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【第十一章】セインの真実
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その夜、港町ルーシェには静かな潮風が吹いていました。
昼間の太陽が残した熱がまだ街に残っていて、海の香りが優しく漂っていました。
灯りを落とした店の奥で、私はひとり机に向かって瓶の整理をしていました。
アシェル様が去ってから、数日が経ちます。
嵐の夜、そして再会のあと――まるで夢のような時間でした。
(もう、迷わないって決めたのに……)
棚に手を伸ばす指先が、わずかに震えていました。
王都を出た日の痛みも、嵐の恐怖も、過去のすべてが一度に甦ります。
でも、それでも私は、ここに立っている。
自分の意志で選んだこの場所に。
その時でした。
静かな扉を叩く音がしました。
「先生、もう休まれましたか?」
聞き覚えのある声。
セインでした。
「入っていいですか?」
「ええ、どうぞ。……こんな時間にどうしたの?」
扉の隙間から入ってきた彼は、いつもの快活な笑みを浮かべていました。
けれど、その目の奥にどこか沈んだ影が見えました。
港の灯が彼の横顔を照らし、短い沈黙が流れます。
「今日は……行ってしまったんですね。宰相殿」
彼の言葉に、思わず息をのみました。
セインは何もかも知っている表情をしていました。
「どうして、あなたが……」
問いかけようとした声を、彼が静かに遮りました。
「俺は、本当は商人じゃありません。王都の宰相府から依頼を受けて、あなたの様子を報告していました」
言葉が時間を止めました。
胸の中がひどく冷たくなっていきます。
「……報告、していたの」
「ええ。でも、最初だけです。任務は、宰相の依頼――『彼女が無事でいるか確認しろ』というものでした。
でも、いつの間にか……俺は違う目的でここに通うようになったんです」
彼の声がわずかに震えていました。
いつも陽気な笑顔の男が、初めて弱さを見せていました。
「あなたを見ているうちに、報告ができなくなった。
誰かの命令で近づくには、あなたがあまりにも……まっすぐすぎたから」
「……それでも、あなたは彼に手紙を出していたのね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出ました。
怒りでも、悲しみでもない――ただ、心の奥が静かに凍るような感覚でした。
「ええ。でも、途中でやめました。
それ以来、一通も送っていません。あれ以外のことは、何も伝えていません」
「そう……」
私は目を伏せました。
セインの声が、風のように細く震えていました。
「リリアさん……信じてもらえないかもしれません。
でも俺、本当に、あなたの笑顔を守りたかったんです」
短い沈黙が流れました。
潮の音が、遠くで打ち寄せています。
私は瓶の蓋を閉め、布でそっと拭きました。
「……あなたは、優しすぎるのね」
「え?」
「誰かを守るために、自分を偽ってしまうところ。
きっと、昔の私にも似ているから」
セインの瞳が、わずかに揺れました。
それは痛みとも安堵ともつかない表情でした。
「俺は、あなたみたいな人を見たことがありません。
強いのに、壊れそうなくらい優しい。
――気がつけば、この仕事が終わっても、あなたを忘れられない気がしてるんです」
「……セインさん」
彼の名を呼ぶ声が、思ったより柔らかく胸からこぼれました。
そこに恨みはなく、むしろ深い感謝のような感情がありました。
「あなたに救われた人がいる。それは私も同じです。
だから、ありがとう。でも――もう誰かに“守られるだけ”の私には、戻れません」
そう告げると、セインは苦しげに笑いました。
それでも、どこか救われたような目をしていました。
「やっぱり、あなたは花のような人だ。咲く場所を選んで、誰のものにもならずに強く生きる。」
「花は風に吹かれます。でも、根は自分で選べるんですよ」
笑いながら、私は瓶を棚に戻しました。
セインは黙ってそれを見ていました。
やがて、ゆっくりと立ち上がります。
「ありがとう、リリアさん。……この町に来て、本当によかった」
「ええ。私も、あなたに出会えてよかった」
港の風が二人の間を通り抜けました。
灯りが小さく揺れて、潮の匂いが強くなります。
「いつか、また風の便りで会えたら。その時は嘘じゃない名前で」
「その時は、香草茶を出しますね。
――“再出発”の香りで」
「ふふっ……それは素敵だ」
セインが笑って扉を開ける。
その背に、旅の匂いがまとわりついていました。
「リリアさん。あの宰相殿は、本当に、あなたを愛していました」
「知っています。でも、今は私が、私を愛しているんです」
その答えに、セインは静かに目を閉じました。
穏やかな笑みを残したまま、港の夜に消えていきました。
*
扉が閉まり、静けさが戻りました。
机の上には、セインが置いていった小瓶がひとつ。
ラベルには、細い文字でこう書かれていました。
「“西の風”」
蓋を開けると、潮と檸檬とミントが混ざった香りがしました。
胸いっぱいに吸い込むと、不思議と涙が出そうになりました。
(ありがとう、セインさん。
そして……さようなら)
海の向こうに見える船影が、ゆっくりと遠ざかっていきます。
昼間の太陽が残した熱がまだ街に残っていて、海の香りが優しく漂っていました。
灯りを落とした店の奥で、私はひとり机に向かって瓶の整理をしていました。
アシェル様が去ってから、数日が経ちます。
嵐の夜、そして再会のあと――まるで夢のような時間でした。
(もう、迷わないって決めたのに……)
棚に手を伸ばす指先が、わずかに震えていました。
王都を出た日の痛みも、嵐の恐怖も、過去のすべてが一度に甦ります。
でも、それでも私は、ここに立っている。
自分の意志で選んだこの場所に。
その時でした。
静かな扉を叩く音がしました。
「先生、もう休まれましたか?」
聞き覚えのある声。
セインでした。
「入っていいですか?」
「ええ、どうぞ。……こんな時間にどうしたの?」
扉の隙間から入ってきた彼は、いつもの快活な笑みを浮かべていました。
けれど、その目の奥にどこか沈んだ影が見えました。
港の灯が彼の横顔を照らし、短い沈黙が流れます。
「今日は……行ってしまったんですね。宰相殿」
彼の言葉に、思わず息をのみました。
セインは何もかも知っている表情をしていました。
「どうして、あなたが……」
問いかけようとした声を、彼が静かに遮りました。
「俺は、本当は商人じゃありません。王都の宰相府から依頼を受けて、あなたの様子を報告していました」
言葉が時間を止めました。
胸の中がひどく冷たくなっていきます。
「……報告、していたの」
「ええ。でも、最初だけです。任務は、宰相の依頼――『彼女が無事でいるか確認しろ』というものでした。
でも、いつの間にか……俺は違う目的でここに通うようになったんです」
彼の声がわずかに震えていました。
いつも陽気な笑顔の男が、初めて弱さを見せていました。
「あなたを見ているうちに、報告ができなくなった。
誰かの命令で近づくには、あなたがあまりにも……まっすぐすぎたから」
「……それでも、あなたは彼に手紙を出していたのね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出ました。
怒りでも、悲しみでもない――ただ、心の奥が静かに凍るような感覚でした。
「ええ。でも、途中でやめました。
それ以来、一通も送っていません。あれ以外のことは、何も伝えていません」
「そう……」
私は目を伏せました。
セインの声が、風のように細く震えていました。
「リリアさん……信じてもらえないかもしれません。
でも俺、本当に、あなたの笑顔を守りたかったんです」
短い沈黙が流れました。
潮の音が、遠くで打ち寄せています。
私は瓶の蓋を閉め、布でそっと拭きました。
「……あなたは、優しすぎるのね」
「え?」
「誰かを守るために、自分を偽ってしまうところ。
きっと、昔の私にも似ているから」
セインの瞳が、わずかに揺れました。
それは痛みとも安堵ともつかない表情でした。
「俺は、あなたみたいな人を見たことがありません。
強いのに、壊れそうなくらい優しい。
――気がつけば、この仕事が終わっても、あなたを忘れられない気がしてるんです」
「……セインさん」
彼の名を呼ぶ声が、思ったより柔らかく胸からこぼれました。
そこに恨みはなく、むしろ深い感謝のような感情がありました。
「あなたに救われた人がいる。それは私も同じです。
だから、ありがとう。でも――もう誰かに“守られるだけ”の私には、戻れません」
そう告げると、セインは苦しげに笑いました。
それでも、どこか救われたような目をしていました。
「やっぱり、あなたは花のような人だ。咲く場所を選んで、誰のものにもならずに強く生きる。」
「花は風に吹かれます。でも、根は自分で選べるんですよ」
笑いながら、私は瓶を棚に戻しました。
セインは黙ってそれを見ていました。
やがて、ゆっくりと立ち上がります。
「ありがとう、リリアさん。……この町に来て、本当によかった」
「ええ。私も、あなたに出会えてよかった」
港の風が二人の間を通り抜けました。
灯りが小さく揺れて、潮の匂いが強くなります。
「いつか、また風の便りで会えたら。その時は嘘じゃない名前で」
「その時は、香草茶を出しますね。
――“再出発”の香りで」
「ふふっ……それは素敵だ」
セインが笑って扉を開ける。
その背に、旅の匂いがまとわりついていました。
「リリアさん。あの宰相殿は、本当に、あなたを愛していました」
「知っています。でも、今は私が、私を愛しているんです」
その答えに、セインは静かに目を閉じました。
穏やかな笑みを残したまま、港の夜に消えていきました。
*
扉が閉まり、静けさが戻りました。
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ラベルには、細い文字でこう書かれていました。
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