【完結】バツイチですが、今は港町で無骨な男に口説かれています。

朝日みらい

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第3章 再会

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「これ、昨日までの収支報告? 誤差が出ているね」  

 朝から出社したグリュネ商会の事務所は、倉庫のような大きな建物でした。  
 陽を受けた木の香りが漂い、紙とインクの匂いが混ざります。  
 わたしは慣れない机の上に書類を広げて、数字を修正していました。  

 計算があいません。  
 でも、誰もそのことに気づいていないようでした。  

「……たぶん、複式簿記を理解していないんだわ」  

 ひとりごちて、ペンを走らせます。  
 時々こうして思考を口に出してしまうのは悪い癖です。屋敷での孤独な作業が長かったせいかもしれません。  

(まあ、いいんです。数字は嘘をつきませんから)  

 まるでパズルを解くような快感。  
 こうして整っていく数字の列を見るたび、少しずつ“生きている”実感が胸に戻ってきます。  

*  

「おお、ベルティー女史、頼りにしてますよ」  
 背後で声がして振り向けば、副代表のバイルが立っていました。  
 どうやら、彼もわたしの修正された帳簿を見て驚いているようです。  

「これ、一日で全部見直したんですか?」  
「はい。単純な転記ミスが大半ですから」  
「いや、単純って……三ヶ月分ですよ?」  

 バイルが半ば呆れたように笑います。  
「ところで今日、またヴァルク商会との打ち合わせに顔を出してください。あなたの数字の方が正確でしょうから」  

「えっ……また、レオン――いえ、ヴァルクさんと?」  

 バイルの口元がどこか意味ありげにゆるみました。  

「そうですよ。彼、口は悪いですが仕事は早い。あなたみたいに几帳面な人には、きっと相性いいと思います」  

 そう言われてしまえば、断る理由もありません。  
 まあ……仕事、ですし。  

(仕事、ですよね。決して“会いたい”とか、そんなことでは……)  

 自分の頬がほんのり熱くなるのを、急いで書類で隠しました。  

*  

 午後、レオンハルトが現れたのは、いつものように時間ぴったり――いえ、それより五分早めでした。  
 彼が歩くだけで空気が変わります。  
 灰色の瞳が鋭く全体を見渡し、誰もが背筋を伸ばす。  

 でも今日は、わたしに一瞬だけ視線を止めました。  

「昨日の資料、見た。……あんた、数字に強いな」  

「お褒めにあずかり光栄です」  
 丁寧に頭を下げたつもりなのに、彼はわずかに眉を寄せた顔。  

「皮肉のつもりか?」  
「まさか。事実を述べただけですわ」  

 思わず少しだけ笑みが漏れました。  
 彼のような実務家相手に、つい“妻ではない言葉”で会話できるのが嬉しかったのかもしれません。  

「取引条件を変更しようと思ってる。こっちの船が遅れて、輸出費用が上がる」  
「ですが、それをそのまま上乗せすれば、契約相手が離れます」  
「ならどうしろと」  
「費用の内訳を見れば、保険料が二重に計上されています。そこを削れば、互いに損は出ません」  

 言い終えたとき、周囲が一瞬静まりました。  
 レオンハルトの眼差しが、試すようにわたしを見ています。  

「……なるほど。筋は通ってる」  

 それだけ言うと、彼は指先で軽く顎を撫でました。  
 いつもの無表情なのに、その目元がほんの少しだけ柔らかい気がしたのです。  

(なに……? 認められた、ような……)  

 胸の奥がじん、と温かくなりました。  

「無駄話はしないタイプだと思ってたが、言葉に棘があるな」  
「……誉め言葉として受け取ります」  

「いや、皮肉のつもりだ」  

 そんな軽口を交わした瞬間、ふと気づけば周囲が笑っていました。  
 商会の職員たちの視線の中で、ジュリアとレオンハルト――二人の関係性がごく少しだけ変わった気がします。  

*  

 夕暮れ。  
 仕事を終えて港の通りを歩いていると、潮風の冷たさが心地よく感じられました。  

(あの人、本当に不思議な人)  

 無愛想で、近寄りがたくて、けれど言葉の裏に誠実さがある。  
 あの灰色の瞳は、嘘を見抜いてしまうような怖さと、沈黙の優しさの両方を持っている。  

 ――もっと話したい。もっと知りたい。  
 そんな気持ちが芽生えたことを、自分でも気づきたくありませんでした。  

 見上げた空には、薄紫の雲が流れていました。  
 潮風に髪が揺れ、心が少しだけ軽くなる。  
 でも、そのわずかな幸福の影には、まだ誰にも言えない不安が潜んでいました。  

(こんなふうに誰かと向き合うことを、本当に許されるのかしら)  

 “伯爵夫人”だったわたしの中の古い声が、そっと囁きます。  
 でもそのたび、レオンハルトのひと言が浮かびました。  

――「過去より今を見ろ」  

 あの冷静な声が、不思議と背中を押してくれる。  

 この街で、もう一度“自分”をやり直す。  
 それは、奇跡ではなく選択なのだと――わたしは潮風の中でそっと目を閉じました。  
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