【完結】バツイチですが、今は港町で無骨な男に口説かれています。

朝日みらい

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第4章 有能な元伯爵夫人

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 帳簿の山が高く積まれた机の上、空気を換えるために窓を開けました。  
 潮風が吹き込み、紙がふわりとめくれます。  
 この街に来て、もう一週間。わたしは、商会の「臨時顧問」として驚くほど忙しい毎日を送っていました。  

 数字の整理、取引書類の確認、契約条件の見直し。  
 初めは「お飾りの元貴族」という目で見られていたのが、次第に変わりつつあります。  
 数字を積み上げれば、誰が怠け、誰が努力しているかはすぐにわかる。  
 数字は、人よりも素直ですから。  

「……この積荷報告、重複してますね。こっちの根拠記録を削除して」  

 部下の青年に指示すると、「はいっ」と少し慌てた声が返ってきました。  
 声に出して指示するたび、不思議と昔を思い出します。伯爵家の家令や使用人に指示していた頃の感覚。  
 あのときは、家のため、夫のためと自分に言い聞かせていたけれど。  

(今はもう、誰のためでもない。わたし自身の選択として、仕事をしてるのね)  

 そう思うと、胸の奥がゆっくり温かくなりました。  

*  

「ジュリア、例の契約書。見たか」  

 書類の山の向こうから、あの低い声。  
 レオンハルト・ヴァルクは今日も、無駄のない足取りで入ってきました。  
 無表情なのに、誰よりも場の空気を動かす男性です。  
 部下たちが慌てて姿勢を正す中、わたしだけは自然に頷いて返しました。  

「ええ、見ました。輸出先が二社同時に入札してて、条件の重複がありました」  
「気づくと思ってた。数字の癖が似てたからな」  
「まるで犯人探しのような言い方をなさいますね」  
「どちらかというと、商売は戦だ」  

 さらりと、そんな言葉を言うのです。  
 その鋭く合理的な考え方に、最初は少し怖気づきました。けれど今では……。  

「なら、勝ち方を学べばいいだけですわ」  

 思わず口をついて出てしまった言葉に、彼はほんの一瞬驚いたように眉を上げました。  
 そして、静かに笑ったのです。  

 ――笑った。  
 それは、いつも無愛想な彼には珍しいこと。  
 胸が一気に熱くなるのを感じました。  

「……そうだな。勝ち方を学ぶ、か。面白い考えだ」  

「戦うなら、正々堂々と。姑息な手で勝っても、信用は残りませんもの」  

 言いながら、自分でも少し可笑しくなっていました。  
 過去のわたしは、誰かに肯定される言葉を求めていた。  
 けれど今は、自分の意見を堂々と言える。  
 ――その変化が、少しだけ誇らしかったのです。  

*  

 その日の午後、トラブルが起きました。  
 輸入品の検品で不正な帳票が見つかったのです。  
 担当商人が逃げたと聞き、倉庫が一時騒然としました。  

「全数、確認し直します!」  
「時間がかかる。船の出航に間に合わん」  

 焦る人々を前に、わたしは一歩前に出ました。  

「帳票の筆跡があまりに整いすぎています。複製された写しですね。元帳は別に保管されています」  
「どこに?」  
「この“先月分”と見せかけた裏帳簿のほうです」  

 指先で書類をめくると、赤い印が二重になっている個所がありました。  
 集まった視線の中、わたしは淡々と説明を続けました。  

「これが本来の正しい数量。間違いなく、不正はこの帳票で発生していますわ」  

 静まり返った倉庫の中。  
 しばらく沈黙が流れたあと、レオンハルトが低く笑いました。  

「……おい。今の説明を聞いて納得できた奴、挙手」  

 数人の部下たちが手を上げました。  
 レオンハルトはゆっくりとわたしに顔を向け、短く告げました。  

「完璧だ」  

 その言葉に、胸の奥が熱く弾けるようでした。  

(わたし、認められたのね……)  

 小さな言葉ひとつで涙が出そうになるなんて、我ながら可笑しくなります。  
 でもそれは、誰かに評価されるためではなく、“対等に信頼される”という感覚。  
 それが、こんなにも嬉しいものだとは思いませんでした。  

*  

 夜。書類を片付け終えて帰ろうとすると、レオンハルトが扉の前に立っていました。  
 いつもより少しだけ険の取れた表情。  

「今日は助かった」  

「仕事ですから」  

「いや、それだけじゃない。あんたの言った通りに動かなかったら損失が出てた」  

 淡々とした口調なのに、どこか不器用なほど真っ直ぐ。  
 彼がそういう人だと、もう分かってきた気がします。  

「……ありがとうございます」  

 そう答えると、彼はほんの一瞬だけ迷ったようにわたしの髪に触れかけ――ふっと手を引きました。  
 潮風が吹き込み、夜の灯りが彼の銀髪を照らしています。  

「遅い。帰れ。女性が働き過ぎる職場は、信用が落ちる」  

「そんなルール、初耳ですわ」  
「今、俺が作った」  

 そう言って、少しだけ口の端を上げる。  
 冗談なのか、本気なのか分からない。  
 でも、その声が妙に優しく響きました。  

 あの夜より少しだけ近くに感じる距離。  
 それを感じながら、わたしは小さく頷きました。  

「……はい。気をつけます」  

 扉を出て、歩き出したあとも、頬に残る潮風がどうしてもあたたかくて。  
 鼓動を静めようと深呼吸をしたけれど、どうしても収まりませんでした。  

(あの人の“ありがとう”が、こんなに響くなんて)  

 ざわめく港の灯りの向こう、海がゆらめき、波が光を返しています。  
 新しい夜明けの前触れのように思えました。  
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