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刻まれた記憶

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「ええ。でもここ2日程は飲まずに済みました」

「ほほう…」

 脂でたるんだ顎に、人差し指をあてがう。

「それは良い傾向ですね。精神的に安定している証拠です」
「先生、ご質問があります。私の記憶は戻るのでしょうか。父が亡くなる前のものです」
「それは…」

 先生は、口をすぼめた。

「まずは幻覚障害を治すところから始めなくてはなりません。まずそちらを解決しないと、あなたの精神自体が崩壊しかねないのです。

 通常の社会生活が送れなくなる可能性がある。ですから有害であろう記憶を、この薬で鎮静化しているのです。いいえ、むしろ断片化している」

「断片化? どういうことです?」

「つまりズタズタに切り裂いているのに等しいのです。将来、思い出を取り戻すことは非常に困難であると言えるでしょう。

 思い出したとしても、それは物語として成立しない。簡単にいうと、映画を見始めたら、急に最後の場面になってしまうとかね。支離滅裂な訳です。

 それでは頭がかえって混乱してしまうでしょう。あの女の幻影につきまとわれ続ける可能性がある」

 光子は思わず体を震わせた。

 先生はそっと彼女の膝に手を載せた。

 その厚ぼったいグローブのような手は、何故か患者の心を和ませる。

「さっき君の前に入ってきた患者さんはね。まさしく同様の障害を抱えている」
「郡山さんでしたよね。あの方も幻覚を?」
「もっと酷い…」

 先生はつばを飲み込んだ。
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