【完結】聖女をやめた妻は、もう一度愛を知るため旅に出る ―光と影の二度目の人生―

朝日みらい

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第2章 聖女の婚姻

 あれから十年が過ぎました。  
 わたし、マリア・モーリントンは十八歳になりました。

 子供のころ“聖女”として祝福を授かってからというもの、教会の学寮で学び、祈りの儀式を行い、各地の孤児院や療養院を巡って多くの人と出会いました。  
 楽しいこともありましたが、同じくらい心が揺れる瞬間もありました。

 聖女とは、奇跡を示す存在――けれど、本当のところ、わたしはただ誰かの泣き顔を放っておけないだけ。  
 それが、国や教会の役に立っているのなら、それでいい。  
 そう思っていました。

 ……でも、そんな日々の先に待っていたのが、この“婚姻”という話だったのです。

「侯爵家リディア家の若き当主、アルフォンス殿は、学識と剣術の両方で王に仕える才人です。どうか悔いなき選択を」

 使者の言葉を聞いたとき、わたしは正直なところ何も理解できませんでした。  
 政略結婚、という言葉がどうしても胸につかえて、喉の奥で重たく残りました。

「マリア、これは国のためでもあるの」  
 お母さまはそうおっしゃいました。  
 その瞳がどこか寂しそうだったのを、今も覚えています。  

 けれど、わたしは頷くしかありませんでした。  
 “聖女”の名は、もうわたしひとりのものではなかったからです。

 * * *

 婚礼の日。  
 リディア侯爵邸の礼拝堂には、白い花が飾られ、人々の祝福の声が響いていました。  
 ヴェール越しに見る世界は、夢の中みたいにぼやけています。

「……マリア・モーリントン殿。あなたはこの婚姻を受け入れますか?」

 祭司の声が聞こえ、わたしは深呼吸をしました。  
 隣には、淡い銀色の髪を持つ青年――アルフォンス・リディア侯爵。

「はい。……受け入れます」

 その瞬間だけ、アルフォンス様の視線とわたしの視線が重なりました。  
 けれど彼の瞳に浮かんだのは、どこか遠くを見るような静かな光で。  
 祝福の鐘が鳴り響いても、その微笑みが“義務のもの”にしか見えなかったのが少しだけ胸に刺さりました。

 * * *

「アルフォンス様、今日のお召し物は王都からの来客に合わせて少し明るい色に……」  
「必要ない。客人が誰であれ、私の印象を変えるつもりはない」

 結婚後、数か月が過ぎても、彼との距離は縮まることがありませんでした。  
 アルフォンス様は常に冷静で、完璧で、どんな時も感情を表に出しません。  
 食卓で話しかけても、必要最低限の返事だけが返ってきます。

(お仕事が忙しいのだとは分かっているんですけど……)

 昼間のリビングには、彼の姿がほとんどありません。  
 代わりに机の上には、政務報告の書類が山のように積まれていました。

「あの……お疲れではありませんか? お茶を――」  
「結構だ。……すぐに出発する」

 いつもそう言って背を向ける後ろ姿に、明確な棘が刺さっているように感じて、言葉が喉で止まります。  
 それでも、嫌われたくない。理解したい。何かできることをしたかったのです。

「では、せめてお弁当をお持ちください。今日は蜂蜜入りのパンを焼いたのです」  
「……好きにしろ」

 短く返ってくるその言葉。  
 冷たくても、どこかその奥に優しい響きを感じたのは、わたしの気のせいだったのでしょうか。

 * * *

 時々、ふとした瞬間に思い出します。  
 バルトさんのあの笑顔を――。

『おまえに、誓うよ』

 あの言葉を聞いた日の夕方の光。  
 今も胸の奥で小さく灯のように揺れています。  
 彼はあれから勇者の血を継ぐ騎士として、遠征任務についていると聞きました。

 ……もし、彼ならどうしているかしら。  
 そんなことを考えてしまう自分が、少しだけいやになります。

「マリア様、客間に例の客人が――」

 扉の向こうから、執事がこわばった声で告げました。  
 振り向くと、ちょうど階段を降りてくるアルフォンス様の姿が。

「客人?」  
 問いかけると、彼は短くうなずいて言いました。

「二十歳の女性だ。事情があって屋敷に滞在させる」

「……女性、ですか?」

 ほんの少し胸がざわめきました。  
 けれど、問い直す勇気は出ません。

 アルフォンス様はそれ以上何も説明せず、執事と共に廊下の奥へ消えていきました。  
 残された空気の冷たさが、その日の天気よりずっと寒く感じられました。

 * * *

 数日後。

 庭園のベンチで刺繍をしていたわたしの耳に、笑い声が届きました。  
 見上げると、中庭のアーチのそばで、アルフォンス様と見知らぬ若い女性が並んで歩いています。

 栗色のふわりとした髪、可憐なドレス。  
 彼女はまるで花の精のようにアルフォンス様に微笑みかけていました。

「……綺麗な方」

 思わずつぶやくと、指先の針が布を突き抜けて、小さく痛みが走りました。  
 けれど、その痛み以上に胸の奥の方が、ずきんと熱くなりました。

 その晩、寝室の机の上に、短い手紙が置かれていました。  
 紙には、整った筆跡でただ一文。

『客人一名と共に帰る。二十歳の女性だ。アルフォンス・リディア』

 その文を見つめたまま、しばらく動けませんでした。  
 インクの香りが――どうしようもなく冷たく感じました。

 * * *

 その夜、ランプの灯りを落とし、鏡の前で笑ってみました。  
 笑う練習をするのは、いつ以来だったでしょう。

「平気。……こんなの、何でもありません」

 けれど、口元だけが震えてしまうのです。  
 涙をこらえるように、両の頬を軽く叩きました。

「だったら、わたしが幸せになってみせるわ」

 鏡の中でそう言い切った自分が、本当に強くなれた気がして。  
 明け方の風がカーテンを揺らす頃、わたしは静かに屋敷を出る支度を始めました。

 机の上に、彼との思い出を置いていきます。  
 最初に贈られた銀のペンダント。結婚初日に交わしたただ一度の笑顔。  
 それらすべてを箱に詰めて屋敷に残しました。

「さようなら、アルフォンス様……」

 小声でつぶやくと、胸の中の何かが静かにほどけた気がしました。  

 空には夜明けの光が滲んでいます。  
 あの日、八歳のわたしの手の中で光った栞のように。  
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