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第30章 消えた書簡
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朝の光が差し込む研究室は、いつになく静かでした。
机の上の書類は整っているのに、肝心の“研究記録”だけが丸ごと姿を消しているのです。
「やっぱり、ありませんね……昨夜ここに置いたのです」
「確かに見ました」
ユリウス先生が真剣な表情で頷きます。
「夜の見回りも異常はなかった。内部の者しか入れない部屋だ。外部からの犯行ではありません」
「では……この学院の誰かが?」
「断定はできません。ただ、この内容が外に漏れれば、悪意のある商会が“奇跡の薬”を偽造するでしょう。王国中が混乱に陥ります」
私の心臓はどくんと嫌な音を立てました。
“25種の薬草計画”は、まだ未完成なのです。完全な理解がなければ、毒に化す危険だってある。
「……どうして、誰……」
震える指を唇に当てたそのとき。
研究室の扉前に小さな足音が近づき、侍従が封書を差し出しました。
「ヴァレンティーヌ公爵閣下からのお手紙でございます」
「え! アレクシス様から?」
嫌な胸騒ぎのまま封を切ると、整った文字が静かに並んでいました。
『盗難の件をすでに把握した。王都で人を動かす。君は慎重に行動を。真に信じられる人間は限られている。
追伸:君を守る――アレクシス』
なぜでしょう。読めば読むほど、心が締め付けられました。
「公爵閣下から……ですか」
ユリウス先生が覗き込み、紙を見て顔を曇らせました。
「疑いはあなたに向かってはいませんか? “王立学院の者を信用しすぎるな”――そう読めますが」
「そんなこと……アレクシス様は私を信じてくださっています」
「失礼しました。でも、信頼とは脆いものですよ、夫人。少しの陰でも割れる」
ユリウス先生の低い声に、私は首を横に振りました。
「いいえ、信じます。あの方は、氷のように見えても、誰よりも誠実な方ですから」
そう言いながら、自分の声がわずかに震えていました。
* * *
午後、学院の講堂で臨時会議が開かれました。
盗まれた研究書について調査委員会が設けられ、全職員の荷物検査が始まることに。
「物騒ですねえ。夫人まで疑われたら大変です」
数人の学士が囁いていたのを、私は耳にしました。
その言葉にユリウス先生が険しい顔をします。
「誰が疑うものか。彼女こそこの研究の要だ。そんな中傷――」
「ユリウス先生」
私は静かに遮りました。
「誰も悪意で言っているわけではないでしょう。証拠が出るまでは……静観を」
「静観? あなたが悪者扱いされても?」
「どんなにそう見られても構いません。真実があれば、それでいいんです」
――そう、あの人も言いました。
私の努力と信念は、誰にも奪えないと。
けれど同じ時刻、王都中の噂がひとつ流れ始めていました。
“リリアーナ夫人の研究を持ち出したのは、彼女自身だ。王家に取り入るために証を作ったのだ”――と。
「ま、まさか、そんな馬鹿な……!」
* * *
夕刻、学院を出た私は馬車の中で深く息を吐きました。
人々の視線が妙に冷たく感じる。
街の噂があっという間に広がっているのがわかりました。
「リリアーナ様、どうされます?」
メアが心配そうに覗き込みます。
「領地に戻られれば、公爵様も安心なさいます」
「ダメです。戻っては……このまま逃げるみたいになってしまうわ」
「でも、こんな理不尽な……!」
「私はアレクシス様の妻です。真実を自分の手で証明してみせます」
そう言い切った瞬間、馬車が急停車しました。
外で騒ぐ声、そして――扉を叩く大きな拳の音。
「ヴァレンティーヌ夫人! 学院調査官の命により、同行願います!」
「ど、同行? ま、待ってください、私は――」
「証言が必要だそうです。ご協力を」
門の向こうで、見慣れた黒衣の男が控えていました。
その人物が口元をほころばせて言います。
「お久しぶりですね、夫人。ライオネル殿下の名を出せば、話が早いと思いまして」
――ライオネル。
忌まわしい名前。過去に切り捨てたはずの、私の元婚約者。なぜ王都でその名が動くのか。
「あなた……まさか、協力者が学院内に!?」
「さあ、どうでしょう。私はただの行政書士に過ぎません」
相手は冷笑を残して去っていきました。
胸の鼓動が早まります。
――過去は、終わっていなかった。
彼がまだ、裏で私を貶めようとしているのかもしれない……。
* * *
夜。
宿舎の窓辺で、私は震える灯の下、再びアレクシス様に手紙をしたためました。
『私は必ず真実を突き止めます。どうか心配しないでください。
けれどもし、今後王都の噂があなたにまで届いても――私を、信じていてください。』
震える指で封を閉じると、ふいに涙が落ちました。
恐怖ではなく、もどかしさの涙。
会いたい。顔を見て笑いたい。たったそれだけなのに、距離が遠く感じる。
窓外の月が淡くかすんで見えました。
* * *
翌朝、学院前広場。
私はユリウス先生とともに調査官の質問を受けていました。
「失礼ですが、この研究内容に触れられるのは君とハートマン氏だけ、という事実で間違いないか?」
「……はい。その通りです」
「ならば今回の盗難も、内部の犯行と断定せざるを得ない」
ざわめく空気の中、ユリウス先生が口を開きました。
「証拠もないまま夫人を疑うのは許されません! むしろ私の不手際です。責任は私にあります」
「ユ、ユリウス先生!」
「この国に必要なのは、彼女の研究だ。彼女がいなければ多くの命が……!」
その叫びに、会場が静まりました。
誰も、次の言葉を発せません。
――けれどその翌日、事態はさらに悪い方向へと傾きました。
王都の新聞見出しが、こう告げていたのです。
《新薬の原案、ユリウス・ハートマンによる発表へ》
――私の名は、そこには一行もありませんでした。
「まさか……!」
手にした紙が、震えて視界が滲みました。
この国の誰もが、その名を“奇跡の学士”として讃えるでしょう。
けれどそれは、私が積み上げた努力の上に立つもの。
「ユリウス先生……あなたまで……?」
問いは空に消えました。
薄雲の向こう、春の太陽がまるで皮肉のように眩しい――。
机の上の書類は整っているのに、肝心の“研究記録”だけが丸ごと姿を消しているのです。
「やっぱり、ありませんね……昨夜ここに置いたのです」
「確かに見ました」
ユリウス先生が真剣な表情で頷きます。
「夜の見回りも異常はなかった。内部の者しか入れない部屋だ。外部からの犯行ではありません」
「では……この学院の誰かが?」
「断定はできません。ただ、この内容が外に漏れれば、悪意のある商会が“奇跡の薬”を偽造するでしょう。王国中が混乱に陥ります」
私の心臓はどくんと嫌な音を立てました。
“25種の薬草計画”は、まだ未完成なのです。完全な理解がなければ、毒に化す危険だってある。
「……どうして、誰……」
震える指を唇に当てたそのとき。
研究室の扉前に小さな足音が近づき、侍従が封書を差し出しました。
「ヴァレンティーヌ公爵閣下からのお手紙でございます」
「え! アレクシス様から?」
嫌な胸騒ぎのまま封を切ると、整った文字が静かに並んでいました。
『盗難の件をすでに把握した。王都で人を動かす。君は慎重に行動を。真に信じられる人間は限られている。
追伸:君を守る――アレクシス』
なぜでしょう。読めば読むほど、心が締め付けられました。
「公爵閣下から……ですか」
ユリウス先生が覗き込み、紙を見て顔を曇らせました。
「疑いはあなたに向かってはいませんか? “王立学院の者を信用しすぎるな”――そう読めますが」
「そんなこと……アレクシス様は私を信じてくださっています」
「失礼しました。でも、信頼とは脆いものですよ、夫人。少しの陰でも割れる」
ユリウス先生の低い声に、私は首を横に振りました。
「いいえ、信じます。あの方は、氷のように見えても、誰よりも誠実な方ですから」
そう言いながら、自分の声がわずかに震えていました。
* * *
午後、学院の講堂で臨時会議が開かれました。
盗まれた研究書について調査委員会が設けられ、全職員の荷物検査が始まることに。
「物騒ですねえ。夫人まで疑われたら大変です」
数人の学士が囁いていたのを、私は耳にしました。
その言葉にユリウス先生が険しい顔をします。
「誰が疑うものか。彼女こそこの研究の要だ。そんな中傷――」
「ユリウス先生」
私は静かに遮りました。
「誰も悪意で言っているわけではないでしょう。証拠が出るまでは……静観を」
「静観? あなたが悪者扱いされても?」
「どんなにそう見られても構いません。真実があれば、それでいいんです」
――そう、あの人も言いました。
私の努力と信念は、誰にも奪えないと。
けれど同じ時刻、王都中の噂がひとつ流れ始めていました。
“リリアーナ夫人の研究を持ち出したのは、彼女自身だ。王家に取り入るために証を作ったのだ”――と。
「ま、まさか、そんな馬鹿な……!」
* * *
夕刻、学院を出た私は馬車の中で深く息を吐きました。
人々の視線が妙に冷たく感じる。
街の噂があっという間に広がっているのがわかりました。
「リリアーナ様、どうされます?」
メアが心配そうに覗き込みます。
「領地に戻られれば、公爵様も安心なさいます」
「ダメです。戻っては……このまま逃げるみたいになってしまうわ」
「でも、こんな理不尽な……!」
「私はアレクシス様の妻です。真実を自分の手で証明してみせます」
そう言い切った瞬間、馬車が急停車しました。
外で騒ぐ声、そして――扉を叩く大きな拳の音。
「ヴァレンティーヌ夫人! 学院調査官の命により、同行願います!」
「ど、同行? ま、待ってください、私は――」
「証言が必要だそうです。ご協力を」
門の向こうで、見慣れた黒衣の男が控えていました。
その人物が口元をほころばせて言います。
「お久しぶりですね、夫人。ライオネル殿下の名を出せば、話が早いと思いまして」
――ライオネル。
忌まわしい名前。過去に切り捨てたはずの、私の元婚約者。なぜ王都でその名が動くのか。
「あなた……まさか、協力者が学院内に!?」
「さあ、どうでしょう。私はただの行政書士に過ぎません」
相手は冷笑を残して去っていきました。
胸の鼓動が早まります。
――過去は、終わっていなかった。
彼がまだ、裏で私を貶めようとしているのかもしれない……。
* * *
夜。
宿舎の窓辺で、私は震える灯の下、再びアレクシス様に手紙をしたためました。
『私は必ず真実を突き止めます。どうか心配しないでください。
けれどもし、今後王都の噂があなたにまで届いても――私を、信じていてください。』
震える指で封を閉じると、ふいに涙が落ちました。
恐怖ではなく、もどかしさの涙。
会いたい。顔を見て笑いたい。たったそれだけなのに、距離が遠く感じる。
窓外の月が淡くかすんで見えました。
* * *
翌朝、学院前広場。
私はユリウス先生とともに調査官の質問を受けていました。
「失礼ですが、この研究内容に触れられるのは君とハートマン氏だけ、という事実で間違いないか?」
「……はい。その通りです」
「ならば今回の盗難も、内部の犯行と断定せざるを得ない」
ざわめく空気の中、ユリウス先生が口を開きました。
「証拠もないまま夫人を疑うのは許されません! むしろ私の不手際です。責任は私にあります」
「ユ、ユリウス先生!」
「この国に必要なのは、彼女の研究だ。彼女がいなければ多くの命が……!」
その叫びに、会場が静まりました。
誰も、次の言葉を発せません。
――けれどその翌日、事態はさらに悪い方向へと傾きました。
王都の新聞見出しが、こう告げていたのです。
《新薬の原案、ユリウス・ハートマンによる発表へ》
――私の名は、そこには一行もありませんでした。
「まさか……!」
手にした紙が、震えて視界が滲みました。
この国の誰もが、その名を“奇跡の学士”として讃えるでしょう。
けれどそれは、私が積み上げた努力の上に立つもの。
「ユリウス先生……あなたまで……?」
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薄雲の向こう、春の太陽がまるで皮肉のように眩しい――。
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