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第8章 弱点じゃない
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季節が少しだけ暖かくなった。
港の風にも柔らかい潮の香りが混ざり、空はどこまでも澄んでいます。
この街《リュシアン連邦》に来て、もう半年。
最初は“逃げてきた”つもりだった場所が、今ではちゃんと“わたしの生きる場所”になっていました。
書類を束ねる手にも、迷いがない。
かつて伯爵家の帳簿を整えていた頃のような重苦しさもなく、
毎日の働きの中に、自分の価値を見出せるようになった。
(もう、あの頃のわたしじゃない)
あの頃。
他人の機嫌を読むことばかりが“生き方”だった自分。
いま振り返ると、それも一つの経験だったと思える。
“耐える”しかなかったあの日々があったからこそ、いま“選ぶ”ことの意味を知れたのだから。
*
「ジュリア」
名前を呼ばれる声がして顔を上げると、レオンハルトが事務所の扉にもたれて立っていました。
相変わらず、無骨でぶっきらぼう。けれど、その目の奥は、あの頃よりもずっと穏やかです。
「今日で正式に納品契約が締結だ」
「無事に、ですね」
「お前がいたからだ」
短い言葉に込められた信頼の重み。
数字や損得を超えた、ひとの“信用”という言葉が、こんなふうに胸をあたためる日が来るなんて。
「でも……あなたがいたから、です」
思わず言い返して、わたしは自分で苦笑しました。
彼の前ではどうしても素直すぎる。
「らしくないな」
「少しくらい、らしくなくてもいいでしょう?」
そう言うと、レオンは目を細めました。
何も言わずに静かに歩み寄り、机の上にそっと腕を置く。
その距離が、息をするたびにわたしの胸をざわつかせます。
「ジュリア。……あんたは変わった」
「そうでしょうか?」
「ああ。最初に会ったときは、冷たい目をしてた。今は――目が生きてる」
不意にそんなふうに言われて、視線を逸らしてしまいました。
胸の奥が温かくて、でも少し痛い。
人前で涙を見せるなんて何年ぶりだろう。
「……ねえ、レオンハルトさん」
「ん?」
「わたし、ずっと“バツイチ”って言葉に怯えてきました。
失敗した印だと思ってたんです。誰かがそれを嘲っても、否定もできませんでした。
でも、違いましたね」
言葉が、静かにこぼれました。
「失敗じゃなくて――経験でした。
あの過去があったから、いまのわたしがここにいる。
だから、もう“傷”じゃなくて、誇りにしてもいいんですよね」
レオンは、黙って頷きました。
そして、短く息を吸ってから言いました。
「それなら、堂々としてろ。
あんたが選んできた道を、他人の言葉で汚すな」
「……はい」
胸の奥がじんと熱くなる。
その時、彼の手がわたしの頬に触れました。
その仕草は、初めて出会った日の無骨な手つきよりもずっと優しく、
指先で確かめるように、わたしの髪を撫でる。
「そういう顔をしてる時が、一番きれいだ」
「……また、そんなことを」
そう言いつつ、心臓の鼓動が抑えられません。
視線が絡む。
彼は何の飾りもないまま、まっすぐに言葉を紡ぎました。
「俺は、あんたが誰の妻でもなかった頃より、
誰かの元を離れて“自分でここにいる今のあんた”が好きだ」
世界が一瞬、静まり返った。
(――ああ)
これが“愛される”ということなんだ。
過去の肩書きでも、形でもなく、いまの“わたし”をまるごと見てもらえる、そんな言葉。
「レオンハルトさん」
そっと彼の胸に手を伸ばし、わたしは微笑みました。
「わたしも、いまのあなたが好きです」
驚きと安堵が混ざったような眼差し。
彼の腕がわたしを包み込み、額にそっと唇が触れました。
優しくて、熱を持つ、その触れかた。
涙がひとしずく、頬を伝いました。
「……ありがとう」
「礼を言うのは、俺だ」
外では、港の鐘が鳴っています。
かつてのわたしを閉じ込めた王国の鐘とは違う、自由の音。
潮風が二人の間を抜けて、窓の向こうの海が金色に光を弾きました。
*
その日の夜、宿の部屋で、机に向かって日誌を開きました。
かつては“家の記録”として、今日は“わたし自身の記録”として。
「わたしは失敗した。でも、それは弱点じゃない。
失敗した自分を恥じるより、もう一度立てたことを誇りに思いたい。
そして、誰かのためではなく、自分で選んだ人と生きていきたい。」
ペンを置いたとき、心が軽くなりました。
窓の外では、灯りのひとつひとつが揺れ、やさしく街を照らしています。
その光の中に、彼の姿が見える気がしました。
不器用で、まっすぐで。
けれど、確かに“今を生きる”人。
――もう、肩書きはいらない。
“ジュリア”という名前で、胸を張って笑っていこう。
港の風にも柔らかい潮の香りが混ざり、空はどこまでも澄んでいます。
この街《リュシアン連邦》に来て、もう半年。
最初は“逃げてきた”つもりだった場所が、今ではちゃんと“わたしの生きる場所”になっていました。
書類を束ねる手にも、迷いがない。
かつて伯爵家の帳簿を整えていた頃のような重苦しさもなく、
毎日の働きの中に、自分の価値を見出せるようになった。
(もう、あの頃のわたしじゃない)
あの頃。
他人の機嫌を読むことばかりが“生き方”だった自分。
いま振り返ると、それも一つの経験だったと思える。
“耐える”しかなかったあの日々があったからこそ、いま“選ぶ”ことの意味を知れたのだから。
*
「ジュリア」
名前を呼ばれる声がして顔を上げると、レオンハルトが事務所の扉にもたれて立っていました。
相変わらず、無骨でぶっきらぼう。けれど、その目の奥は、あの頃よりもずっと穏やかです。
「今日で正式に納品契約が締結だ」
「無事に、ですね」
「お前がいたからだ」
短い言葉に込められた信頼の重み。
数字や損得を超えた、ひとの“信用”という言葉が、こんなふうに胸をあたためる日が来るなんて。
「でも……あなたがいたから、です」
思わず言い返して、わたしは自分で苦笑しました。
彼の前ではどうしても素直すぎる。
「らしくないな」
「少しくらい、らしくなくてもいいでしょう?」
そう言うと、レオンは目を細めました。
何も言わずに静かに歩み寄り、机の上にそっと腕を置く。
その距離が、息をするたびにわたしの胸をざわつかせます。
「ジュリア。……あんたは変わった」
「そうでしょうか?」
「ああ。最初に会ったときは、冷たい目をしてた。今は――目が生きてる」
不意にそんなふうに言われて、視線を逸らしてしまいました。
胸の奥が温かくて、でも少し痛い。
人前で涙を見せるなんて何年ぶりだろう。
「……ねえ、レオンハルトさん」
「ん?」
「わたし、ずっと“バツイチ”って言葉に怯えてきました。
失敗した印だと思ってたんです。誰かがそれを嘲っても、否定もできませんでした。
でも、違いましたね」
言葉が、静かにこぼれました。
「失敗じゃなくて――経験でした。
あの過去があったから、いまのわたしがここにいる。
だから、もう“傷”じゃなくて、誇りにしてもいいんですよね」
レオンは、黙って頷きました。
そして、短く息を吸ってから言いました。
「それなら、堂々としてろ。
あんたが選んできた道を、他人の言葉で汚すな」
「……はい」
胸の奥がじんと熱くなる。
その時、彼の手がわたしの頬に触れました。
その仕草は、初めて出会った日の無骨な手つきよりもずっと優しく、
指先で確かめるように、わたしの髪を撫でる。
「そういう顔をしてる時が、一番きれいだ」
「……また、そんなことを」
そう言いつつ、心臓の鼓動が抑えられません。
視線が絡む。
彼は何の飾りもないまま、まっすぐに言葉を紡ぎました。
「俺は、あんたが誰の妻でもなかった頃より、
誰かの元を離れて“自分でここにいる今のあんた”が好きだ」
世界が一瞬、静まり返った。
(――ああ)
これが“愛される”ということなんだ。
過去の肩書きでも、形でもなく、いまの“わたし”をまるごと見てもらえる、そんな言葉。
「レオンハルトさん」
そっと彼の胸に手を伸ばし、わたしは微笑みました。
「わたしも、いまのあなたが好きです」
驚きと安堵が混ざったような眼差し。
彼の腕がわたしを包み込み、額にそっと唇が触れました。
優しくて、熱を持つ、その触れかた。
涙がひとしずく、頬を伝いました。
「……ありがとう」
「礼を言うのは、俺だ」
外では、港の鐘が鳴っています。
かつてのわたしを閉じ込めた王国の鐘とは違う、自由の音。
潮風が二人の間を抜けて、窓の向こうの海が金色に光を弾きました。
*
その日の夜、宿の部屋で、机に向かって日誌を開きました。
かつては“家の記録”として、今日は“わたし自身の記録”として。
「わたしは失敗した。でも、それは弱点じゃない。
失敗した自分を恥じるより、もう一度立てたことを誇りに思いたい。
そして、誰かのためではなく、自分で選んだ人と生きていきたい。」
ペンを置いたとき、心が軽くなりました。
窓の外では、灯りのひとつひとつが揺れ、やさしく街を照らしています。
その光の中に、彼の姿が見える気がしました。
不器用で、まっすぐで。
けれど、確かに“今を生きる”人。
――もう、肩書きはいらない。
“ジュリア”という名前で、胸を張って笑っていこう。
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