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第7章 選ばれること、選ぶこと
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夜の海は、不思議と静かでした。
港の灯りが水面に揺れ、波音が規則正しく岸を叩きます。
人の心もこんなふうに――ただ静かに満ちたり、引いたりできればいいのに。
雨上がりの翌朝、アベルが再び訪ねてきました。
迎賓館の会議室。白いカーテンが風に揺れ、遠くで鐘が鳴っています。
「少しだけ、時間をもらってもいいか」
その声に、胸の奥がわずかに疼きました。
過去のどこかを呼び覚ますような響き。
けれど、もう私はあの頃の“妻”ではありません。
「どうぞ。話を聞くだけなら」
向かい合って座ると、彼は不器用に視線を落としたまま言いました。
「お前が笑っていた頃を、思い出した」
「……笑っていた、わたし?」
「ああ。あの頃の俺は、それを当たり前のことだと思っていたんだ」
机の上で、彼の拳がかすかに握りしめられる。
それを見て、ふと気づきました。“完璧な騎士”の姿の裏で、彼もまた不器用だったのかもしれない。
「しかし、お前は俺の知らない場所で強くなった。……そう見える」
「強く、ですか?」
「昔は、周りのために笑っていた。今は自分のために笑っている」
静かに言われて、胸の奥が熱くなりました。
――そんな風に見てくれるような人だったら、きっと、離婚なんてしなくてもよかった。
「ジュリア」
彼がわたしの名を呼ぶ。その声音は、かつてよりも柔らかく、迷いに満ちていました。
「……もし、もう一度やり直せるなら。お前は、俺のもとへ――」
その言葉が最後まで続くより早く、わたしは微笑んでいました。
優しく、でも、はっきりと。
「……アベル様。どうか、もう“お前”と呼ばないでください」
「ジュリア……」
「わたし、あの十年を否定したくありません。
ただ、“あのとき”のわたしたちが精一杯だったと思うから。
でも、もう同じ場所には戻れないんです」
アベルが目を伏せる。
その肩越しに、窓の外の空が透けて見えました。
灰色で、けれど少しだけ光が差している。
「ありがとう、アベル様。……あなたに出会って学んだことは、今のわたしを支えています」
そう告げると、彼の唇が小さく動きました。
言葉を探したような、けれど見つからなかったような表情。
やがて、静かに頷いて席を立ちました。
「ジュリア。君が選んだ道を、俺は否定しない。
ただ……どうか、幸せでいてくれ」
「ええ。あなたも、どうか」
カーテンがふわりと揺れました。
彼が去った扉の向こうで、わたしの胸の奥の“過去”が、ようやく眠りについたのを感じました。
*
その日の夕方、港には紫色の光が沈んでいました。
波間が静かに煌めき、空と海の境が曖昧になる。
その景色を眺めていたわたしの横に、少し乱れた足音が近づきました。
「終わったようだな」
低く響く声。
振り向くと、レオンハルトが佇んでいました。
風にさらされた銀の髪が陽の名残を受けて淡く光ります。
「……ええ。ようやく、終わりました」
「泣いたのか?」
思わず息を詰めました。
頬にまだ微かに残っていた熱を、彼は簡単に見抜いてしまうのです。
「少しだけ。……でも、悲しい涙じゃありません」
「そうか」
彼はほんの僅か、目を細めました。
そして、躊躇うように一歩近づきます。
「もしあんたが戻ると言っても、俺は止めなかった」
「……知ってます」
「でも、選んだのは――こっちだ」
その言葉に、鼓動が一瞬高鳴りました。
目の前に立つ彼の瞳は穏やかで、けれどどこまでも真っ直ぐ。
“手を出さない優しさ”と、“一歩踏み込む勇気”の間で揺れるような眼差し。
「レオンハルトさん。あなたは、いつもそうですね」
「何が」
「わたしの選択を“奪わない”」
そう言うと、彼は少しだけ視線を逸らしました。
「当たり前だ。人の選択を奪うほど、暇じゃないんでな」
「不器用ですね」
「そりゃあ、よく言われる」
ふと笑い合いました。
その笑いが潮風に溶けて、港の空気が柔らかくなります。
沈みかけた夕陽の中、彼が静かに手を伸ばしました。
指先がわたしの髪を掠め、そっと耳にかけてくれる。
「……もう、過去に怯える顔じゃなくなったな」
「それは、あなたが見てくれたからです」
言い終えると、彼の瞳が少し揺れた。
そして、ためらいがちな仕草のまま、ゆっくりとわたしの頬に触れました。
その掌は、静かで、あたたかくて。
潮騒よりも近い距離で、彼の声が落ちます。
「選ぶのは、あんただ」
その一言で、胸の奥に灯がともりました。
「……はい」
わたしはその手を、自分の手で包み込みました。
柔らかな風が吹き抜け、海が光を返します。
もう誰かの妻ではない。
もう誰かに指示される女でもない。
今、わたしは“自分の選んだ手”を握っている。
――この港の風のように、自由な心で。
港の灯りが水面に揺れ、波音が規則正しく岸を叩きます。
人の心もこんなふうに――ただ静かに満ちたり、引いたりできればいいのに。
雨上がりの翌朝、アベルが再び訪ねてきました。
迎賓館の会議室。白いカーテンが風に揺れ、遠くで鐘が鳴っています。
「少しだけ、時間をもらってもいいか」
その声に、胸の奥がわずかに疼きました。
過去のどこかを呼び覚ますような響き。
けれど、もう私はあの頃の“妻”ではありません。
「どうぞ。話を聞くだけなら」
向かい合って座ると、彼は不器用に視線を落としたまま言いました。
「お前が笑っていた頃を、思い出した」
「……笑っていた、わたし?」
「ああ。あの頃の俺は、それを当たり前のことだと思っていたんだ」
机の上で、彼の拳がかすかに握りしめられる。
それを見て、ふと気づきました。“完璧な騎士”の姿の裏で、彼もまた不器用だったのかもしれない。
「しかし、お前は俺の知らない場所で強くなった。……そう見える」
「強く、ですか?」
「昔は、周りのために笑っていた。今は自分のために笑っている」
静かに言われて、胸の奥が熱くなりました。
――そんな風に見てくれるような人だったら、きっと、離婚なんてしなくてもよかった。
「ジュリア」
彼がわたしの名を呼ぶ。その声音は、かつてよりも柔らかく、迷いに満ちていました。
「……もし、もう一度やり直せるなら。お前は、俺のもとへ――」
その言葉が最後まで続くより早く、わたしは微笑んでいました。
優しく、でも、はっきりと。
「……アベル様。どうか、もう“お前”と呼ばないでください」
「ジュリア……」
「わたし、あの十年を否定したくありません。
ただ、“あのとき”のわたしたちが精一杯だったと思うから。
でも、もう同じ場所には戻れないんです」
アベルが目を伏せる。
その肩越しに、窓の外の空が透けて見えました。
灰色で、けれど少しだけ光が差している。
「ありがとう、アベル様。……あなたに出会って学んだことは、今のわたしを支えています」
そう告げると、彼の唇が小さく動きました。
言葉を探したような、けれど見つからなかったような表情。
やがて、静かに頷いて席を立ちました。
「ジュリア。君が選んだ道を、俺は否定しない。
ただ……どうか、幸せでいてくれ」
「ええ。あなたも、どうか」
カーテンがふわりと揺れました。
彼が去った扉の向こうで、わたしの胸の奥の“過去”が、ようやく眠りについたのを感じました。
*
その日の夕方、港には紫色の光が沈んでいました。
波間が静かに煌めき、空と海の境が曖昧になる。
その景色を眺めていたわたしの横に、少し乱れた足音が近づきました。
「終わったようだな」
低く響く声。
振り向くと、レオンハルトが佇んでいました。
風にさらされた銀の髪が陽の名残を受けて淡く光ります。
「……ええ。ようやく、終わりました」
「泣いたのか?」
思わず息を詰めました。
頬にまだ微かに残っていた熱を、彼は簡単に見抜いてしまうのです。
「少しだけ。……でも、悲しい涙じゃありません」
「そうか」
彼はほんの僅か、目を細めました。
そして、躊躇うように一歩近づきます。
「もしあんたが戻ると言っても、俺は止めなかった」
「……知ってます」
「でも、選んだのは――こっちだ」
その言葉に、鼓動が一瞬高鳴りました。
目の前に立つ彼の瞳は穏やかで、けれどどこまでも真っ直ぐ。
“手を出さない優しさ”と、“一歩踏み込む勇気”の間で揺れるような眼差し。
「レオンハルトさん。あなたは、いつもそうですね」
「何が」
「わたしの選択を“奪わない”」
そう言うと、彼は少しだけ視線を逸らしました。
「当たり前だ。人の選択を奪うほど、暇じゃないんでな」
「不器用ですね」
「そりゃあ、よく言われる」
ふと笑い合いました。
その笑いが潮風に溶けて、港の空気が柔らかくなります。
沈みかけた夕陽の中、彼が静かに手を伸ばしました。
指先がわたしの髪を掠め、そっと耳にかけてくれる。
「……もう、過去に怯える顔じゃなくなったな」
「それは、あなたが見てくれたからです」
言い終えると、彼の瞳が少し揺れた。
そして、ためらいがちな仕草のまま、ゆっくりとわたしの頬に触れました。
その掌は、静かで、あたたかくて。
潮騒よりも近い距離で、彼の声が落ちます。
「選ぶのは、あんただ」
その一言で、胸の奥に灯がともりました。
「……はい」
わたしはその手を、自分の手で包み込みました。
柔らかな風が吹き抜け、海が光を返します。
もう誰かの妻ではない。
もう誰かに指示される女でもない。
今、わたしは“自分の選んだ手”を握っている。
――この港の風のように、自由な心で。
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