【完結】氷の侯爵と25夜の約束

朝日みらい

文字の大きさ
2 / 20

第二章 身代わりの花嫁

しおりを挟む
 目を覚ますと、白い光が差しこんでいました。  
 カーテン越しの朝日は凍りつくほど冷たいはずなのに、わたしの心はなぜかほんのり暖かく感じられました。  
 ――昨夜、あの方の笑顔を見たからでしょうか。

 侯爵の微笑みは、ほんのわずか。けれど、それは冬の館に小さな春の灯がともるようで……。  
 首元を押さえながら鏡を見ると、頬がうっすら赤く染まっていて、自分でも思わず苦笑してしまいました。

「なにをときめいているの、わたし……。あれは契約の夫婦なのよ」

 自分に言い聞かせるように呟いて、わたしはドレスの裾を整えました。

* * *

 その日の午前、執事のローレンさんから「侯爵様はお仕事で執務室にこもられております」と告げられました。  
 昨夜のお呼び出しが“毎夜”続くのかと、どこか期待してしまっていた自分に苦笑します。  
 こんな気持ち、持ってはいけないのに。

 やることもなく、暖炉の前で本を読んでいると、ふと一枚の地図が目に入りました。  
 この館――ローレンス邸の見取り図です。

「まあ……すごい。まるで迷路みたい」

 裏庭に“温室”と書かれた区画があるのを見つけて、少しだけ胸が高鳴りました。  
 雪の季節に温室なんて、いったいどんな花が咲いているのでしょう。

「ちょっとだけ……見に行ってみようかしら」

 上着を羽織り、静かな廊下を進みます。  
 天井は高く、窓に積もった雪が光を反射して青く輝いていました。廊下の角を曲がるたびに、冷気が頬をかすめていきます。

 温室のある場所は、館の奥。  
 途中でばったり出会ったメイドのマリーが、慌てたように眉を寄せました。

「セラフィーナ様、そちらは……侯爵様の立ち入りを禁じられた区域です」

「まあ、そうなの? すみません、知らなくて……でも、どうして?」

「さあ……。ただ、昔のご婚約者様に関係しているとか……」

 婚約者。  
 その言葉に、胸の奥がチクリと痛みました。

(あの人にも、かつて“愛した人”がいたのね)

 きっと今でも、心の中ではその方を思い続けているのかもしれません。  
 だからこそ、誰にも心を開かない――なるほど、氷の侯爵。

「――ルシアン様のご許可なしに入られると、大変なことになりますよ」

 マリーが心配そうに言うので、わたしは素直に頷きました。  
 とはいえ、その扉の向こうになにがあるのか気になって仕方ありません。  
 その時、背後から静かな声がしました。

「なにをしている」

 聞いただけでぞくりとするほど落ち着いた低い声。  
 振り向くと、ルシアン様がこちらを見下ろしていました。  
 いつの間に――全然気づきませんでした。

「……っあの、温室に興味があって。すぐ戻ります!」

「温室を見たいのか」

 淡々と問い返す彼の瞳に映った自分が、まるでいたずらを見つかった子どものようで恥ずかしくなり、思わず視線を逸らしました。  
 けれど次の瞬間、意外な言葉が返ってきました。

「鍵をやろう」

「えっ?」

「ついてこい」

* * *

 温室の扉の前に立つと、彼は無言で鍵を差し込みました。  
 扉が開く音が、館の静寂を切り裂きます。  
 そこに広がっていたのは、まるで雪の中に閉じこめられた小さな春の世界でした。

 ガラス越しの光が緑の葉に反射し、冬とは思えぬほどに暖かい風が頬を撫でます。  
 真っ白な花々が静かに揺れていて、その中心に一輪だけ、淡い金色を宿した花が凛と咲いていました。

「これは……」

「“冬の誓花(せいか)”と呼ばれている。冬にだけ咲く、滅多に見られない花だ」

 ルシアン様の指先が、その花弁をそっと撫でました。  
 その仕草が予想外に優しくて、見てはいけないものを見たような気がして息をのみました。

「これを妻となる者だけに見せるのが、我が家の伝統だ」  
 彼の声が小さく続きます。「君がその資格を持つかどうか――それを見極めたいと思った」

「わたしに……そんな資格が?」

「分からない。だが、君は……」

 言葉が途中で途切れ、ふいに目をそらされました。  
 静かな沈黙の中で、何かが胸の奥に灯っていくのを感じます。  
 見上げれば、ガラスの向こうの空に雪がまた降り始めていました。  
 まるで世界が二人を包みこむように。

「ルシアン様」

「なんだ」

「わたし、この花を少しだけお世話してもいいですか?」

「……構わない」

 ほんの短い返事でしたが、それはまるで許しの温もりのように聞こえました。

* * *

 それからのわたしは、昼間は館の花々や温室の手入れをし、夜は侯爵からの呼び出しを受けて過ごす日々に変わっていきました。  
 まるで季節が少しずつ巡るように、彼の態度も少しずつ変化していきます。

 初めのころは冷淡で、距離を置くような話し方ばかりでしたが、ある晩、彼がふと笑いました。  
 わたしが庭で転んでしまい、膝についた泥を拭きながら失敗談を話した時のことです。

「庭の雪だるまに引っかかって転ぶとは、君は……面白い人だな」

「からかわないでください! 痛かったんですから!」

「すまない。……本当に、そんな顔をするとは思わなかった」

 彼の笑い声は小さく、それでもきっとこの館の中で一番やさしい音でした。  
 その夜、使用人たちがそっと顔を見合わせていたのを覚えています。誰も、彼の笑顔を見たことがなかったのだそうです。

(あの人も、人のぬくもりを忘れていたのかもしれない)

 わたしはそんなことを考えながら、少しずつ距離を縮めていきました。

* * *

 ある日の午後、温室で枯れかけた花を見つけ、わたしは少し切なくなりました。  
 どうにかしてこの命を繋げたい。そっと茎を支えようと手を伸ばしたとき、背後から大きな手がわたしの手を包みました。

「冷たい手だ。もっと手袋を」

「ルシアン様……あっ、すみません! 勝手に触れて……」

「構わない。だが、無理はするな。君が無理をしても、花は喜ばない」

 その指がわずかにわたしの指に絡んで、鼓動が止まらなくなりました。  
 目の奥がじんわり熱くなって、視界が少し揺れます。

「君は、春に似ている」  
 ルシアン様が囁くように言いました。  
「雪の中でも咲く花のようだ」

 その言葉が、あたたかい手とともに心に残り――気づけば涙がこぼれていました。

「どうして泣く」

「わかりません。でも……優しい言葉なんて、長いあいだ聞かなかったものですから」

 彼の手が頬に触れました。その手は大きくて、不器用なくらい優しい。  
 心がぐらりと揺れて、思わず瞳を閉じました。  
 指先が頬をなぞって離れるまでのわずかな間に、胸の奥では何かが確かに溶けていきました。

* * *

 夜、更けても雪は降りやまず、館の灯は静かに揺れています。  
 暖炉の火の前で侯爵が書を読んでいて、わたしはその隣で刺繍をしていました。  
 話すでもなく、沈黙でもなく、ただ穏やかに流れる時間。

「君は不思議だな」  
「え?」

「この館が、冷たく感じなくなってきた」

 その言葉に、胸が小さく震えました。

「それは……わたしのほうこそです。冷たいと思っていたのは、館ではなく、わたしの心だったのかもしれません」

 思わず口にしてから、恥ずかしくなり、視線を落とします。  
 でも、彼の静かな笑い声がすぐに聞こえました。

「なるほど。……面白い答えだ」

 ページを閉じ、彼はそっとわたしの髪を撫でました。  
 その優しさに、心の中の雪がまたひとつ溶けていく――。

* * *

 二十五夜のうち、すでに五夜が過ぎました。  
 最初は恐ろしいほど冷たかった日々が、いまでは炎のように暖かい。  
 けれどその温もりが、いつまで続くのか――ふとした瞬間に不安が胸をかすめます。

 わたしは身代わり。  
 本当の花嫁ではない。
  
 それでも、止められないのです。あの人を見つめる視線も、名前を呼ばれるたびに高鳴る鼓動も。

(ああ……この時間が、終わらなければいいのに)

 窓の外に落ちる雪を見ながら、わたしはそっと囁きました。

「ルシアン様――あなたの“真実”を、どうか見つけさせてください」

 外では、星も雪も静かに輝き、二人の冬は、ゆっくりと深まっていきました。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

旦那様、彼は仕事において必要不可欠なパートナーなのです

ましゅぺちーの
恋愛
伯爵夫人フルールは、夫である伯爵と愛人の秘書に長年頭を悩ませていた。 何度夫に苦言を呈しても「彼女は仕事において必要不可欠なパートナーだから」と一切聞く耳を持たない。 困り果てていたそのとき、彼女は突然前世の記憶を取り戻した。 このままだと夫と愛人の真実の愛の犠牲になってしまう。 それだけは御免だ。 結婚五年目にして、彼女はようやく夫を見限り、新たな事業を立ち上げた。 そして事業を成功させたフルールの隣には、いつも同じ男が立っていた。 その男は誰なのかと問い詰める夫に、フルールはニッコリ笑って言った。 「彼は仕事において必要不可欠なパートナーなのです」と。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月 瑠々奈
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした

ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。 しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義! そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。 「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」

【完結】何故こうなったのでしょう? きれいな姉を押しのけブスな私が王子様の婚約者!!!

りまり
恋愛
きれいなお姉さまが最優先される実家で、ひっそりと別宅で生活していた。 食事も自分で用意しなければならないぐらい私は差別されていたのだ。 だから毎日アルバイトしてお金を稼いだ。 食べるものや着る物を買うために……パン屋さんで働かせてもらった。 パン屋さんは家の事情を知っていて、毎日余ったパンをくれたのでそれは感謝している。 そんな時お姉さまはこの国の第一王子さまに恋をしてしまった。 王子さまに自分を売り込むために、私は王子付きの侍女にされてしまったのだ。 そんなの自分でしろ!!!!!

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

処理中です...