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第2章 冷たい家族の中で
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気がつけば、あれから十年以上の月日が流れていました。
五歳でこの家にやってきたわたしは、今や十七歳。社交界に顔を出す年齢となり、公爵家の一員として、最低限の義務を果たす日々を送っています。
けれど、この十年という歳月は、わたしを「公爵家の娘」にしてくれることはありませんでした。
相変わらず、わたしの部屋は東棟の一番奥。日当たりが悪く、いつもひっそりと静まり返ったその部屋で、わたしは、ただ時間だけをやり過ごしていました。
義母であるイザベラ様は、わたしをほとんど表舞台に出しませんでした。
それは、彼女の「本物の娘」であるセリーヌ嬢が、まだ帰ってきていないから。その代役を、わたしが務めている、という建前でした。
ですが、本当は、わたしを社交界の、公爵家の、そして、彼女自身の「恥」にしたくないからなのでしょう。
そんなことを悟られないよう、ただ黙って、彼女の指示に従いました。
出席するのは、必要最低限の夜会だけ。
舞踏会では、いつも会場の隅に立っている、いわゆる「壁の花」でした。
煌びやかなドレスに身を包んだ貴族の令嬢たちが、楽しそうに談笑し、優雅に舞踏を披露する中、ただ、その光景を遠くから見つめているだけです。
貴族たちは、わたしに興味を示しません。名前すら覚えてくれませんでした。
公爵家の養女として紹介されても、すぐに、忘れてしまうのです。この社交界においても、孤児院にいた頃と何一つ変わらない、「見えない存在」でした。
そんなわたしにとって、唯一の希望は、政略で決まった婚約者である、アラン様の存在でした。
彼もまた、公爵家の令息。
立場は違えど、わたしと同じく、貴族の義務として婚約者という役割を背負っているのだと、勝手に親近感を抱いていました。
アラン様は、わたしに会うたびに、無愛想ながらも、礼儀正しく接してくれました。
社交パーティーで一人でいると、何も言わずに、わたしの隣に立ってくれました。その優しさに、淡い期待を抱いていました。
いつか、彼が、わたしをただの「公爵家の養女」としてではなく、わたし自身として見てくれる日が来るのではないかと。
けれど、彼は、決して笑顔を見せることはなく、常にわたしとの間に、見えない距離を保ち続けていました。その距離は、わたしがいくら頑張っても、決して縮まることはありませんでした。
そんなある日のこと。
いつものように、わたしは東棟の部屋で、刺繍を刺していました。
すると、廊下から、義母が侍女たちに、妙に慌ただしく指示を出している声が聞こえてきました。
いつもは静かなこの屋敷が、まるで嵐の前の静けさのように、ざわめき始めていたのです。
何事だろうと、耳を澄ませると、侍女たちのひそひそ話が聞こえてきました。
「…聞いた?公爵家の本当の娘さんが、生きているらしいわ」
「ええ、聞いたわ!十年以上も行方不明だったのに、奇跡だって」
「これで、あの養女も、ようやくお払い箱になるわね」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸に、鋭い痛みが走りました。
……公爵家の本当の娘。
この家で息を潜めて生きてきたのは、彼女の代わりとしてでした。この家で必要とされてきた理由は、彼女がいないからでした。
その彼女が、帰ってくる。
その事実は、わたしがこの家で、もう必要とされなくなる、ということ。
胸に刺さった小さな不安の棘は、どんどん深く、大きく、鋭くなっていきました。
この家から、どこへ行くのだろう。 この冷たい屋敷で、わたしは、もう居場所を失ってしまうのだろうか。
刺繍を刺していたわたしの指先が、震えを止められませんでした。
この家に来た、五歳の頃から抱いていた不安が、現実となって、目の前に迫ってきている。そんな恐怖に、わたしはただ、震えることしかできませんでした。
ふと顔を上げると、机の上にいつの間にか小さな包みが置かれていました。気づけば、白い薔薇が一輪、可憐に咲き誇っていたのです。そこには、小さなカードが添えられていました。
「恐れずに、自分を信じて」
短いながら、その言葉は、今のわたしの心にまっすぐ届きました。
思わず近くにいた侍女に尋ねると、彼女は驚くほど淡々と答えました。
「その薔薇は、教会の孤児院から届いたものでございます。けれど、実際にはどなたが手配されたのか分からないのです。名も名乗らず、ただ“白薔薇の騎士より”とだけ書かれておりました」
その瞬間、胸の奥でずっと冷たいままだった氷が、わずかに溶け出したような気がしました。
わたしの存在を、見てくれている誰かがいる。名も告げず、ただ静かに、けれど確かな手で支えてくれている人が。
その白い薔薇にこめられた思いが、わたしに再び立ち向かう勇気を与えてくれたのです。
五歳でこの家にやってきたわたしは、今や十七歳。社交界に顔を出す年齢となり、公爵家の一員として、最低限の義務を果たす日々を送っています。
けれど、この十年という歳月は、わたしを「公爵家の娘」にしてくれることはありませんでした。
相変わらず、わたしの部屋は東棟の一番奥。日当たりが悪く、いつもひっそりと静まり返ったその部屋で、わたしは、ただ時間だけをやり過ごしていました。
義母であるイザベラ様は、わたしをほとんど表舞台に出しませんでした。
それは、彼女の「本物の娘」であるセリーヌ嬢が、まだ帰ってきていないから。その代役を、わたしが務めている、という建前でした。
ですが、本当は、わたしを社交界の、公爵家の、そして、彼女自身の「恥」にしたくないからなのでしょう。
そんなことを悟られないよう、ただ黙って、彼女の指示に従いました。
出席するのは、必要最低限の夜会だけ。
舞踏会では、いつも会場の隅に立っている、いわゆる「壁の花」でした。
煌びやかなドレスに身を包んだ貴族の令嬢たちが、楽しそうに談笑し、優雅に舞踏を披露する中、ただ、その光景を遠くから見つめているだけです。
貴族たちは、わたしに興味を示しません。名前すら覚えてくれませんでした。
公爵家の養女として紹介されても、すぐに、忘れてしまうのです。この社交界においても、孤児院にいた頃と何一つ変わらない、「見えない存在」でした。
そんなわたしにとって、唯一の希望は、政略で決まった婚約者である、アラン様の存在でした。
彼もまた、公爵家の令息。
立場は違えど、わたしと同じく、貴族の義務として婚約者という役割を背負っているのだと、勝手に親近感を抱いていました。
アラン様は、わたしに会うたびに、無愛想ながらも、礼儀正しく接してくれました。
社交パーティーで一人でいると、何も言わずに、わたしの隣に立ってくれました。その優しさに、淡い期待を抱いていました。
いつか、彼が、わたしをただの「公爵家の養女」としてではなく、わたし自身として見てくれる日が来るのではないかと。
けれど、彼は、決して笑顔を見せることはなく、常にわたしとの間に、見えない距離を保ち続けていました。その距離は、わたしがいくら頑張っても、決して縮まることはありませんでした。
そんなある日のこと。
いつものように、わたしは東棟の部屋で、刺繍を刺していました。
すると、廊下から、義母が侍女たちに、妙に慌ただしく指示を出している声が聞こえてきました。
いつもは静かなこの屋敷が、まるで嵐の前の静けさのように、ざわめき始めていたのです。
何事だろうと、耳を澄ませると、侍女たちのひそひそ話が聞こえてきました。
「…聞いた?公爵家の本当の娘さんが、生きているらしいわ」
「ええ、聞いたわ!十年以上も行方不明だったのに、奇跡だって」
「これで、あの養女も、ようやくお払い箱になるわね」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸に、鋭い痛みが走りました。
……公爵家の本当の娘。
この家で息を潜めて生きてきたのは、彼女の代わりとしてでした。この家で必要とされてきた理由は、彼女がいないからでした。
その彼女が、帰ってくる。
その事実は、わたしがこの家で、もう必要とされなくなる、ということ。
胸に刺さった小さな不安の棘は、どんどん深く、大きく、鋭くなっていきました。
この家から、どこへ行くのだろう。 この冷たい屋敷で、わたしは、もう居場所を失ってしまうのだろうか。
刺繍を刺していたわたしの指先が、震えを止められませんでした。
この家に来た、五歳の頃から抱いていた不安が、現実となって、目の前に迫ってきている。そんな恐怖に、わたしはただ、震えることしかできませんでした。
ふと顔を上げると、机の上にいつの間にか小さな包みが置かれていました。気づけば、白い薔薇が一輪、可憐に咲き誇っていたのです。そこには、小さなカードが添えられていました。
「恐れずに、自分を信じて」
短いながら、その言葉は、今のわたしの心にまっすぐ届きました。
思わず近くにいた侍女に尋ねると、彼女は驚くほど淡々と答えました。
「その薔薇は、教会の孤児院から届いたものでございます。けれど、実際にはどなたが手配されたのか分からないのです。名も名乗らず、ただ“白薔薇の騎士より”とだけ書かれておりました」
その瞬間、胸の奥でずっと冷たいままだった氷が、わずかに溶け出したような気がしました。
わたしの存在を、見てくれている誰かがいる。名も告げず、ただ静かに、けれど確かな手で支えてくれている人が。
その白い薔薇にこめられた思いが、わたしに再び立ち向かう勇気を与えてくれたのです。
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