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 その瞬間──殿下の手が止まった。

「これほどまでに、アドニスが好きか……私よりもあの男が……」

 殿下は寂しげな表情を浮かべながら呟いた。

 セーリーヌは返答に困ってしまう。

 何と答えれば良いのだろう? 

 素直にアドニス侯爵が好きだと言えば良いの? でも、あまりはっきり言い過ぎて、殿下に不愉快な想いをさせれば、近衛騎士団長としての立場も危うくなるかもしれないし──

 迷った結果、彼女は何も言わずにいた。

 すると、彼は自嘲気味に笑う。

「てっきり、まだ私をまだ好きかと思っていた。私をかばって深手を負ったのだから」

 そう言うと、再び唇を重ねてきた。今度は優しいキスだった。

 まるで壊れ物を扱うように丁寧に扱われているのがわかる。

(殿下なりの慰め……?)

 セーリーヌは困惑した。

 アドニス侯爵を愛していると伝えたはずなのに、結婚相手もいて、なぜこのような行動に出るのか。
 
 ふと、アドニス侯爵の顔が脳裏に浮かんだ。反射的に、セーリーヌは殿下を拒絶していた。

 セーリーヌは唇を引っ込め、顔を逸らした。

「もう、おやめください! 不誠実ですわ」

「すまなかった……」

 彼はそう言うと、そのまま馬車から降りて、馬に跨り走り去っていく。

 それが殿下なりの別れだった。


 一人残されたセーリーヌはしばらく呆然としていたが、やがて我に返ると急いで身なりを整えた。

 そして、慌てて馬車で後を追う──。アドニス侯爵に会いたい。

 先に会場に戻っていた殿下が、エリザベータに抱きつく姿が見えた。

「エリザベータ様、おめでとうございます」

と来賓の貴族たちが、口々に花嫁に声をかけている。

 すると、エリザベータは満面の笑みを浮かべながら礼を述べた後、殿下はエリザベータを連れてその場を離れていった。

 その様子を見送りながら、セーリーヌは考える──。

 殿下はまだわたしと結ばれたいと思っていたのかもしれない──と。

 でも、違う。いつも真っ直ぐに自分を見てくれるアドニス侯爵。移り気な殿下より、誠実な彼を選んで良かったと、心から思う。

 アドニス様、アドニスはどこに……?

 セーリーヌは式場のあちこちを見て回った。

 結局、どこにも彼は見当たらなかった。
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