伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい

文字の大きさ
10 / 16

第10章 春の芽吹き

しおりを挟む
 長い冬がようやく終わりを迎えようとしていました。  
 氷の解ける音があちらこちらで聞こえ、雪の下から土が顔を出しています。  
 冷たい空気に混じって、やわらかい陽の匂いがする朝でした。

 その日の空は淡い水色。  
 屋敷の庭を歩くたび、靴の裏で小さく雪が溶ける音がしました。  
 目を凝らすと、あの時植えた白花の芽が、いくつも土を押しのけて立ち上がっています。

「……咲いたわ」

 思わずしゃがみこみ、ひとつの蕾を指で撫でました。  
 白く細い花びらが太陽の光を受け、まるで光そのもののように透き通っています。  
 胸の中で、何かが音を立てて弾けました。

「奥様、ほんとうに咲きましたね!」  
 ソフィが駆けつけ、顔を輝かせます。

「ええ。みんなの努力のおかげね。……この庭が息を吹き返したのよ」

「旦那様にもぜひご覧いただかないと!」

 嬉しそうなソフィの声に、思わず笑って頷きました。  
 けれどまさか数刻後、本当に彼が現れるとは思いませんでした。



 昼の柔らかい光の中。  
 庭の入口に、深緑の外套をまとったアルフォンス様の姿がありました。  
 灰色の瞳が春の光を映していて、その表情はいつもより穏やかに見えます。

「庭を見たいと言ったら、リオネルがここへ案内した」

「ようこそ、アルフォンス様。この庭、冬を越えて花が咲いたのです」

 わたしが差し出した花を、彼はしばらく黙って見つめていました。  
 そして手を伸ばし、花の茎をそっと掬うように持ち上げます。

「……この庭を“クラリッサの庭”と呼ぼう」

「え……?」

「お前が植え、守り、咲かせた花だ。この庭はお前のものだ」

 唐突な言葉に胸が熱くなりました。  
 彼の表情は相変わらず無愛想でしたが、その声だけが驚くほど穏やかで。

「そんな……でも、わたしは何も――」

「お前が来なければ、この屋敷も領も、今のようにはならなかった。  
 春が来たのは、お前がここにいたからだ」

 その言葉に、どうしても視線を合わせられませんでした。  
 胸の奥が温かすぎて、呼吸が少し苦しいほどです。

「……ありがとうございます」

 かろうじて絞り出した声に、彼が小さく頷きました。  
 次の瞬間、風が吹き、花弁が宙を舞います。  
 その中で、彼が一歩わたしに近づきました。

「手を」

「え?」

「寒いだろう」

 ためらう間もなく、彼の大きな掌がわたしの手を包み込みました。  
 その厚い手のひらから伝わるぬくもり。  
 ほんの少しの距離で、灰色の瞳と視線が絡みます。

 ふいに彼の指先が髪に触れ、風で乱れた一房を直してくれました。

「花びらが、髪に」

「あ……ありがとうございます」

 心臓が早鐘を打つように鳴り、頬が熱を帯びます。  
 今まで幾度も冷たい夜を知ってきたのに、いま感じている温度だけは、どこまでもやさしい。

「……今日の庭は、悪くない」

「ふふ。褒め言葉として、いただいておきます」

 軽く笑うと、彼はわずかに目を見張ってから、肩をすくめるようにして視線を逸らしました。  
 けれどその横顔には確かに笑みがありました。



 その日の夕暮れ、屋敷の窓から庭を見下ろすと、夕陽に白花が金色に染まっていました。  
 まるでわたしたちの手紙が積み上げた小さな奇跡のように、光が風に舞っています。

 机の上には、また新しい封筒。  
 そこに、今日の想いを綴りました。

『十通目。  
 春が訪れました。  
 この庭は、わたしとあの人の歩んだ季節のようです。  
 もう、凍てついた心に触れるのが怖くありません。  
 この人の隣に、ずっといたいと思いました。』

 インクが乾く前に、窓を開けて深く息を吸い込みました。  
 風の中には、花の香りと、どこか懐かしいあたたかさが混じっています。

(――あぁ、やっと、春が来たのね)

 庭の花々が、夕陽の中でやさしく揺れていました。  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

馬鹿にされて追い出されたけど、スキルを有効利用しましょう

satomi
恋愛
アイスノース王国で暮らすレイカのスキルは『氷創造』。役立たずと家を追い出されてしまった。それもレイカの姉のスキルが『炎創造』。アイスノースは年中北国。わざわざスキルで氷を出さなくても…という話だ。 極寒の中追い出されたしまったレイカ。凍死しそうなところで、助けられサンドサウス王国へ行くことに…常夏のサンドサウス王国へと。

公爵さま、私が本物です!

水川サキ
恋愛
将来結婚しよう、と約束したナスカ伯爵家の令嬢フローラとアストリウス公爵家の若き当主セオドア。 しかし、父である伯爵は後妻の娘であるマギーを公爵家に嫁がせたいあまり、フローラと入れ替えさせる。 フローラはマギーとなり、呪術師によって自分の本当の名を口にできなくなる。 マギーとなったフローラは使用人の姿で屋根裏部屋に閉じ込められ、フローラになったマギーは美しいドレス姿で公爵家に嫁ぐ。 フローラは胸中で必死に訴える。 「お願い、気づいて! 公爵さま、私が本物のフローラです!」 ※設定ゆるゆるご都合主義

「ばっかじゃないの」とつぶやいた

吉田ルネ
恋愛
少々貞操観念のバグったイケメン夫がやらかした

悪女として処刑されたはずが、処刑前に戻っていたので処刑を回避するために頑張ります!

ゆずこしょう
恋愛
「フランチェスカ。お前を処刑する。精々あの世で悔いるが良い。」 特に何かした記憶は無いのにいつの間にか悪女としてのレッテルを貼られ処刑されたフランチェスカ・アマレッティ侯爵令嬢(18) 最後に見た光景は自分の婚約者であったはずのオルテンシア・パネットーネ王太子(23)と親友だったはずのカルミア・パンナコッタ(19)が寄り添っている姿だった。 そしてカルミアの口が動く。 「サヨナラ。かわいそうなフランチェスカ。」 オルテンシア王太子に見えないように笑った顔はまさしく悪女のようだった。 「生まれ変わるなら、自由気ままな猫になりたいわ。」 この物語は猫になりたいと願ったフランチェスカが本当に猫になって戻ってきてしまった物語である。

帰ってきた兄の結婚、そして私、の話

鳴哉
恋愛
侯爵家の養女である妹 と 侯爵家の跡継ぎの兄 の話 短いのでサクッと読んでいただけると思います。 読みやすいように、5話に分けました。 毎日2回、予約投稿します。

完 これが何か、お分かりになりますか?〜リスカ令嬢の華麗なる復讐劇〜

水鳥楓椛
恋愛
 バージンロード、それは花嫁が通る美しき華道。  しかし、本日行われる王太子夫妻の結婚式は、どうやら少し異なっている様子。 「ジュリアンヌ・ネモフィエラ!王太子妃にあるまじき陰湿な女め!今この瞬間を以て、僕、いいや、王太子レアンドル・ハイリーの名に誓い、貴様との婚約を破棄する!!」  不穏な言葉から始まる結婚式の行き着く先は———?

犠牲になるのは、妹である私

木山楽斗
恋愛
男爵家の令嬢であるソフィーナは、父親から冷遇されていた。彼女は溺愛されている双子の姉の陰とみなされており、個人として認められていなかったのだ。 ソフィーナはある時、姉に代わって悪名高きボルガン公爵の元に嫁ぐことになった。 好色家として有名な彼は、離婚を繰り返しており隠し子もいる。そんな彼の元に嫁げば幸せなどないとわかっていつつも、彼女は家のために犠牲になると決めたのだった。 婚約者となってボルガン公爵家の屋敷に赴いたソフィーナだったが、彼女はそこでとある騒ぎに巻き込まれることになった。 ボルガン公爵の子供達は、彼の横暴な振る舞いに耐えかねて、公爵家の改革に取り掛かっていたのである。 結果として、ボルガン公爵はその力を失った。ソフィーナは彼に弄ばれることなく、彼の子供達と良好な関係を築くことに成功したのである。 さらにソフィーナの実家でも、同じように改革が起こっていた。彼女を冷遇する父親が、その力を失っていたのである。

婚約破棄を言い渡したら、なぜか飴くれたんだが

来住野つかさ
恋愛
結婚準備に向けて新居を整えていた俺(アルフォンソ)のところへ、頼んでもいないキャンディが届いた。送り主は一月ほど前に婚約破棄を言い渡したイレーネからだという。受け取りたくなかったが、新婚約者のカミラが興味を示し、渋々了承することに。不思議な雰囲気を漂わす配達人は、手渡すときにおかしなことを言った。「これはイレーネ様の『思い』の一部が入っています」と――。 ※こちらは他サイト様にも掲載いたします。

処理中です...