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第3章:私に“夫婦生活”など必要ない
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薄闇の廊下にレースのカーテンが揺れ、静かな空気が流れていました。
ふつうならば、今頃新婚夫婦の甘い時間が始まっているのでしょう。
ですが、わたしは迷いなく言いました。
「別室を希望します。私に期待しないでください」
レオンは少しだけ驚いたように目を見開いたものの、すぐに笑みを浮かべました。
──なんて対応力でしょう。
通常、新妻にこんなことを言われたらもう少し動揺するのでは?
「わかった。でもさ、せっかくだし仲良くなりたいなって思ってたんだ」
そう言った彼の笑顔には、皮肉も憂いも、そして下心もありませんでした。
むしろ、どこか残念そうに眉を下げながら、それでも無理強いはせず、あっさり了承してくれました。
わたしは静かにうなずき、ドレスの裾を持って自室へ向かいました。
鍵のかかる扉と、誰も踏み込まないベッドルーム。
これが、わたしにとっての“安全地帯”です。
夫婦の距離?
そんなものは存在しません。
わたしにとって必要なのは仮面と距離、それだけ。
ですが、翌朝になっても、レオンはあの明るさのままでした。
「おはよう!今朝はクロワッサンだよ!あと、紅茶はアールグレイにしたけど、好みある?」
「……私は朝食はいただきません」
「そっか。でも僕は食べるね。……君が見てるなら、ちょっと背筋伸ばして食べよ」
誰が見ていると言ったのですか。
食堂の椅子に座る彼は、まるで王宮の晩餐のように姿勢を正してフォークを構えていました。
「でも、クロワッサンってさ、発音むずかしいよね。赤ちゃんだったら、“クルルルル”みたいになっちゃうよね?」
「それは鳥の鳴き声でしょう」
「え、じゃあ、カラスは?」
「は?」
「“カアカアワッサン”とか呼ぶのかな?」
……なぜあなたは、朝からそんな発想ができるのですか。
わたしの返答を待たずとも、レオンは楽しそうに紅茶を飲みながら、勝手に話し続けます。
その表情には、緊張も警戒も、打算すら見えません。
「今日、君の好きな本棚を整理してもいい?あ、僕、書物の分類ちょっと得意なんだ。アルファベット順は任せて!」
「わたしは本は……自分で整えますので」
「そっか!じゃあ、せめてホコリだけでも払っとくよ。“夫婦の共同作業”ってことで!」
……夫婦。共同。
その言葉だけで、なんだか胸の奥がざわつきます。
この人、いったい何を期待しているのだろう。
わたしに心を開かせることで、なにか利益でもあるというの?
でも、その考えはすぐに霧のように薄れていきました。
彼の行動には、どれも裏がない。
本当に、ただわたしと過ごしたいだけ──そんなふうに感じられるのです。
昼下がり、わたしが図書室で静かに書物を読んでいたときでした。
レオンがそっと扉を開け、声をひそめて言います。
「ミレイユ、これさ、君に似合うと思って。……レモン色のブックカバーなんだけど、ほら、春っぽいかなって」
「……なぜ、私に?」
「君が本を読む時、いつも背筋がしゃんとしてて、なんかそういう姿がレモンみたいで爽やかだから」
この男、例えが独特すぎます。
そして、どこか心がくすぐられました。
わたしは目をそらし、本の中身に集中しようとしましたが──ページの文字が、まるで笑っているように見えてしまったのです。
困ったことに、その瞬間、わたしは、口元がゆるんでいたのです。
「……今、笑った?笑ったよね?」
レオンが目を丸くして椅子から立ち上がりました。
「今!絶対笑った!“感情を持たない仮面”が動いた瞬間!うわー、記念日だ、これ!」
「……別に、面白かったわけでは」
「でも笑った!すごい、やっぱり君、ちゃんと感情あるじゃないか!」
その言葉に、わたしは咄嗟に顔を隠しました。
──見られた。わたしの表情を。
仮面が剥がれた。あの完璧な無表情の仮面が。
……嫌だ。でも、少しだけ。
ほんの少しだけ、心が動いたのです。
この人は──わたしを“使う”のではなく、“見よう”としている。
その違和感が、私の中に小さな波紋を生み始めていました。
ふつうならば、今頃新婚夫婦の甘い時間が始まっているのでしょう。
ですが、わたしは迷いなく言いました。
「別室を希望します。私に期待しないでください」
レオンは少しだけ驚いたように目を見開いたものの、すぐに笑みを浮かべました。
──なんて対応力でしょう。
通常、新妻にこんなことを言われたらもう少し動揺するのでは?
「わかった。でもさ、せっかくだし仲良くなりたいなって思ってたんだ」
そう言った彼の笑顔には、皮肉も憂いも、そして下心もありませんでした。
むしろ、どこか残念そうに眉を下げながら、それでも無理強いはせず、あっさり了承してくれました。
わたしは静かにうなずき、ドレスの裾を持って自室へ向かいました。
鍵のかかる扉と、誰も踏み込まないベッドルーム。
これが、わたしにとっての“安全地帯”です。
夫婦の距離?
そんなものは存在しません。
わたしにとって必要なのは仮面と距離、それだけ。
ですが、翌朝になっても、レオンはあの明るさのままでした。
「おはよう!今朝はクロワッサンだよ!あと、紅茶はアールグレイにしたけど、好みある?」
「……私は朝食はいただきません」
「そっか。でも僕は食べるね。……君が見てるなら、ちょっと背筋伸ばして食べよ」
誰が見ていると言ったのですか。
食堂の椅子に座る彼は、まるで王宮の晩餐のように姿勢を正してフォークを構えていました。
「でも、クロワッサンってさ、発音むずかしいよね。赤ちゃんだったら、“クルルルル”みたいになっちゃうよね?」
「それは鳥の鳴き声でしょう」
「え、じゃあ、カラスは?」
「は?」
「“カアカアワッサン”とか呼ぶのかな?」
……なぜあなたは、朝からそんな発想ができるのですか。
わたしの返答を待たずとも、レオンは楽しそうに紅茶を飲みながら、勝手に話し続けます。
その表情には、緊張も警戒も、打算すら見えません。
「今日、君の好きな本棚を整理してもいい?あ、僕、書物の分類ちょっと得意なんだ。アルファベット順は任せて!」
「わたしは本は……自分で整えますので」
「そっか!じゃあ、せめてホコリだけでも払っとくよ。“夫婦の共同作業”ってことで!」
……夫婦。共同。
その言葉だけで、なんだか胸の奥がざわつきます。
この人、いったい何を期待しているのだろう。
わたしに心を開かせることで、なにか利益でもあるというの?
でも、その考えはすぐに霧のように薄れていきました。
彼の行動には、どれも裏がない。
本当に、ただわたしと過ごしたいだけ──そんなふうに感じられるのです。
昼下がり、わたしが図書室で静かに書物を読んでいたときでした。
レオンがそっと扉を開け、声をひそめて言います。
「ミレイユ、これさ、君に似合うと思って。……レモン色のブックカバーなんだけど、ほら、春っぽいかなって」
「……なぜ、私に?」
「君が本を読む時、いつも背筋がしゃんとしてて、なんかそういう姿がレモンみたいで爽やかだから」
この男、例えが独特すぎます。
そして、どこか心がくすぐられました。
わたしは目をそらし、本の中身に集中しようとしましたが──ページの文字が、まるで笑っているように見えてしまったのです。
困ったことに、その瞬間、わたしは、口元がゆるんでいたのです。
「……今、笑った?笑ったよね?」
レオンが目を丸くして椅子から立ち上がりました。
「今!絶対笑った!“感情を持たない仮面”が動いた瞬間!うわー、記念日だ、これ!」
「……別に、面白かったわけでは」
「でも笑った!すごい、やっぱり君、ちゃんと感情あるじゃないか!」
その言葉に、わたしは咄嗟に顔を隠しました。
──見られた。わたしの表情を。
仮面が剥がれた。あの完璧な無表情の仮面が。
……嫌だ。でも、少しだけ。
ほんの少しだけ、心が動いたのです。
この人は──わたしを“使う”のではなく、“見よう”としている。
その違和感が、私の中に小さな波紋を生み始めていました。
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