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屋上で出会った青年

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 本当に嫌な人。そう思った直後だった。

 光子に向かって、真っ直ぐに歩いてくる人影が見えた。

 真っ白い能の面を被っている。口元に微かな笑みを浮かべている。その細く切り取られた目の奥にある目が、血のように真っ赤に燃えたぎっていた。

 光子は急に息苦しさを覚え、そばにあった椅子にしがみついた。身体を震わせながら、近くにあったテーブルのミネラルウォーターのボトルを脇に抱え持った。

 会場をそっと抜け出すと、エレベーターで最上階に上った。ちょうど屋上にあるテラスに人はない。

 白いベンチと灰皿、花壇に花が咲いている。

 四方には背丈ほどの頑丈な鉄柵で囲まれている。

 光子はその一角に近づいた。
 何とか、気持ちを落ち着かせないといけない。
 夜景でも眺めたら、少し気分も変わるだろう。

 駅前の交差点に行き交う蟻のような人々。
 きらめくネオン。

 光子はおもむろにハンドバッグから黄色い錠剤を一つ掴んで、水で流し込む。それからゆっくり目をつぶり、網に顔を押し当てる。

 生暖かい風が長い髪をなびかせながら、ゆっくりと通り過ぎてゆく。気分が落ち着いてまぶたを開けると、突然、右隣に黒い人影が見えた。

「きゃっ!」

 光子は、思わず小さな悲鳴を上げながら、身を引いてベンチにへたりこんだ。

「すいません。驚かせてしまいましたね」
 青年は、すまなそうに頭を下げた。

 スラリとした長身で痩せている。

 肩に鞄をかけ、スニーカーにジーパン、ポロシャツというラフな格好だった。

 片手には缶コーヒー。

 暗くて、顔はまだよく見えない。

 しかし何故なのか、光子は妙な懐かしさを覚える。不思議な人だ。

 青年は、まだ光子を心配そうにのぞき込んでいる。

「本当に、ごめんなさい。大丈夫?」
「こちらこそ、取り乱しちゃって。すみません」
 光子は、乱れた前髪を手串で整えながら言った。

 彼は再び背を向けると、網の向こうに視線を戻した。
「ぼく、ここに良く来るんです。窮屈な日常から抜け出せる。柵の向こうに広がる、無限の可能性を感じるから」

 そう独り言のように話すと、コーヒーをごくりと飲んだ。

「ここで働いてる方なのですか?」
 光子は尋ねた。

 自分でも驚いていた。
 初対面の男性に、気安く話しかけるなんて、余程で無い限りなかったからだ。
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