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第5章:初めての笑顔は、雨の日に
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その日も、空は朝から不穏な色をしていました。
低く垂れ込めた雲が空を覆い、まるで世界に重たい蓋をかぶせたかのよう。風は冷たく、庭の木々がざわざわと身を揺らしています。
「……また雨、ですか」
窓の外を見つめて、そっと呟きました。
雨が嫌いなわけじゃないけれど、こういう湿った灰色の空は、どうしても気分が沈みがちです。雷の気配も感じられ、心がざわつくのを抑えられません。
ゴロゴロ……バリバリッ!
突如として、空を裂くような雷鳴が響き渡りました。
「ひゃっ……!」
思わず肩をすくめ、胸の前で腕をぎゅっと抱きしめます。
小さな頃から、雷の音はどうにも苦手でした。今でもあの轟音を聞くたび、鼓動が速まり、足元が揺らぐような不安に包まれます。
でも、屋敷の中にいれば大丈夫。そう言い聞かせ、気を紛らわせようと裏庭へ向かいました。雨が降る前に、干してあった洗濯物を取り込まなければ。
「……うわっ!」
裏庭の石畳が雨で濡れ、ぬかるみに足を取られた瞬間、バランスを崩して盛大に尻もちをついてしまいました。
「っいたた……!」
スカートの裾は泥で汚れ、雨が容赦なく体に降り注ぎます。まるでバケツをひっくり返したような土砂降りに、瞬く間に髪も服もびしょ濡れになっていきました。
「なんでこんな日に限って、洗濯物が外なんですか……!」
悔しさと情けなさが入り混じったような声で文句を呟きます。雷は鳴るし、雨は冷たいし、おまけに泥だらけ。今日は本当に、最悪です。
ようやく立ち上がろうとしたそのとき——
背後から、ふわりとあたたかな腕が私の体を支えるように抱きかかえてきました。
「バカ、風邪引くだろ。なんで一人で……」
「……ライネル様!?」
驚いて振り返ると、そこには雨に濡れながらも真剣な表情を浮かべた彼がいました。
濡れた髪が額に張り付き、制服の肩口からは水がぽたぽたと滴っています。それでも彼は構わず、私を強く抱きしめるようにして、じっと見下ろしてきました。
雷が怖いはずなのに。あんなに苦手だと知っていたのに、彼はここに来てくれた。
足元に視線を落とすと、ほんの少し、彼の身体が震えているのがわかります。
「君は、どうしていつも無理をする?」
「だって、誰もやってくれないから……」
「使用人に頼めばいい」
「でも、私がやった方が早いですし……それに、こういうの、慣れてますから」
私は自嘲気味に笑いながらそう言いました。だけど、その言葉の裏にある寂しさや孤独が、自分でもわかるほど滲んでいた気がします。
「怖いのに……君は、変なやつだな」
そう言って、彼は——引き攣ったような、でもどこか温かい笑みを浮かべました。
それは、いつもの無表情とはまるで違うもので。
雷が鳴っていても、雨が打ちつけていても、彼の笑顔は静かで、どこか懐かしいぬくもりを感じさせました。
胸の奥で、ふいに何かがきゅっと締めつけられるような感覚。
こんな気持ち、初めてかもしれません。
屋敷に戻ると、ライネル様はすぐに毛布を持ってきてくれました。
ふわふわの毛布に包まれて、ほんの少し体の震えが和らいでいくのを感じます。
「濡れた服はすぐに替えろ。風邪を引いたら、また厄介なことになる」
「……はい」
思わず笑みがこぼれました。叱っているようでいて、ちゃんと私のことを気遣ってくれている。その優しさが、心に染みていきます。
「それと、君の作った煮込み料理。夕食に出すよう厨房に伝えておいた」
「えっ!? あれ、試作だったんですけど……」
「美味しかった。父も母も、気に入るはずだ」
そう言って彼は、何気ない風を装っていましたが、私にはわかりました。
あの煮込みに、ちゃんと心を込めたこと。それを、彼はちゃんと見ていてくれた。
「……ありがとうございます!」
言葉にすると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなっていきました。
夕食の席。
「この煮込み、なかなか良い味だな」
お舅様が、珍しく満足そうな声を上げました。
「セレナが作ったんだ」
ライネル様がさりげなく言うと、お義母様がちらりと私を見やります。
「……あなたが?」
「もちろんです。庶民の味ですが、心を込めて作りました」
私はまっすぐにお義母様の視線を受け止め、笑みを絶やさずに言いました。
「……ふぅん」
お義母様は無言のままスプーンを口に運びました。
その後、何も言われなかったけれど——それはきっと、悪くない証拠。
夜。
私はひとり、窓辺で静かに雨音を聞いていました。
ときおり遠くで雷が鳴っているけれど、不思議と今日は怖くありません。
雨が、雷が、こんなに穏やかに感じる日が来るなんて思ってもみませんでした。
私の頬をなぞるように、柔らかな風が吹き抜けます。
「……ライネル様が、笑ってくれたから」
ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かないけれど。
でも、確かに私の心には、小さな火が灯っていました。
胸の奥にともる、淡くてあたたかな光。
これは、政略結婚じゃない。
私の恋の物語——その、始まり。
低く垂れ込めた雲が空を覆い、まるで世界に重たい蓋をかぶせたかのよう。風は冷たく、庭の木々がざわざわと身を揺らしています。
「……また雨、ですか」
窓の外を見つめて、そっと呟きました。
雨が嫌いなわけじゃないけれど、こういう湿った灰色の空は、どうしても気分が沈みがちです。雷の気配も感じられ、心がざわつくのを抑えられません。
ゴロゴロ……バリバリッ!
突如として、空を裂くような雷鳴が響き渡りました。
「ひゃっ……!」
思わず肩をすくめ、胸の前で腕をぎゅっと抱きしめます。
小さな頃から、雷の音はどうにも苦手でした。今でもあの轟音を聞くたび、鼓動が速まり、足元が揺らぐような不安に包まれます。
でも、屋敷の中にいれば大丈夫。そう言い聞かせ、気を紛らわせようと裏庭へ向かいました。雨が降る前に、干してあった洗濯物を取り込まなければ。
「……うわっ!」
裏庭の石畳が雨で濡れ、ぬかるみに足を取られた瞬間、バランスを崩して盛大に尻もちをついてしまいました。
「っいたた……!」
スカートの裾は泥で汚れ、雨が容赦なく体に降り注ぎます。まるでバケツをひっくり返したような土砂降りに、瞬く間に髪も服もびしょ濡れになっていきました。
「なんでこんな日に限って、洗濯物が外なんですか……!」
悔しさと情けなさが入り混じったような声で文句を呟きます。雷は鳴るし、雨は冷たいし、おまけに泥だらけ。今日は本当に、最悪です。
ようやく立ち上がろうとしたそのとき——
背後から、ふわりとあたたかな腕が私の体を支えるように抱きかかえてきました。
「バカ、風邪引くだろ。なんで一人で……」
「……ライネル様!?」
驚いて振り返ると、そこには雨に濡れながらも真剣な表情を浮かべた彼がいました。
濡れた髪が額に張り付き、制服の肩口からは水がぽたぽたと滴っています。それでも彼は構わず、私を強く抱きしめるようにして、じっと見下ろしてきました。
雷が怖いはずなのに。あんなに苦手だと知っていたのに、彼はここに来てくれた。
足元に視線を落とすと、ほんの少し、彼の身体が震えているのがわかります。
「君は、どうしていつも無理をする?」
「だって、誰もやってくれないから……」
「使用人に頼めばいい」
「でも、私がやった方が早いですし……それに、こういうの、慣れてますから」
私は自嘲気味に笑いながらそう言いました。だけど、その言葉の裏にある寂しさや孤独が、自分でもわかるほど滲んでいた気がします。
「怖いのに……君は、変なやつだな」
そう言って、彼は——引き攣ったような、でもどこか温かい笑みを浮かべました。
それは、いつもの無表情とはまるで違うもので。
雷が鳴っていても、雨が打ちつけていても、彼の笑顔は静かで、どこか懐かしいぬくもりを感じさせました。
胸の奥で、ふいに何かがきゅっと締めつけられるような感覚。
こんな気持ち、初めてかもしれません。
屋敷に戻ると、ライネル様はすぐに毛布を持ってきてくれました。
ふわふわの毛布に包まれて、ほんの少し体の震えが和らいでいくのを感じます。
「濡れた服はすぐに替えろ。風邪を引いたら、また厄介なことになる」
「……はい」
思わず笑みがこぼれました。叱っているようでいて、ちゃんと私のことを気遣ってくれている。その優しさが、心に染みていきます。
「それと、君の作った煮込み料理。夕食に出すよう厨房に伝えておいた」
「えっ!? あれ、試作だったんですけど……」
「美味しかった。父も母も、気に入るはずだ」
そう言って彼は、何気ない風を装っていましたが、私にはわかりました。
あの煮込みに、ちゃんと心を込めたこと。それを、彼はちゃんと見ていてくれた。
「……ありがとうございます!」
言葉にすると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなっていきました。
夕食の席。
「この煮込み、なかなか良い味だな」
お舅様が、珍しく満足そうな声を上げました。
「セレナが作ったんだ」
ライネル様がさりげなく言うと、お義母様がちらりと私を見やります。
「……あなたが?」
「もちろんです。庶民の味ですが、心を込めて作りました」
私はまっすぐにお義母様の視線を受け止め、笑みを絶やさずに言いました。
「……ふぅん」
お義母様は無言のままスプーンを口に運びました。
その後、何も言われなかったけれど——それはきっと、悪くない証拠。
夜。
私はひとり、窓辺で静かに雨音を聞いていました。
ときおり遠くで雷が鳴っているけれど、不思議と今日は怖くありません。
雨が、雷が、こんなに穏やかに感じる日が来るなんて思ってもみませんでした。
私の頬をなぞるように、柔らかな風が吹き抜けます。
「……ライネル様が、笑ってくれたから」
ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かないけれど。
でも、確かに私の心には、小さな火が灯っていました。
胸の奥にともる、淡くてあたたかな光。
これは、政略結婚じゃない。
私の恋の物語——その、始まり。
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