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第29章 25種の薬草
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王都に到着したのは、春の盛りを過ぎたころでした。
道の両脇では白花の並木が風に揺れ、微かな香りが流れてきます。
それなのに、私の胸の中には期待と不安が縒り合わさったものが、ひどくざわついていました。
「リリアーナ夫人、こちらの宿舎になります。学院の学者方にはすでにご紹介を済ませています」
案内人の声に頷きながら、私は大きな門を見上げました。
王立薬草学院――公爵領とは空気も時の流れも違う、学問と野心の都です。
「ここが、あの学院……王都の象徴みたいな場所なんですね」
立派な回廊の石畳を歩きながら、思わず呟きました。
長い廊下の向こうには薬の香り、紙をめくる音、誰かの笑い声――。懐かしささえ感じる匂いでした。
「夫人! ご到着を待ちわびていました」
現れたのはユリウス先生。相変わらず爽やかに微笑みながら駆け寄ってきます。
「さあ、こちらへ。新しい研究室を用意してあります! 広さも採光も、完璧ですよ」
「相変わらずお早いですね……学院中を駆け抜けていそう」
「あなたの研究となれば当然です」
ユリウス先生の目は期待に輝いていました。
その熱意はありがたいのですが――その目の奥にあるものは、果たして純粋な学者の目だけなのか、ふと考えてしまいます。
* * *
研究室には、広い窓と天井の高い本棚が並び、中央に大きな実験台がありました。
いくつもの薬草標本が分類・陳列され、王都らしい整然さと美しさを感じさせます。
「素晴らしい設備ですね……それに、この香り……」
「ええ、王都ではまだ未分類の草も含まれています。あなたに分析していただきたくて集めたんです」
「こんなにたくさん……!」
「さあ、さっそく始めましょう。“25種の薬草”計画の第一段階です」
ユリウス先生は机上の布をぱっと外しました。
その下に現れたのは一枚の図面。25輪の花が円を描くように配置されています。
「これが《ミラ・コロヌ計画》。奇跡の冠草を、あなたとともに完成させるのが私の夢です」
「……25種類の薬草を基盤にした万能治療薬。まるで夢のような構想ですね」
「夢を現実にできるのは、夢を見る勇気を持つ者だけです」
そう言って笑うユリウス先生の瞳に、昔の自分の姿が重なりました。
――まだ何者でもなかったころ、努力だけを信じていたあの頃の私。
「ぜひ一緒に取り組みましょう。多くの命を救える可能性があります」
「ありがとうございます。王国の未来のために、全力を尽くします」
そう口にしながらも、心のどこかで、アレクシス様の表情が思い浮かびました。
あのときの静かな声、「失うのが怖いだけだ」という言葉が、ずっと響いていたのです。
* * *
研究に没頭する日々が始まりました。
「リリアーナ夫人、新しい抽出法を試してみました。従来の温度より低温で……」
「なるほど、揮発性を抑えられますね。ではこちらに“夜露草”を加えて、安定化を試してみましょう」
朝から夜まで実験と記録の繰り返し。
ユリウス先生の知識と手際は驚くほど精密で、私も刺激を受けました。
ただ……
「夫人、あまり無茶をなさらないでください。目の下のくまが心配です」
「平気です。集中していると時間を忘れてしまって……」
「研究も結構ですが、あなたは一人の女性でもある。どうかご自身を大切に」
「……ありがとうございます」
柔らかい声。けれど、どこか距離を詰めてくるような口調。
その瞬間、扉の向こうで足音が響きました。
開いた扉の先に立っていたのは――。
「……アレクシス様!?」
「王立学院に御用がありましてな」
まさか領地を離れて王都まで来られるとは思わず、驚いてしまいました。
ですがアレクシス様の表情はやや険しく、目の奥で冷たく光るものがありました。
「ハートマン殿。随分と熱心に働かれているようだ」
「閣下。これは王国のための仕事です。個人的なものではありませんよ」
「そうであってほしいものだ」
ぴしり、と空気が凍りました。
私は慌てて二人の間に割って入りました。
「お二人とも落ち着いてください。目的は同じはずです。誰かを救うこと――それだけです」
そう言うと、アレクシス様が少しだけ目を伏せました。
「……そうだな。すまない、つい言葉が過ぎた」
「いえ、奥さまを案じておられるのだとわかります」と、ユリウス先生も一歩下がり、その場はおさまりました。
* * *
その夜。
宿舎の窓辺に立つと、王都の夜空は宝石のように灯が輝いて見えました。
「アレクシス様、お休みにならないのですか?」
背後から声をかけると、彼は小さく息を吐きました。
「君の研究を見て、思い知らされた。……君はもう、自分の足で立っている。誇らしくもあり、少し怖くもある」
「怖い?」
「君が遠くへ行ってしまうようで」
その言葉は、まるで春の夜風のように、優しく痛みを伴いました。
「行きはしますが、離れません。あなたの信じてくれた道を歩きたいんです」
「ならば信じよう。だが、どうか忘れないでくれ。君がどれほど多くの人を癒やしても、君を癒やせるのは――」
「あなただけ、ですね」
私が微笑んで言うと、アレクシス様はわずかに目を見開いた後、静かに頷かれました。
そしてそっと私の髪を撫で、低く囁きます。
「……その言葉で、氷が溶けそうだ」
胸の鼓動が跳ねて、頬が熱くなりました。
彼がそっと手を取ってくださるだけで、世界が静まる気がします。
* * *
けれど翌朝、研究室で思わぬことが起こりました。
一晩かけてまとめた資料が、一部なくなっていたのです。
「……確かにここに置いておいたはずなのに」
机の上を探す私を見て、ユリウス先生も眉を寄せました。
「まさか、盗難……?」
「どうしてそんな……!」
学院の中で、貴重な研究資料が消えるなど前代未聞。
ただの盗難ならまだしも――。
ふと、嫌な予感が脳裏をよぎりました。
まだ、何かが動いている。
「リリアーナ夫人、落ち着いてください。私が責任をもって調べます」
「お願いします。誰かがこの研究を悪用すれば、救える命が失われてしまうかもしれません」
私は拳を握りしめていました。
道の両脇では白花の並木が風に揺れ、微かな香りが流れてきます。
それなのに、私の胸の中には期待と不安が縒り合わさったものが、ひどくざわついていました。
「リリアーナ夫人、こちらの宿舎になります。学院の学者方にはすでにご紹介を済ませています」
案内人の声に頷きながら、私は大きな門を見上げました。
王立薬草学院――公爵領とは空気も時の流れも違う、学問と野心の都です。
「ここが、あの学院……王都の象徴みたいな場所なんですね」
立派な回廊の石畳を歩きながら、思わず呟きました。
長い廊下の向こうには薬の香り、紙をめくる音、誰かの笑い声――。懐かしささえ感じる匂いでした。
「夫人! ご到着を待ちわびていました」
現れたのはユリウス先生。相変わらず爽やかに微笑みながら駆け寄ってきます。
「さあ、こちらへ。新しい研究室を用意してあります! 広さも採光も、完璧ですよ」
「相変わらずお早いですね……学院中を駆け抜けていそう」
「あなたの研究となれば当然です」
ユリウス先生の目は期待に輝いていました。
その熱意はありがたいのですが――その目の奥にあるものは、果たして純粋な学者の目だけなのか、ふと考えてしまいます。
* * *
研究室には、広い窓と天井の高い本棚が並び、中央に大きな実験台がありました。
いくつもの薬草標本が分類・陳列され、王都らしい整然さと美しさを感じさせます。
「素晴らしい設備ですね……それに、この香り……」
「ええ、王都ではまだ未分類の草も含まれています。あなたに分析していただきたくて集めたんです」
「こんなにたくさん……!」
「さあ、さっそく始めましょう。“25種の薬草”計画の第一段階です」
ユリウス先生は机上の布をぱっと外しました。
その下に現れたのは一枚の図面。25輪の花が円を描くように配置されています。
「これが《ミラ・コロヌ計画》。奇跡の冠草を、あなたとともに完成させるのが私の夢です」
「……25種類の薬草を基盤にした万能治療薬。まるで夢のような構想ですね」
「夢を現実にできるのは、夢を見る勇気を持つ者だけです」
そう言って笑うユリウス先生の瞳に、昔の自分の姿が重なりました。
――まだ何者でもなかったころ、努力だけを信じていたあの頃の私。
「ぜひ一緒に取り組みましょう。多くの命を救える可能性があります」
「ありがとうございます。王国の未来のために、全力を尽くします」
そう口にしながらも、心のどこかで、アレクシス様の表情が思い浮かびました。
あのときの静かな声、「失うのが怖いだけだ」という言葉が、ずっと響いていたのです。
* * *
研究に没頭する日々が始まりました。
「リリアーナ夫人、新しい抽出法を試してみました。従来の温度より低温で……」
「なるほど、揮発性を抑えられますね。ではこちらに“夜露草”を加えて、安定化を試してみましょう」
朝から夜まで実験と記録の繰り返し。
ユリウス先生の知識と手際は驚くほど精密で、私も刺激を受けました。
ただ……
「夫人、あまり無茶をなさらないでください。目の下のくまが心配です」
「平気です。集中していると時間を忘れてしまって……」
「研究も結構ですが、あなたは一人の女性でもある。どうかご自身を大切に」
「……ありがとうございます」
柔らかい声。けれど、どこか距離を詰めてくるような口調。
その瞬間、扉の向こうで足音が響きました。
開いた扉の先に立っていたのは――。
「……アレクシス様!?」
「王立学院に御用がありましてな」
まさか領地を離れて王都まで来られるとは思わず、驚いてしまいました。
ですがアレクシス様の表情はやや険しく、目の奥で冷たく光るものがありました。
「ハートマン殿。随分と熱心に働かれているようだ」
「閣下。これは王国のための仕事です。個人的なものではありませんよ」
「そうであってほしいものだ」
ぴしり、と空気が凍りました。
私は慌てて二人の間に割って入りました。
「お二人とも落ち着いてください。目的は同じはずです。誰かを救うこと――それだけです」
そう言うと、アレクシス様が少しだけ目を伏せました。
「……そうだな。すまない、つい言葉が過ぎた」
「いえ、奥さまを案じておられるのだとわかります」と、ユリウス先生も一歩下がり、その場はおさまりました。
* * *
その夜。
宿舎の窓辺に立つと、王都の夜空は宝石のように灯が輝いて見えました。
「アレクシス様、お休みにならないのですか?」
背後から声をかけると、彼は小さく息を吐きました。
「君の研究を見て、思い知らされた。……君はもう、自分の足で立っている。誇らしくもあり、少し怖くもある」
「怖い?」
「君が遠くへ行ってしまうようで」
その言葉は、まるで春の夜風のように、優しく痛みを伴いました。
「行きはしますが、離れません。あなたの信じてくれた道を歩きたいんです」
「ならば信じよう。だが、どうか忘れないでくれ。君がどれほど多くの人を癒やしても、君を癒やせるのは――」
「あなただけ、ですね」
私が微笑んで言うと、アレクシス様はわずかに目を見開いた後、静かに頷かれました。
そしてそっと私の髪を撫で、低く囁きます。
「……その言葉で、氷が溶けそうだ」
胸の鼓動が跳ねて、頬が熱くなりました。
彼がそっと手を取ってくださるだけで、世界が静まる気がします。
* * *
けれど翌朝、研究室で思わぬことが起こりました。
一晩かけてまとめた資料が、一部なくなっていたのです。
「……確かにここに置いておいたはずなのに」
机の上を探す私を見て、ユリウス先生も眉を寄せました。
「まさか、盗難……?」
「どうしてそんな……!」
学院の中で、貴重な研究資料が消えるなど前代未聞。
ただの盗難ならまだしも――。
ふと、嫌な予感が脳裏をよぎりました。
まだ、何かが動いている。
「リリアーナ夫人、落ち着いてください。私が責任をもって調べます」
「お願いします。誰かがこの研究を悪用すれば、救える命が失われてしまうかもしれません」
私は拳を握りしめていました。
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