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第10章 春の芽吹き
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長い冬がようやく終わりを迎えようとしていました。
氷の解ける音があちらこちらで聞こえ、雪の下から土が顔を出しています。
冷たい空気に混じって、やわらかい陽の匂いがする朝でした。
その日の空は淡い水色。
屋敷の庭を歩くたび、靴の裏で小さく雪が溶ける音がしました。
目を凝らすと、あの時植えた白花の芽が、いくつも土を押しのけて立ち上がっています。
「……咲いたわ」
思わずしゃがみこみ、ひとつの蕾を指で撫でました。
白く細い花びらが太陽の光を受け、まるで光そのもののように透き通っています。
胸の中で、何かが音を立てて弾けました。
「奥様、ほんとうに咲きましたね!」
ソフィが駆けつけ、顔を輝かせます。
「ええ。みんなの努力のおかげね。……この庭が息を吹き返したのよ」
「旦那様にもぜひご覧いただかないと!」
嬉しそうなソフィの声に、思わず笑って頷きました。
けれどまさか数刻後、本当に彼が現れるとは思いませんでした。
*
昼の柔らかい光の中。
庭の入口に、深緑の外套をまとったアルフォンス様の姿がありました。
灰色の瞳が春の光を映していて、その表情はいつもより穏やかに見えます。
「庭を見たいと言ったら、リオネルがここへ案内した」
「ようこそ、アルフォンス様。この庭、冬を越えて花が咲いたのです」
わたしが差し出した花を、彼はしばらく黙って見つめていました。
そして手を伸ばし、花の茎をそっと掬うように持ち上げます。
「……この庭を“クラリッサの庭”と呼ぼう」
「え……?」
「お前が植え、守り、咲かせた花だ。この庭はお前のものだ」
唐突な言葉に胸が熱くなりました。
彼の表情は相変わらず無愛想でしたが、その声だけが驚くほど穏やかで。
「そんな……でも、わたしは何も――」
「お前が来なければ、この屋敷も領も、今のようにはならなかった。
春が来たのは、お前がここにいたからだ」
その言葉に、どうしても視線を合わせられませんでした。
胸の奥が温かすぎて、呼吸が少し苦しいほどです。
「……ありがとうございます」
かろうじて絞り出した声に、彼が小さく頷きました。
次の瞬間、風が吹き、花弁が宙を舞います。
その中で、彼が一歩わたしに近づきました。
「手を」
「え?」
「寒いだろう」
ためらう間もなく、彼の大きな掌がわたしの手を包み込みました。
その厚い手のひらから伝わるぬくもり。
ほんの少しの距離で、灰色の瞳と視線が絡みます。
ふいに彼の指先が髪に触れ、風で乱れた一房を直してくれました。
「花びらが、髪に」
「あ……ありがとうございます」
心臓が早鐘を打つように鳴り、頬が熱を帯びます。
今まで幾度も冷たい夜を知ってきたのに、いま感じている温度だけは、どこまでもやさしい。
「……今日の庭は、悪くない」
「ふふ。褒め言葉として、いただいておきます」
軽く笑うと、彼はわずかに目を見張ってから、肩をすくめるようにして視線を逸らしました。
けれどその横顔には確かに笑みがありました。
*
その日の夕暮れ、屋敷の窓から庭を見下ろすと、夕陽に白花が金色に染まっていました。
まるでわたしたちの手紙が積み上げた小さな奇跡のように、光が風に舞っています。
机の上には、また新しい封筒。
そこに、今日の想いを綴りました。
『十通目。
春が訪れました。
この庭は、わたしとあの人の歩んだ季節のようです。
もう、凍てついた心に触れるのが怖くありません。
この人の隣に、ずっといたいと思いました。』
インクが乾く前に、窓を開けて深く息を吸い込みました。
風の中には、花の香りと、どこか懐かしいあたたかさが混じっています。
(――あぁ、やっと、春が来たのね)
庭の花々が、夕陽の中でやさしく揺れていました。
氷の解ける音があちらこちらで聞こえ、雪の下から土が顔を出しています。
冷たい空気に混じって、やわらかい陽の匂いがする朝でした。
その日の空は淡い水色。
屋敷の庭を歩くたび、靴の裏で小さく雪が溶ける音がしました。
目を凝らすと、あの時植えた白花の芽が、いくつも土を押しのけて立ち上がっています。
「……咲いたわ」
思わずしゃがみこみ、ひとつの蕾を指で撫でました。
白く細い花びらが太陽の光を受け、まるで光そのもののように透き通っています。
胸の中で、何かが音を立てて弾けました。
「奥様、ほんとうに咲きましたね!」
ソフィが駆けつけ、顔を輝かせます。
「ええ。みんなの努力のおかげね。……この庭が息を吹き返したのよ」
「旦那様にもぜひご覧いただかないと!」
嬉しそうなソフィの声に、思わず笑って頷きました。
けれどまさか数刻後、本当に彼が現れるとは思いませんでした。
*
昼の柔らかい光の中。
庭の入口に、深緑の外套をまとったアルフォンス様の姿がありました。
灰色の瞳が春の光を映していて、その表情はいつもより穏やかに見えます。
「庭を見たいと言ったら、リオネルがここへ案内した」
「ようこそ、アルフォンス様。この庭、冬を越えて花が咲いたのです」
わたしが差し出した花を、彼はしばらく黙って見つめていました。
そして手を伸ばし、花の茎をそっと掬うように持ち上げます。
「……この庭を“クラリッサの庭”と呼ぼう」
「え……?」
「お前が植え、守り、咲かせた花だ。この庭はお前のものだ」
唐突な言葉に胸が熱くなりました。
彼の表情は相変わらず無愛想でしたが、その声だけが驚くほど穏やかで。
「そんな……でも、わたしは何も――」
「お前が来なければ、この屋敷も領も、今のようにはならなかった。
春が来たのは、お前がここにいたからだ」
その言葉に、どうしても視線を合わせられませんでした。
胸の奥が温かすぎて、呼吸が少し苦しいほどです。
「……ありがとうございます」
かろうじて絞り出した声に、彼が小さく頷きました。
次の瞬間、風が吹き、花弁が宙を舞います。
その中で、彼が一歩わたしに近づきました。
「手を」
「え?」
「寒いだろう」
ためらう間もなく、彼の大きな掌がわたしの手を包み込みました。
その厚い手のひらから伝わるぬくもり。
ほんの少しの距離で、灰色の瞳と視線が絡みます。
ふいに彼の指先が髪に触れ、風で乱れた一房を直してくれました。
「花びらが、髪に」
「あ……ありがとうございます」
心臓が早鐘を打つように鳴り、頬が熱を帯びます。
今まで幾度も冷たい夜を知ってきたのに、いま感じている温度だけは、どこまでもやさしい。
「……今日の庭は、悪くない」
「ふふ。褒め言葉として、いただいておきます」
軽く笑うと、彼はわずかに目を見張ってから、肩をすくめるようにして視線を逸らしました。
けれどその横顔には確かに笑みがありました。
*
その日の夕暮れ、屋敷の窓から庭を見下ろすと、夕陽に白花が金色に染まっていました。
まるでわたしたちの手紙が積み上げた小さな奇跡のように、光が風に舞っています。
机の上には、また新しい封筒。
そこに、今日の想いを綴りました。
『十通目。
春が訪れました。
この庭は、わたしとあの人の歩んだ季節のようです。
もう、凍てついた心に触れるのが怖くありません。
この人の隣に、ずっといたいと思いました。』
インクが乾く前に、窓を開けて深く息を吸い込みました。
風の中には、花の香りと、どこか懐かしいあたたかさが混じっています。
(――あぁ、やっと、春が来たのね)
庭の花々が、夕陽の中でやさしく揺れていました。
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