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第31章 王都の嵐
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新聞を握りしめたまま、私はその場から動けませんでした。
ごうっと風が窓を揺らし、薄い紙片がひらりと床に落ちます。
誰もいない研究室に、鼓動の音だけが響いていました。
「どうして……どうして、こんなことに」
ユリウス先生が自分の功績として発表した――それが誤報なのか、裏切りなのか、今は確かめようもありません。
ただ、真実をねじ曲げる者がいるという現実が、喉の奥に苦い痛みを残しました。
「リリアーナ様、落ち着いてください!」
駆け寄ってきたメアが、驚いたように私の腕を掴みました。
「旦那様に今すぐ連絡を! こんな王都、もう出ましょう!」
「でも……」
「でもじゃありません! 公爵様のお心を思ってください! このまま耐えるほうが、閣下を悲しませます!」
メアの言葉はまっすぐでした。
けれど、私は静かに首を振りました。
「逃げたら終わりです。守られたままの私じゃ、どんなに愛されても、あの人の隣には立てません……」
そう言ったとき、扉がどんと開きました。
「リリアーナ!」
聞き慣れた低い声。
そこに立っていたのは――アレクシス様、ご本人でした。
「アレクシス様!? ど、どうして王都に……」
「新聞を見た。君が傷つけられているのに、黙っていられるはずがないだろ……」
その瞳は、氷のように冷たいのに、底では熱が燃えていました。
私はその視線に息を止めます。
「君を……奪われるくらいなら、王家だろうと学院だろうと敵に回す!」
「そんな……穏やかではないです。私、まだ真相を──」
「知っている。調べはついた。やはり裏で糸を引いているのは、失脚したライオネルと……王都商会連盟の一部だ」
あの名を聞いた瞬間、背筋から冷たいものが走り抜けました。
やっぱり、彼が。まだ諦めていなかったのです。
「ハートマンは利用された。名誉と支援金を餌に、君の研究を先に王家へ売るつもりだったんだ」
「そんな……ユリウス先生が……」
「信じたかったのはわかる。だが現物の書簡を見た。彼が殿下に報告している」
アレクシス様の声は静かでした。
静かすぎて、その分だけ本気の怒りがにじみ出ていました。
「今夜、王城で弁明の会が開かれる。王の前で全て明らかにする。――君も来い」
「私……?」
「君でなければ意味がない。奪われたのは“発明”ではなく、“志”だ。堂々と、それを取り戻せ」
そう言って、彼は私の手を取られました。
その温もりが、張り詰めた心をほぐすみたいに染み渡ります。
「……アレクシス様、私、怖い。人々の誤解も、真実の重さも……」
「怖がっていい。君が震えているなら、私の手で支える。それで前を向けるなら」
頬に触れた手が熱くて、視界が滲みました。
そっと頷くと、アレクシス様はそのまま私の額に口づけを落としました。
「信じろ。君はもう、一人ではない」
* * *
夜、王城の謁見の間。
赤い絨毯の上を歩くたび、足裏から緊張が這い上がります。
列席している貴族たちの視線が一斉に私に注がれ、ざわめきが広がりました。
「……あれが例の夫人か」「盗用者ではないのか」「公爵が肩入れするとは意外だな」
冷笑まじりの噂。
でも、不思議と怖くありませんでした。
アレクシス様が隣に立っている。――それだけで平常を取り戻せたのです。
玉座の上、老王が低い声で言いました。
「ヴァレンティーヌ公爵。そなたは王家への叛意を問われておる。釈明せよ」
「陛下。我らは叛いたのではなく、真実を取り戻すために参りました」
アレクシス様の堂々たる声に、会場が静まりました。
彼は懐から一通の封書を取り出します。
「これは、ユリウス・ハートマンが王家宛てに送った報告書に添付されていた私信です。そこには“妻の研究成果を転用した褒章を受ける”と。筆跡鑑定は済んでおります」
一斉にざわつく中、衛兵が扉を開けました。
現れたのは、血の気を失ったユリウス先生本人でした。
「ヴァレンティーヌ夫人、これは誤解です! 私はただ、学会を守りたくて……!」
「……あなたが盗んだ研究は、私と貴方の共同実験記録そのものでした……残念で……悲しいです」
私は真正面から彼を見据えました。
いつか敬意を抱いたはずの目が、今はただ悲しく映ります。
「救いたいと願ったのは同じだったはずです。なのに、どうして狭い名誉に手を伸ばしてしまったんですか……?」
「名誉? 違う……信じていたんですよ。殿下がその薬を国のために広めてくださると……!」
「けれど結果的に、あなたは王家と癒しの民の信頼を壊した」
アレクシス様の声は短く鋭い。
ユリウス先生はその場に崩れ落ちました。
沈黙が支配する中、老王がゆっくりと立ち上がりました。
「ヴァレンティーヌ夫人。そなたの知識と誠意は、国の誇りである。これより夫とともに王立研究顧問として、王国に仕えよ」
「陛下……!」
頭を下げると、アレクシス様が隣で静かに微笑まれました。
言葉にしなくても伝わる。“よく頑張った”という声が。
全身の力がふっと抜け、涙が頬を伝います。
* * *
謁見のあと。
夜の王城を出た私たちは、馬車に揺られていました。
外では風が少し荒れていて、遠くで雷鳴が響きます。
「嵐ですね……」
「嵐は悪くない。空の膿を洗ってくれるんだよ」
アレクシス様が私の肩を抱き寄せました。
私はその胸に顔をあずけ、そっと目を閉じました。
「今日、あなたがいてくれなかったら、私はきっと戦えなかった……」
「君が戦ったから、私はここにいる。君が歩みを止めない限り、どんな嵐でも共に越えられる」
「そんなふうに言われると、また泣いてしまいますよ……」
「泣けばいい。君の涙は、私の誇りだ」
彼の手が髪を撫で、頬を拭います。
雷鳴が遠くで鳴り、雨が窓をたたきました。
けれどその音でさえ、いまは私たちの中に静けさを運んでくれる気がします。
「アレクシス様……」
「なんだ?」
「やっぱり、あなたの胸の中が一番安心します……」
「なら、好きなだけここにいるといい」
そう言って彼は、軽く私を抱きしめなおしました。
ほんの一瞬、雷光が閃き、車窓に映る二人の影がより近づきました。
ごうっと風が窓を揺らし、薄い紙片がひらりと床に落ちます。
誰もいない研究室に、鼓動の音だけが響いていました。
「どうして……どうして、こんなことに」
ユリウス先生が自分の功績として発表した――それが誤報なのか、裏切りなのか、今は確かめようもありません。
ただ、真実をねじ曲げる者がいるという現実が、喉の奥に苦い痛みを残しました。
「リリアーナ様、落ち着いてください!」
駆け寄ってきたメアが、驚いたように私の腕を掴みました。
「旦那様に今すぐ連絡を! こんな王都、もう出ましょう!」
「でも……」
「でもじゃありません! 公爵様のお心を思ってください! このまま耐えるほうが、閣下を悲しませます!」
メアの言葉はまっすぐでした。
けれど、私は静かに首を振りました。
「逃げたら終わりです。守られたままの私じゃ、どんなに愛されても、あの人の隣には立てません……」
そう言ったとき、扉がどんと開きました。
「リリアーナ!」
聞き慣れた低い声。
そこに立っていたのは――アレクシス様、ご本人でした。
「アレクシス様!? ど、どうして王都に……」
「新聞を見た。君が傷つけられているのに、黙っていられるはずがないだろ……」
その瞳は、氷のように冷たいのに、底では熱が燃えていました。
私はその視線に息を止めます。
「君を……奪われるくらいなら、王家だろうと学院だろうと敵に回す!」
「そんな……穏やかではないです。私、まだ真相を──」
「知っている。調べはついた。やはり裏で糸を引いているのは、失脚したライオネルと……王都商会連盟の一部だ」
あの名を聞いた瞬間、背筋から冷たいものが走り抜けました。
やっぱり、彼が。まだ諦めていなかったのです。
「ハートマンは利用された。名誉と支援金を餌に、君の研究を先に王家へ売るつもりだったんだ」
「そんな……ユリウス先生が……」
「信じたかったのはわかる。だが現物の書簡を見た。彼が殿下に報告している」
アレクシス様の声は静かでした。
静かすぎて、その分だけ本気の怒りがにじみ出ていました。
「今夜、王城で弁明の会が開かれる。王の前で全て明らかにする。――君も来い」
「私……?」
「君でなければ意味がない。奪われたのは“発明”ではなく、“志”だ。堂々と、それを取り戻せ」
そう言って、彼は私の手を取られました。
その温もりが、張り詰めた心をほぐすみたいに染み渡ります。
「……アレクシス様、私、怖い。人々の誤解も、真実の重さも……」
「怖がっていい。君が震えているなら、私の手で支える。それで前を向けるなら」
頬に触れた手が熱くて、視界が滲みました。
そっと頷くと、アレクシス様はそのまま私の額に口づけを落としました。
「信じろ。君はもう、一人ではない」
* * *
夜、王城の謁見の間。
赤い絨毯の上を歩くたび、足裏から緊張が這い上がります。
列席している貴族たちの視線が一斉に私に注がれ、ざわめきが広がりました。
「……あれが例の夫人か」「盗用者ではないのか」「公爵が肩入れするとは意外だな」
冷笑まじりの噂。
でも、不思議と怖くありませんでした。
アレクシス様が隣に立っている。――それだけで平常を取り戻せたのです。
玉座の上、老王が低い声で言いました。
「ヴァレンティーヌ公爵。そなたは王家への叛意を問われておる。釈明せよ」
「陛下。我らは叛いたのではなく、真実を取り戻すために参りました」
アレクシス様の堂々たる声に、会場が静まりました。
彼は懐から一通の封書を取り出します。
「これは、ユリウス・ハートマンが王家宛てに送った報告書に添付されていた私信です。そこには“妻の研究成果を転用した褒章を受ける”と。筆跡鑑定は済んでおります」
一斉にざわつく中、衛兵が扉を開けました。
現れたのは、血の気を失ったユリウス先生本人でした。
「ヴァレンティーヌ夫人、これは誤解です! 私はただ、学会を守りたくて……!」
「……あなたが盗んだ研究は、私と貴方の共同実験記録そのものでした……残念で……悲しいです」
私は真正面から彼を見据えました。
いつか敬意を抱いたはずの目が、今はただ悲しく映ります。
「救いたいと願ったのは同じだったはずです。なのに、どうして狭い名誉に手を伸ばしてしまったんですか……?」
「名誉? 違う……信じていたんですよ。殿下がその薬を国のために広めてくださると……!」
「けれど結果的に、あなたは王家と癒しの民の信頼を壊した」
アレクシス様の声は短く鋭い。
ユリウス先生はその場に崩れ落ちました。
沈黙が支配する中、老王がゆっくりと立ち上がりました。
「ヴァレンティーヌ夫人。そなたの知識と誠意は、国の誇りである。これより夫とともに王立研究顧問として、王国に仕えよ」
「陛下……!」
頭を下げると、アレクシス様が隣で静かに微笑まれました。
言葉にしなくても伝わる。“よく頑張った”という声が。
全身の力がふっと抜け、涙が頬を伝います。
* * *
謁見のあと。
夜の王城を出た私たちは、馬車に揺られていました。
外では風が少し荒れていて、遠くで雷鳴が響きます。
「嵐ですね……」
「嵐は悪くない。空の膿を洗ってくれるんだよ」
アレクシス様が私の肩を抱き寄せました。
私はその胸に顔をあずけ、そっと目を閉じました。
「今日、あなたがいてくれなかったら、私はきっと戦えなかった……」
「君が戦ったから、私はここにいる。君が歩みを止めない限り、どんな嵐でも共に越えられる」
「そんなふうに言われると、また泣いてしまいますよ……」
「泣けばいい。君の涙は、私の誇りだ」
彼の手が髪を撫で、頬を拭います。
雷鳴が遠くで鳴り、雨が窓をたたきました。
けれどその音でさえ、いまは私たちの中に静けさを運んでくれる気がします。
「アレクシス様……」
「なんだ?」
「やっぱり、あなたの胸の中が一番安心します……」
「なら、好きなだけここにいるといい」
そう言って彼は、軽く私を抱きしめなおしました。
ほんの一瞬、雷光が閃き、車窓に映る二人の影がより近づきました。
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