【完結】バツイチですが、今は港町で無骨な男に口説かれています。

朝日みらい

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終章 新しい名前、新しい人生

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 潮の香りが穏やかに漂う朝でした。  
 港の空は春めいて、柔らかな陽の光が建物の屋根を金色に染めていました。  

 わたし――ジュリア・ベルティーと呼ばれることに、もう何の後ろめたさもありません。  
 旧姓を名乗るようになってから、街の人々はごく自然に“ジュリアさん”と声をかけてくださるようになりました。  

 市場で果物を選ぶときも、商会の方々に書類を届けるときも、家に帰るときも。  
 そのどれもが、わたしの日常です。  

 ――「おかえり、ジュリア」  

 背中から呼び止められるその声を聞くだけで、生きている実感が胸いっぱいに広がります。  

*  

 わたしはいま、港の外れにある白い壁の家で暮らしています。  
 窓辺からは碧い海が見え、潮風がカーテンを優しく揺らします。  
 そこが、“わたしとレオンハルトさんの家”になりました。  

 玄関の向こうでは、彼が工具箱を片手に立っていました。  
 朝から船具の修理をしていらしたようで、頬や腕には油の跡がついています。  

「また手を汚して……せっかくのお召し物が台無しになりますわ」  

 そう言ってタオルを差し出すと、彼は少しだけ照れくさそうに笑ってそれを受け取りました。  

「どうせ汚れるなら、気にするだけ無駄だ」  
「理屈っぽい方ですね。昔のあなたなら“はい”の一言で済ませたでしょうに」  
「昔の俺は何も言わなさすぎたんだ」  

 そのやり取りが、なぜか愛しくて、わたしは思わず笑ってしまいました。  
 この人は、言葉が少ないくせに、必要なことはきちんと伝えてくださる。  
 それがどんな贈り物よりも嬉しかったのです。  

「今日も商会のお仕事ですか?」  
「午前で片づけたら、午後は休みにする」  
「珍しいですね」  
「お前が“たまには休め”って言ったろ」  
「言いましたけれど……素直ですね」  
「学んだ」  

 短く答えるその声音が妙に優しくて、胸の奥がじんとなりました。  
 こうして笑い合える時間が増えるたび、心のどこかでそっと思うのです。  

 ――あの離婚も、逃避も、泣いた夜も、決して無駄ではありませんでした。  

*  

 街ではまだ、あれこれと噂が立つこともあります。  
 “元伯爵夫人が港の実業家と暮らしているらしい”と。  
 けれど、もう気にしません。笑って受け流せるようになりました。  

 市場では老婦人が声をかけてくださいます。  
「ジュリアさんは、立派な女だよ。自分の足で立ってる人は、誰にも文句を言わせちゃいけないさ」  

 その言葉を聞くたびに、目頭が熱くなります。  

(ああ、わたしはもう、“誰かの妻”ではなく、“ジュリア”としてここにいられるのですね)  

*  

 夕暮れ。  
 海辺に二人並んで立ち、沈みゆく陽を見送りました。  
 波の音が静かに寄せては返し、金色の光が海面を染めています。  

「ジュリア」  

 名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねます。  
 振り向くと、レオンハルトさんの灰色の瞳がまっすぐにわたしを見つめていました。  

「なんでしょう?」  

「今日、役所に行ってきた」  

「役所に?」  

 少し緊張して尋ねると、彼は懐から丁寧に折られた書類を取り出しました。  

「新しい登録をしてきた」  

 そこには、二人の名前が並んでいました。  
 同じ行に、肩書きも地位もなく、ただ名前だけで並んで。  

「結婚ってほど大げさなもんじゃない。  
 でも、これで俺がもし先に死んでも、あんたが困らないようにはした」  

 胸の奥にあたたかい波が広がっていきました。  
 わたしはその紙を両手で受け取り、そっと笑いました。  

「……あなたって、本当に不器用なんですから」  

「お前の分野だろ。俺は数字以外は苦手なんだ」  

 そう言って、彼は少し照れたように目をそらしました。  
 愛しい気配が、潮風のようにやわらかく広がります。  

「ありがとう、レオンハルトさん。  
 あなたが“今のわたし”を選んでくださって」  

「俺は最初から、そのつもりだった」  

 視線が絡み合い、短い沈黙ののちに、彼の手がわたしの頬に触れました。  
 指先が髪を撫で、温もりがゆっくりと伝わってきます。  

 世界が、潮騒と光だけになるような感覚でした。  

*  

 夜。  
 灯りを落とし、窓辺に座って静かな波を聞いていました。  
 いまの自分の人生を思い返しながら、胸の中でそっと言葉を紡ぎます。  

「失敗した日々も、あの痛みも、もう恥じゃありません。  
 “バツイチ”は、わたしの弱点ではなく、わたしを形づくる一部なんです」  

 その独り言に、奥からレオンハルトさんの声が返ってきました。  

「ジュリア、灯りを消せ。もう遅い」  

「はいはい」  

 返事をして立ち上がり、灯を吹き消しました。  
 暗闇の中で、彼の腕が伸びてきて、わたしを抱き寄せます。  

「……なんですか?」  
「寝る前に名前を呼びたくなっただけだ」  
「ふふ……もう何回目です?」  
「まだ足りない」  

 笑い声が重なり、外の海の音に溶けていきました。  
 潮風がやさしく窓を撫で、ランプの名残の香りが部屋に残ります。  

 長い旅路を終えた船のように、心が静かに漂いました。  
 この街に来て、本当によかった――そう思いながら、目を閉じます。  

 “ジュリア”という名前で呼ばれることが、いまのわたしの幸せ、だから。  

***

(――おわり――)  
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