笑いしかけたところで、アレクシス様が私の手を取られました。
指先が自然に絡まる。以前なら驚いて固まってしまっていた私ですが、今はその温もりを素直に受け取ることができます。
「冷たい。もう少し手袋をするように」
「ありがとうございます。……けれど、この手で草を触るときだけは、素手でいたいのです」
「薬草を愛しすぎだ。仕方のない人だな」
そう言いながら、アレクシス様は軽く私の髪を撫でてから去っていかれました。
後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐きました。胸の奥が、あたたかくなっていくのが分かります。
――幸せ、というものが形を持つなら、きっと今この時間のようなものなのだと思いました。
* * *
その日の午前、私たちは薬草館の新館落成式に招かれていました。
王国から派遣されてくる新任教師を迎えるための式典でもあります。領地の若い薬師たちに学問を広めるための教育機関が、ついに本格的に動き出すのです。
「歓迎の辞は君に任せるよ」
「わ、私ですか? 公爵様が為されるのでは……」
「この館がここまで整ったのは君の功績だから、ふさわしいのだ」
「で、ですが……緊張してしまいそうで」
「問題ない。君が話せば、誰もが安心する。……それとも、私が隣に立とうか?」
穏やかな声。そのわずかな冗談に胸が跳ねて、私は慌てて首を振りました。
「だ、大丈夫です! 一人で頑張ります!」
「ああ……それがいい」
ほんの一瞬、柔らかな笑みを見せてくださったその顔を見て、余計に緊張してしまいました。
* * *
そして――。
「王立薬草学院より参りました、ユリウス・ハートマンと申します。今日よりこちらで研究・教育に従事させていただきます」
金髪碧眼の青年が一歩前に出て、優雅に一礼しました。
品のある声で、舞台上の全員がその存在に注目しました。
「なんというか……王都らしい方ですね」
隣にいたメアが小声で囁きます。私は小さく笑って返しました。
確かにユリウス先生は、いかにも都会の光をまとった方です。
その場の挨拶が終わると、彼はまっすぐ私の方へ歩み寄ってこられました。
「あなたが、リリアーナ・ヴァレンティーヌ公爵夫人でいらっしゃいますね。お会いできて光栄です」
「お初にお目にかかります、ユリウス先生。遠路はるばるお疲れさまでした。こちらの土は、王都より少し冷たいですよ」
私は笑って迎えましたが、何だか彼の目がやや真剣に感じられて少し居心地が悪くなりました。
「いえ、この地の空気はすばらしい。……それに何より、あなたのお噂は王都でも有名ですよ。王立学院の薬草課程では、あなたの論文を基礎教材として扱っているのです。研究者として尊敬しております」
「そ、そうでしたの……? 恐縮です……」
「尊敬というより、敬愛です。――あなたのその探究心と、人を癒やす優しさを、私は研究者として理想だと思っています」
ユリウス先生の言葉に、私は戸惑うばかりでした。
どう返したらいいのかわからず、つい目を逸らすと、会場の端にいたアレクシス様がわずかに眉を動かしているのが見えました。
……え、い、今の顔、ほんのちょっとだけ怖くなかったでしょうか?
* * *
式が終わって数日後。
ユリウス先生はとても熱心に研究を進めていました。私の開発した薬草栽培法にも興味を持たれ、質問をたくさんしてくださるのです。
「この調合法、まるで魔法のようですね。リリアーナ夫人、少しでも教えていただけますか?」
「え、ええ……もちろん、できる範囲でなら」
そう答えると、彼の顔がぱっと明るくなりました。
「ありがとうございます。あなたのような方が王都の学院にいらしたら、どれほどの才能が救われるか……」
「私はまだまだです。夫や領地の方々に支えられて、やっと少しずつ形にできているだけですよ」
「謙遜されて……ですが、あなたこそ本当の賢者です」
そんなふうに真顔で言われると、反応に困ってしまいます。
そのとき――。
「君は学院の教師にしては少し口が軽いな」
低く落ち着いた声が響き、私たちは同時に振り向きました。
扉のところにアレクシス様が立っていました。腕を組み、冷ややかにユリウス先生を見つめています。
「こ、これは……公爵閣下」
「この館の研究は領地の協力あってのものだ。夫人を仕事漬けにせぬように」
「はっ、はい……失礼いたしました」
ユリウス先生が一歩下がったのを見て、アレクシス様は私に視線を戻されました。柔らかい声ではありましたが、その奥に何かチクリと刺さるものを感じます。
「君も、あまり無理をしないように」
「そ、そんな……私、無理なんてしていません。新しい出会いは学びになりますし」
思わず弁解すると、アレクシス様が僅かに目を伏せられました。
「……そうか。ならいい」
彼はそのまま部屋を出ていかれました。
その背を見つめていると、ユリウス先生が小さくため息をつきました。
「公爵閣下は……少しお厳しい方ですね」
「いえ、優しい方ですよ。いつも心配してくださるんです」
「なるほど。……心配、ですか」
ユリウス先生の笑みに、微妙な影が差した気がして、私は胸の奥で小さなざわめきを覚えました。
* * *
その日の夕方。
「無理をするなと言ったはずだ」
書斎で書類を整えていると、アレクシス様が静かにドアを閉めながら言いました。
机の上には、ユリウス先生と一緒に作成した研究資料が広がっています。
「これは無理ではなくて、勉強です。……新しい知識を取り入れたくて」
「だが、君はもう十分成果を出している。これ以上、何を焦る?」
「焦っているわけではありません。ただ……もっと、誰かの役に立ちたいのです」
「君はもう十分に人を救っている」
「それでも、私はまだあの日の気持ちを覚えているんです。誰にも必要とされないと思っていた頃の自分を……。だから今の私は、怖いんです。立ち止まってしまうことが」
沈黙が部屋に降り立ちました。
アレクシス様はゆっくりと私に近づくと、椅子の背後に立って肩にそっと手を置かれました。
「……すまない。私が、また君の自由を縛るようなことを言った」
「そんな、違います。私も少し言いすぎました」
「いいや。君の目を曇らせたくないだけだ。君が光でいるために、私は氷でいても構わない」
「アレクシス様……」
その言葉に胸が詰まり、思わず彼の手に自分の手を重ねました。
彼の指先がわずかに強く握り返します。
「寒いですか?」
「いや。君の手があるなら、寒さなどない」
小さく笑いあって、部屋の灯が少し温かく揺れました。
その瞬間、すべての不安が溶け出していくのを感じたのです。
* * *
夜。寝室で鏡を見ながら、私は一人で苦笑しました。
「もう少し素直になられてもいいのに……」
そう呟いていると、扉が軽くノックされました。
「入るぞ」
「あ、アレクシス様! し、支度まだ――」
彼は静かに入ってくると、ベッドサイドに腰を下ろしました。
表情は穏やかですが、その目の奥になにか思案の色を宿しています。
「王から手紙が来た。王都の学院で、新しい病の研究が始まるらしい。ユリウス・ハートマンがその主任に推されているという」
「そう……ですか。すばらしいことですね」
「それと一緒に、君の名も挙がっている。――共同研究者として」
「え……私の?」
「ああ。だが、君の体を思えば安易に受けるべきではない。私は望まない」
「でも……この国の人々を救える研究なら、参加したいです。私にできることがあるのなら」
「……君は、いつもそうだな」
アレクシス様は立ち上がると、私の頬にゆっくりと触れました。
手のひらが熱を帯びて、言葉が消されます。
「誰かのために自分を犠牲にするな。君は君自身をもっと大事にしていい」
「……わかっています。でも、あなたがいてくださるなら、私はどこへでも行けます」
その言葉に彼が息を止めたのがわかりました。
次の瞬間、彼は小さく笑って私を抱きしめました。
「無茶をしても、必ず帰ってこい。――約束だ」
「はい、約束します」
抱きしめられる腕の力強さに、胸の奥で春の花がそっと咲いた気がしました。
丘の上に広がる薬草園には、やわらかな陽射しが降り注いで、冬の間眠っていた草花たちが次々と芽吹き始めています。緑の香りと、土の生き返る匂い。それらを胸いっぱいに吸い込むのが、私の一日の始まりでした。
「リリアーナ様、また朝一番でお庭ですか? 旦那様に ‘朝はゆっくり休め’ と言われていたでしょうに」
明るい声でそう言うのは、いつも元気な侍女のメアです。まだ少し寝癖が残っているのがとても彼女らしい。
「メア、朝の光は薬草によく効くのですよ。芽吹きの時期ですから、放っておけません」
「芽吹きよりも奥さまの体力が大事です。ほら、また泥だらけになって……あぁ、もうっ、うちの公爵夫人は働きすぎです!」
メアは呆れながらも笑って、手早く私のスカートについた土を払ってくれました。
「働いているというより、触れていると安心するんです。この土も、草も、息をしているみたい」
「まったくもう……旦那様がまた心配で眉間にしわを寄せますよ」
メアにそう言われたとたん、背後から静かな声がしました。
「それは、確かに寄ったな」
「ひゃっ!? 公爵様!?」
振り返ると、アレクシス様が立っていらっしゃいました。朝の光を背に、黒の上衣が風にわずかに揺れて、その淡い銀灰色の髪が光を受けてきらめいています。
「おはようございます、アレクシス様。……あの、朝から城の外に?」
「君がいないと静かすぎてね。つい探しに出た」
いつもは淡々とした方なのに、そんなふうに言われて、胸がどきんと跳ねてしまいます。
この方は本当にずるいです。いつまで経っても、慣れそうにありません。
「お仕事前の貴重なお時間を、すみません……」
「構わない。むしろ、こうして庭で君が笑っているのを見る方が、よほど仕事の活力になる」
「公爵様っ……朝からそんな……」
頬が熱くなるのを感じて、思わず俯きました。
その横でメアがにやにやしています。やめてください、そういう顔。
「メア。妻をからかうと減給だ」
「ひぃっ!? そ、そんなっ! 減給だなんてっ!」
慌てて両手を振るメアを見て、アレクシス様がわずかに口元を緩めました。
「冗談だ」
「旦那様、冗談が怖いです……」
苦笑いしかけたところで、アレクシス様が私の手を取られました。
指先が自然に絡まる。以前なら驚いて固まってしまっていた私ですが、今はその温もりを素直に受け取ることができます。
「冷たい。もう少し手袋をするように」
「ありがとうございます。……けれど、この手で草を触るときだけは、素手でいたいのです」
「薬草を愛しすぎだ。仕方のない人だな」
そう言いながら、アレクシス様は軽く私の髪を撫でてから去っていかれました。
後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐きました。胸の奥が、あたたかくなっていくのが分かります。
――幸せ、というものが形を持つなら、きっと今この時間のようなものなのだと思いました。
* * *
その日の午前、私たちは薬草館の新館落成式に招かれていました。
王国から派遣されてくる新任教師を迎えるための式典でもあります。領地の若い薬師たちに学問を広めるための教育機関が、ついに本格的に動き出すのです。
「歓迎の辞は君に任せるよ」
「わ、私ですか? 公爵様が為されるのでは……」
「この館がここまで整ったのは君の功績だから、ふさわしいのだ」
「で、ですが……緊張してしまいそうで」
「問題ない。君が話せば、誰もが安心する。……それとも、私が隣に立とうか?」
穏やかな声。そのわずかな冗談に胸が跳ねて、私は慌てて首を振りました。
「だ、大丈夫です! 一人で頑張ります!」
「ああ……それがいい」
ほんの一瞬、柔らかな笑みを見せてくださったその顔を見て、余計に緊張してしまいました。
* * *
そして――。
「王立薬草学院より参りました、ユリウス・ハートマンと申します。今日よりこちらで研究・教育に従事させていただきます」
金髪碧眼の青年が一歩前に出て、優雅に一礼しました。
品のある声で、舞台上の全員がその存在に注目しました。
「なんというか……王都らしい方ですね」
隣にいたメアが小声で囁きます。私は小さく笑って返しました。
確かにユリウス先生は、いかにも都会の光をまとった方です。
その場の挨拶が終わると、彼はまっすぐ私の方へ歩み寄ってこられました。
「あなたが、リリアーナ・ヴァレンティーヌ公爵夫人でいらっしゃいますね。お会いできて光栄です」
「お初にお目にかかります、ユリウス先生。遠路はるばるお疲れさまでした。こちらの土は、王都より少し冷たいですよ」
私は笑って迎えましたが、何だか彼の目がやや真剣に感じられて少し居心地が悪くなりました。
「いえ、この地の空気はすばらしい。……それに何より、あなたのお噂は王都でも有名ですよ。王立学院の薬草課程では、あなたの論文を基礎教材として扱っているのです。研究者として尊敬しております」
「そ、そうでしたの……? 恐縮です……」
「尊敬というより、敬愛です。――あなたのその探究心と、人を癒やす優しさを、私は研究者として理想だと思っています」
ユリウス先生の言葉に、私は戸惑うばかりでした。
どう返したらいいのかわからず、つい目を逸らすと、会場の端にいたアレクシス様がわずかに眉を動かしているのが見えました。
……え、い、今の顔、ほんのちょっとだけ怖くなかったでしょうか?
* * *
式が終わって数日後。
ユリウス先生はとても熱心に研究を進めていました。私の開発した薬草栽培法にも興味を持たれ、質問をたくさんしてくださるのです。
「この調合法、まるで魔法のようですね。リリアーナ夫人、少しでも教えていただけますか?」
「え、ええ……もちろん、できる範囲でなら」
そう答えると、彼の顔がぱっと明るくなりました。
「ありがとうございます。あなたのような方が王都の学院にいらしたら、どれほどの才能が救われるか……」
「私はまだまだです。夫や領地の方々に支えられて、やっと少しずつ形にできているだけですよ」
「謙遜されて……ですが、あなたこそ本当の賢者です」
そんなふうに真顔で言われると、反応に困ってしまいます。
そのとき――。
「君は学院の教師にしては少し口が軽いな」
低く落ち着いた声が響き、私たちは同時に振り向きました。
扉のところにアレクシス様が立っていました。腕を組み、冷ややかにユリウス先生を見つめています。
「こ、これは……公爵閣下」
「この館の研究は領地の協力あってのものだ。夫人を仕事漬けにせぬように」
「はっ、はい……失礼いたしました」
ユリウス先生が一歩下がったのを見て、アレクシス様は私に視線を戻されました。柔らかい声ではありましたが、その奥に何かチクリと刺さるものを感じます。
「君も、あまり無理をしないように」
「そ、そんな……私、無理なんてしていません。新しい出会いは学びになりますし」
思わず弁解すると、アレクシス様が僅かに目を伏せられました。
「……そうか。ならいい」
彼はそのまま部屋を出ていかれました。
その背を見つめていると、ユリウス先生が小さくため息をつきました。
「公爵閣下は……少しお厳しい方ですね」
「いえ、優しい方ですよ。いつも心配してくださるんです」
「なるほど。……心配、ですか」
ユリウス先生の笑みに、微妙な影が差した気がして、私は胸の奥で小さなざわめきを覚えました。
* * *
その日の夕方。
「無理をするなと言ったはずだ」
書斎で書類を整えていると、アレクシス様が静かにドアを閉めながら言いました。
机の上には、ユリウス先生と一緒に作成した研究資料が広がっています。
「これは無理ではなくて、勉強です。……新しい知識を取り入れたくて」
「だが、君はもう十分成果を出している。これ以上、何を焦る?」
「焦っているわけではありません。ただ……もっと、誰かの役に立ちたいのです」
「君はもう十分に人を救っている」
「それでも、私はまだあの日の気持ちを覚えているんです。誰にも必要とされないと思っていた頃の自分を……。だから今の私は、怖いんです。立ち止まってしまうことが」
沈黙が部屋に降り立ちました。
アレクシス様はゆっくりと私に近づくと、椅子の背後に立って肩にそっと手を置かれました。
「……すまない。私が、また君の自由を縛るようなことを言った」
「そんな、違います。私も少し言いすぎました」
「いいや。君の目を曇らせたくないだけだ。君が光でいるために、私は氷でいても構わない」
「アレクシス様……」
その言葉に胸が詰まり、思わず彼の手に自分の手を重ねました。
彼の指先がわずかに強く握り返します。
「寒いですか?」
「いや。君の手があるなら、寒さなどない」
小さく笑いあって、部屋の灯が少し温かく揺れました。
その瞬間、すべての不安が溶け出していくのを感じたのです。
* * *
夜。寝室で鏡を見ながら、私は一人で苦笑しました。
「もう少し素直になられてもいいのに……」
そう呟いていると、扉が軽くノックされました。
「入るぞ」
「あ、アレクシス様! し、支度まだ――」
彼は静かに入ってくると、ベッドサイドに腰を下ろしました。
表情は穏やかですが、その目の奥になにか思案の色を宿しています。
「王から手紙が来た。王都の学院で、新しい病の研究が始まるらしい。ユリウス・ハートマンがその主任に推されているという」
「そう……ですか。すばらしいことですね」
「それと一緒に、君の名も挙がっている。――共同研究者として」
「え……私の?」
「ああ。だが、君の体を思えば安易に受けるべきではない。私は望まない」
「でも……この国の人々を救える研究なら、参加したいです。私にできることがあるのなら」
「……君は、いつもそうだな」
アレクシス様は立ち上がると、私の頬にゆっくりと触れました。
手のひらが熱を帯びて、言葉が消されます。
「誰かのために自分を犠牲にするな。君は君自身をもっと大事にしていい」
「……わかっています。でも、あなたがいてくださるなら、私はどこへでも行けます」
その言葉に彼が息を止めたのがわかりました。
次の瞬間、彼は小さく笑って私を抱きしめました。
「無茶をしても、必ず帰ってこい。――約束だ」
「はい、約束します」
抱きしめられる腕の力強さに、胸の奥で春の花がそっと咲いた気がしました。
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