【完結】聖女をやめた妻は、もう一度愛を知るため旅に出る ―光と影の二度目の人生―

朝日みらい

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第3章 手紙と沈黙

 朝の鐘が、いつもより遠くに聞こえました。  
 昨夜ほとんど眠れなかったせいで、まぶたが少し重たいです。  
 部屋の中は、静かでした。祭壇の上の花も少しだけしおれています。

 一晩経っても、胸の奥で何かがざらざら音を立てるようでした。  
 悲しいというより、何かの続きが見えなくなったような、不安に似た感覚。  
 それでも涙はもう、出ませんでした。

「……ここにいても、きっと意味がないですよね」

 思わず独りごちて、机の上の栞を手に取りました。  
 八歳のあの日に作ったもの。少し色はあせたけれど、光はまだ消えていません。

 光を当てると、ほんのりと金の色を放つ。  
 その優しい明るさが、心に問いかけてくるようでした。

(マリア、あなたはどうしたいの?)

 答えはひとつ。  
 今日、この屋敷を出よう。  

 聖女でも妻でもない、ただの「わたし」として、生きてみよう。  
 そう決めました。

 * * *

 荷物は少しだけ。  
 着替えと小箱に入れた栞、そしてお母さまが幼いころ編んでくれたストール。  
 ソフィアさんに気づかれぬようこっそり玄関を抜け出すと、朝の冷たい空気が頬をなでました。

 門を出たところで、ふと後ろを振り返ります。  
 夜明け前の淡い光の中、リディア侯爵邸の尖塔が影のように静まり返っていました。  
 窓のどこにも明かりは灯っていません。

「……さようなら」

 風に乗せて呟いた声はすぐに消えてしまって、ただ雲が淡く流れていきました。  

 * * *

 最初に向かったのは、王都の外れにある修道院でした。  
 馬車の中でぼんやり外を眺めながら、ふいに昔のことを思い出しました。  

 八歳のころ。あの光。  
 バルトが「護る」と言ってくれた声。  
 ――あの約束は、ひとりになった今でも守られているような気がしてならないのです。  

 修道院の扉を叩くと、中から静かな声がしました。

「はい、どなたでしょう」

 扉を開けたのは、年配の修道女です。穏やかな瞳が印象的な方でした。  
 彼女の名はエレナ修道女。この修道院を束ねる方だと後で知りました。

「お許しください……。お手伝いでも祈りでも、できることがあれば働かせてください」  
「あなたは……どこかで見た気がしますね。お名前を伺っても?」

「マリア・モーリントンと申します」

 エレナ修道女は少しだけ目を見開きましたが、すぐに柔らかく微笑みました。

「まあ。“光の聖女”様まで働きに来てくださるとは。お好きなだけ祈りと静けさを分かち合いなさい」

 その声が、心に沁みました。  
 誰にも見られずに泣ける場所。それがどれほど恋しかったか、ようやく思い出したのです。

 * * *

 修道院での生活は、思ったより穏やかでした。

 朝早く鐘が鳴り、祈りの時間が始まり、食堂でパンとスープを分け合う。  
 人々と共に掃き、洗い、繕う日々。  
 聖女として特別扱いされることもなく、誰かの名前を知らなくても、微笑みを交わすだけで十分でした。

「マリア、あなたの手はとても温かいですね」  
 孤児院の子どもが笑ってそんなことを言うたび、胸の奥がじんわりと温まりました。  

(わたし、まだ笑えるんだ)

 そう気づいた瞬間、夕陽の光が赤く頬を染めていくのを感じました。  
 少し寂しいけれど、どこか救われるような気もしました。

 * * *

 そんなある日のことです。  
 市場へ出た帰り道、行き交う人々のざわめきの中で、わたしの耳に不思議な言葉が届きました。

「見たか? 修道院に“光の聖女”がいるんだってよ!」  
「孤児を抱き上げると、傷がたちまち治るんだとよ。奇跡だ!」

「そ、そんな大げさな……」

 わたしは苦笑しながら手にしていた籠を抱え直しました。  
 確かに最近、誰かの手を取ると、ほんのり温かい光がこぼれるようになっていました。  
 でも、あれはきっと、気持ちの光。昔より心が静かだから。そう信じたかったのです。

「マリア」

 名前を呼ぶ声に振り返ると、エレナ修道女が立っていました。  
 白いヴェール越しに、彼女は何かを見透かしたようなまなざしをしています。

「あなたの奇跡のこと、教会が嗅ぎつけたようですよ。……しばらくは慎みなさい」  
「教会が?」

「はい。あの人たちは光を愛するが、同時に“利用”もする。あなたはまだ若いのだから、火の粉をかぶる必要はありません」

 その穏やかな声音の裏に、かすかに緊張が混じっているのを感じました。  
 胸がざわめきます。  
 聖女としてのわたしを、また誰かが呼び戻そうとしているのです。

 * * *

 その夜。  
 窓の外に光る星を眺めていると、遠くから風に混じって蹄の音が聞こえました。  
 夜更けに訪ねてくる客など滅多にいません。  

 修道女たちが慌ただしく行き交う中、エレナ修道女がわたしの部屋をそっと開けました。

「マリア。あなたに客人です」

「こんな時間に……?」

 廊下を歩き修道院の門まで降りると、そこには長旅の砂を浴びた騎士が立っていました。  
 月明かりに照らされた顔――その笑顔を見た瞬間、息が止まりました。

「……バルトさん?」

「久しぶりだな、マリア」

 十年の時を経て、彼はあの頃と同じ優しい瞳でわたしを見ていました。  
 少しだけ、強くなった背中。  
 その姿が、懐かしすぎて、胸の奥がきゅうっと鳴りました。

「どうして、ここに……?」  
「言いたいことは山ほどある。でもまずは休ませてくれ。……道中、教会の連中が追ってきていたんだ」

「追って……?」

「おまえを聖女として捕らえようとしてる。光の栞の力を、再び国のために使うつもりらしい」

 その言葉に、心臓が跳ねました。  
 やはり、穏やかな日々は長く続かなかったのです。

「もう逃げられないぞ、マリア。けど、もう一度俺を信じてくれ。……今度は、おまえを絶対に離さない」

 夜風の中で、彼の手がそっとわたしの肩に触れました。  
 あのときと同じ温もり。けれど今度は、少しだけ頼もしさが増していました。

「バルトさん……」

 頬を伝う風がやさしかった。  
 遠い日々の約束が、音もなく心の中でほどけていきます。  
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