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第15章 氷が砕ける夜
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あの夜会の騒動のあと、王都のざわめきが少しずつ落ち着いていきました。
けれどわたしの心には、まだ波が残っていました。
彼があのように声をあげたこと、あの場でわたしを守ったこと、それが夢のようで――
何度も思い出すたびに胸が熱くなるのです。
その晩、宿舎の廊下を歩いていると、薄暗い灯がともる部屋の前で足が止まりました。
扉の隙間から見えるのは、ひとり静かに椅子に座るアルフォンス様の背中でした。
窓辺のランプが彼の横顔を淡く照らし、眉間の影を深くしています。
その姿があまりに寂しげで、気づけば扉を叩いていました。
「……クラリッサか」
低い声が返り、わたしは静かに扉を開けました。
部屋には香の薄い煙と、落とした書簡の束。机の上には弟君の肖像が立てかけられています。
「お疲れではありませんか?」
「いや。少し昔を、思い出していた」
その声に、胸の奥がざわめきました。
机の上の写真に視線を向けると、鎧をまとった若い兵士が笑っています。
あの軍服をわたしが修繕したことを思い出し、自然に頷きました。
「……弟君、なのでしょう?」
アルフォンス様はしばらく黙ってから、ゆっくりと頷きました。
「名はユリアン。俺とは正反対の男だった。
誰にでも笑顔を向け、民にも兵にも慕われた。あいつはいつも俺の前を歩いていた」
声は穏やかでしたが、内側に押し殺した痛みが隠れていました。
わたしは静かに席を詰め、そっと彼の隣に座ります。
「戦が始まったとき、俺は司令官として、あいつを最前線に出した。……そして、戻ってこなかった」
言葉が途中で途切れ、拳が震えます。
その震えが伝わるほど近くに座りながら、わたしは息も止めて彼を見つめました。
「俺は人を守る立場でありながら、最も大切な者を守れなかった。それ以来、愛も絆も、信じることに疲れた。
氷の侯爵と呼ばれるほうが、楽だった」
「……アルフォンス様」
その名を呼ぶと、彼の肩がかすかに揺れました。
胸の奥で、張りつめていた氷が軋む音が聞こえた気がしました。
「あなたが氷で覆っていたのは、憎しみではなく、痛みだったのですね」
「痛みなど、誰にも見せても仕方がない」
「いいえ。誰かに見せなければ凍えてしまいます。
わたしで良ければ、その痛みを……半分、分けてください」
気づけば、わたしは彼の手を取っていました。
その手は硬くて冷たかったけれど、微かに震えているのが心地に感じられました。
彼の瞳が、わたしの顔を真っ直ぐに見つめます。
長く、深く――凍った湖がようやくひび割れていくような静かさ。
「……寄り添うと言ったな。王都へ来る前に、お前が」
「はい。愛せなくても、寄り添いたい。あの言葉は、今も変わりません」
「……ふ、不思議な女だ」
小さく漏らされた言葉のあと、彼の指がわたしの手の上に重なりました。
その手が動いて、わたしの髪をそっと撫でます。
「俺のような人間に、どうしてそんなことを」
「あなたは優しい方です。
戦の痛みを覚えている人は、誰よりも人の苦しみに敏いでしょう」
「優しい、か……」
彼の唇がわずかに動き、次の瞬間、指先がわたしの頬に触れました。
冷たい指のはずなのに、心の奥が熱くなります。
「……クラリッサ。お前は、冬を怖れないのか」
「もう怖くありません。だって、あなたがいますから」
その言葉を聞いた彼が、ほんの一瞬だけ笑いました。
深い森の奥で光を見つけたような、あたたかく、かすかな笑み。
「……ありがとう。
お前に会うまで、ずっと冬の中で立ち尽くしていた。
だが今は、ようやく春を信じてみたいと思う」
彼の言葉が終わるより早く、わたしはその胸に抱き寄せられていました。
腕の力強さに、息が止まります。
鼓動が伝わり、互いの心が重なります。
そのまま、彼の低い囁き。
「もう、離さない」
「……はい」
静寂の夜。
外では雪がしんしんと降り続いていましたが、部屋の中に寒さはありませんでした。
ひとつの心が氷を溶かし、ひとつの愛が冬を終わらせたのです。
*
夜更け、灯を落としたあと、机に置いた便箋を開きました。
ゆっくりと書き進めるペンの先が、いつもよりも穏やかに走ります。
『十五通目。
彼は、弟を守れなかった痛みを抱えていました。
けれど今、わたしの隣でその心の氷を溶かしてくれました。
わたしはもう彼の中の冬を恐れません。
むしろ、その冬の中で生まれた優しさを抱きしめたいと思います。』
書き終えた手紙を閉じ、わたしは静かに目を閉じました。
長い夜がようやく明けていく気がしました。
けれどわたしの心には、まだ波が残っていました。
彼があのように声をあげたこと、あの場でわたしを守ったこと、それが夢のようで――
何度も思い出すたびに胸が熱くなるのです。
その晩、宿舎の廊下を歩いていると、薄暗い灯がともる部屋の前で足が止まりました。
扉の隙間から見えるのは、ひとり静かに椅子に座るアルフォンス様の背中でした。
窓辺のランプが彼の横顔を淡く照らし、眉間の影を深くしています。
その姿があまりに寂しげで、気づけば扉を叩いていました。
「……クラリッサか」
低い声が返り、わたしは静かに扉を開けました。
部屋には香の薄い煙と、落とした書簡の束。机の上には弟君の肖像が立てかけられています。
「お疲れではありませんか?」
「いや。少し昔を、思い出していた」
その声に、胸の奥がざわめきました。
机の上の写真に視線を向けると、鎧をまとった若い兵士が笑っています。
あの軍服をわたしが修繕したことを思い出し、自然に頷きました。
「……弟君、なのでしょう?」
アルフォンス様はしばらく黙ってから、ゆっくりと頷きました。
「名はユリアン。俺とは正反対の男だった。
誰にでも笑顔を向け、民にも兵にも慕われた。あいつはいつも俺の前を歩いていた」
声は穏やかでしたが、内側に押し殺した痛みが隠れていました。
わたしは静かに席を詰め、そっと彼の隣に座ります。
「戦が始まったとき、俺は司令官として、あいつを最前線に出した。……そして、戻ってこなかった」
言葉が途中で途切れ、拳が震えます。
その震えが伝わるほど近くに座りながら、わたしは息も止めて彼を見つめました。
「俺は人を守る立場でありながら、最も大切な者を守れなかった。それ以来、愛も絆も、信じることに疲れた。
氷の侯爵と呼ばれるほうが、楽だった」
「……アルフォンス様」
その名を呼ぶと、彼の肩がかすかに揺れました。
胸の奥で、張りつめていた氷が軋む音が聞こえた気がしました。
「あなたが氷で覆っていたのは、憎しみではなく、痛みだったのですね」
「痛みなど、誰にも見せても仕方がない」
「いいえ。誰かに見せなければ凍えてしまいます。
わたしで良ければ、その痛みを……半分、分けてください」
気づけば、わたしは彼の手を取っていました。
その手は硬くて冷たかったけれど、微かに震えているのが心地に感じられました。
彼の瞳が、わたしの顔を真っ直ぐに見つめます。
長く、深く――凍った湖がようやくひび割れていくような静かさ。
「……寄り添うと言ったな。王都へ来る前に、お前が」
「はい。愛せなくても、寄り添いたい。あの言葉は、今も変わりません」
「……ふ、不思議な女だ」
小さく漏らされた言葉のあと、彼の指がわたしの手の上に重なりました。
その手が動いて、わたしの髪をそっと撫でます。
「俺のような人間に、どうしてそんなことを」
「あなたは優しい方です。
戦の痛みを覚えている人は、誰よりも人の苦しみに敏いでしょう」
「優しい、か……」
彼の唇がわずかに動き、次の瞬間、指先がわたしの頬に触れました。
冷たい指のはずなのに、心の奥が熱くなります。
「……クラリッサ。お前は、冬を怖れないのか」
「もう怖くありません。だって、あなたがいますから」
その言葉を聞いた彼が、ほんの一瞬だけ笑いました。
深い森の奥で光を見つけたような、あたたかく、かすかな笑み。
「……ありがとう。
お前に会うまで、ずっと冬の中で立ち尽くしていた。
だが今は、ようやく春を信じてみたいと思う」
彼の言葉が終わるより早く、わたしはその胸に抱き寄せられていました。
腕の力強さに、息が止まります。
鼓動が伝わり、互いの心が重なります。
そのまま、彼の低い囁き。
「もう、離さない」
「……はい」
静寂の夜。
外では雪がしんしんと降り続いていましたが、部屋の中に寒さはありませんでした。
ひとつの心が氷を溶かし、ひとつの愛が冬を終わらせたのです。
*
夜更け、灯を落としたあと、机に置いた便箋を開きました。
ゆっくりと書き進めるペンの先が、いつもよりも穏やかに走ります。
『十五通目。
彼は、弟を守れなかった痛みを抱えていました。
けれど今、わたしの隣でその心の氷を溶かしてくれました。
わたしはもう彼の中の冬を恐れません。
むしろ、その冬の中で生まれた優しさを抱きしめたいと思います。』
書き終えた手紙を閉じ、わたしは静かに目を閉じました。
長い夜がようやく明けていく気がしました。
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