【完結】聖女をやめた妻は、もう一度愛を知るため旅に出る ―光と影の二度目の人生―

朝日みらい

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終章 風の丘で

第7章 風の丘で


 春を告げる柔らかな風が、丘の上を吹き抜けていきました。  
 白い花が咲き誇り、小道には野の香りが漂っています。  

 この場所――かつて戦と陰謀の渦中だった王都から、馬で一日離れた丘の上に、わたしたちの家があります。  
 木立の間に立つ小さな家。煙突からゆらゆら煙がのぼるたびに、今日も平和を実感するのです。

「マリアさまー! 焼き立てのパン、できましたー!」

 庭先から元気な子どもの声がして、わたしは微笑みながら戸口を開きました。  
 孤児院から預かった子たちが、今ではすっかり家の一員のように暮らしています。  
 麦粉の香りの中で、笑い声が弾けました。

「まあ、今日は見事にこげていませんね」  
「こないだはマリアさまが話しかけたから焦がしたんですよ!」  
「ふふっ、それは言い訳というものですよ」

 素朴なやりとりが心地よくて、思わず笑ってしまいました。  
 こんな穏やかな日々を、昔の自分は想像できたでしょうか。  

 台所の窓から差し込む光に、古びた木の栞がきらりと輝いています。  
 あの日からずっと、わたしのそばにある小さな奇跡。  
 今はただの飾りでいい。けれど、それを見るたびに、あの時の誓いを思い出すのです。  

「おーい、マリア」

 庭の奥から、やや低い声が聞こえました。  
 黒髪に少し白いものが混じりはじめたアルフォンス様が、畑仕事用のシャツの袖をまくりながらこちらへ歩いてきます。

 相変わらず無口な人だけれど、今のその瞳にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいます。  
 わたしが布巾で手を拭きながら近づくと、彼は鍬を置き、少し照れくさそうに言いました。

「パンの匂いがした。朝食の前に少し味見をしたいところだが……子どもたちの取り分が先か?」

「もちろん。あなたは後です」  
「だろうな」

 わざとらしく肩をすくめる仕草に笑い声がこぼれます。  
 そんなささやかなやりとりが、今では何よりの幸せです。

「体調はもう本当に良いんですか?」  
「心配性だな。もう平気だ。マリアがそばにいる限り、倒れるわけがない」

 からかい混じりに言われて、ほんのり頬が熱くなりました。

「相変わらず口が上手ですね」  
「いや、事実を述べただけだ」

 ふと、彼が視線を遠くに向けました。  
 丘の向こうに、昔二人が祈りを捧げた古い教会の尖塔が見えます。

「……あれからずいぶん経ったな」  
「はい。でも、あの日の光のおかげで今があるんです。そして今の光も、あなたとわたしで作ってきたものです」  

 彼は静かに笑い、そっとわたしの肩を引き寄せました。  
 春の風の中、穏やかな体温が隣にあります。  
 胸の奥が、過去の涙をすべて温めてくれるようでした。

「今ならわかるよ、マリア。俺たちはあの時、本当に必要なものを探していたんだな」

「……愛、ですか?」  

「そうだ。誰かのための役目でも、国のための務めでもない、自分たちの生きる意味としての愛を」

 風が草を流し、二人の髪を揺らしました。  
 空はどこまでも青く、鳥たちの声が遠くまで響いています。  
 丘の上から見下ろすと、小さな村と川が光を受けて輝いていました。

「アルフォンス様」  
「ん?」  
「ありがとうございます。あの時、離れても……あなたがわたしを信じてくれたから、ここまで来られたんです」

「俺の方こそ感謝している。おまえが帰ってきてくれたあの日を、何度夢に見たことか」

 一瞬、彼の声が震えました。  
 その手がゆっくりとわたしの頬に触れ、髪を撫でます。  
 やさしく、時をなぞるような仕草でした。

「わたしたち、もう大丈夫ですよね」

「ああ。もう、何も怖くない」

 わたしは目を閉じ、静かに頷きました。  
 頬に触れる風が心地よく、世界がひとつになったように感じます。  

 その時、子どもたちの笑う声が丘の下から届きました。  
 アルフォンス様と目を合わせ、思わず二人して笑ってしまいます。

「パンが焼けたようです。拾いに行きましょうか」  
「そうだな。――争いより、焼き立てのパンの方がずっと平和だ」

「ええ、本当に」

 わたしたちは手を取り合い、家の方へ歩き出しました。  
 白い花びらが風に乗って舞い、陽の光が二人の影を重ねます。  

 あの日の聖なる光はもう目に見えないけれど、心の中には確かに息づいているのです。  
 それはきっと、誰かを愛し、共に生きることの証。  

 この丘に吹く風が続く限り、  
 わたしたちの祈りも、優しい光として世界を照らし続けるでしょう。

 ――そして今日もまた、新しい一日が始まります。
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