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◀︎◀︎ある一つの始まり
しおりを挟む玄関ドアの前に立った時から嫌な予感がした。
回れ右して、普段は使わずに社用車に積んだままにしていたスリッパとマスクを取りに行く。
賃貸管理会社に勤めて数年ではあるが、今までの経験が警鐘を鳴らしている。できれば今すぐに帰りたいが、それができないのが社会人だ。
もう一度ドアの前に立ち、インターホンを押す。
ドアから出てきた人物を見て、自分の考えが間違えていなかったことを悟り、同時に自分の運の悪さを呪った。
借主である五十代の男性。見た目に全く気を遣っておらず、実年齢よりだいぶ老けて見える。雑に切られた髪。黄ばんでシミや穴だらけの半袖Tシャツに、青なのか緑なのかわからない薄汚れたスウェットパンツ。目がギョロリと大きく開かれているのに、こちらと目が合わない。借主は風呂に入っていないのか、酸っぱい臭いがした。
「どうぞ」
離れているのに、もわりと漂ってきた借主の口臭に息を止める。臭いから逃げるように、俺は一礼した。
「失礼します」
スリッパを履いて、部屋の中へと入る。
この物件の他の部屋を何回か確認しているが、壁紙は白い筈。それなのに、茶色だったり、黄色だったりと斑らに汚く染まっていて、所々引っ掻き傷や破れがあった。
「にゃー」
猫の声が聞こえてそちらを見ると、床に置かれていたペット用のキャリーバッグが動く。
猫は狭いところに押し込められていることが不服なのか、爪で必死にバッグを引っ掻いているようだ。
「うるさい!!」
急にキレた借主の大きな声に、俺はビクリとする。借主は「すみません」と俺に対して感じよく謝ったが、猫に対しては何度も怒鳴っていた。
(こ、怖えぇっっ!! 情緒どうなってんだよ!? 猫が好きで飼ってるんじゃねえの!?)
ドン引きしながらも、仕事をしなければと足を踏み出す。その決意を挫くように、廊下にベタつく液体が溢されていて、スリッパにくっついた。
まだ三歩も進んでいないのに、一刻も早く帰りたくて仕方がない。
壁には殴ったような穴が複数箇所空き、畳も何か溢したような液体のシミで所々汚くなっている。
浴室やトイレの色も汚い池のような緑色で、キッチンは真っ黒な油汚れに染まっている上に、育ててんのかよと思うくらいピンクや黒いカビが繁殖していた。
(どう生活したらこうなるんだよ……。原状回復って言葉知ってる?? こんな部屋にいたら、変な病気もらいそうだよな)
まごうことなき、ザ・汚部屋。
部屋に充満した強烈な異臭に何度も吐きそうになりながら、確認作業を進めていく。窓を全開にして臭いを軽減しようとした時、ベランダに湧いている夥しい量の虫が見えて、心の中で『もうヤダよ』と泣いた。
「退去費用については、後日、大家様と業者の方と確認してから連絡します」
なんとか社会人としての礼節を絞り出して伝える。借主は「わかりました」と頷き、猫が入ったキャリーバッグを手に持って、玄関へ向かった。
借主は自分の車で引っ越すらしい。後部座席に荷物を詰めた小さな乗用車に乗って、借主は去っていった。
見送った後、解放された俺は思う存分に嫌な顔をした。
(これじゃあ、トラブルになるのは当たり前か)
借主に対して、他の入居者や近隣住民からも苦情が複数件入っていた。
深夜に徘徊する足音、絶叫。何かが腐ったような異臭。さらにはペット不可なのに猫を飼っており、鳴き声が非常にうるさいと。しかも、その猫を外へ放すこともあり、近所の庭やゴミが頻繁に荒らされていたらしい。
契約違反であることを電話で伝えると、借主は意外にも素直に退去に応じてくれた。電話した時はそこまで悪い人には思えなかったが、この現状や姿を見れば納得する。
(ペットを飼っていたとしても、こんな異様な臭いにはならないと思うが。……なんだか、一度も掃除していなそうだな。うちもだが、次の管理会社や大家さんには同情する)
借主に書いてもらった書類を確認すれば、次の引っ越し先は〇〇市△△区のようだ。
田舎ではあるが治安が良く、駅やバスも近くにあるので利便性も悪くない。大学があるため、学生が多く住み、家賃が安い物件も多い。
借主は生活保護を受けていて家賃扶助があるから、問題なく生活できるだろう。
(でも、夜中に騒ぐ学生も多いだろうからな。急にブチギレて、学生達に危害を加えなければいいが……。まあ、俺には関係ないか)
心底嫌だが、もう少しだけ仕事が残っていた。
社用車のトランクを開けて、脚立を取り出す。もう一度部屋に戻った後、ブレーカーを落として部屋の鍵を全て閉めていく。
この状態だと、業者が修繕や清掃に入ったとしても、貸し出せるようになるまで時間がかかるだろう。
表面上は綺麗にしたとしても、部屋に満ちるこの陰湿な雰囲気が消えてくれるだろうか。
(大家さんも修繕費を出し渋っているからな。ただでさえ借り手も減っているし。こんな駅もバス停も遠い場所、次の借り手が来てくれるか……)
仕事を終わらせてアパートを出る。
鍵をかけた後にゾクリと嫌な気配がして、俺はすぐにドアノブから手を離した。
人を求めて引き摺り込むような、どんよりとした暗い何かがあった。
腕に立った鳥肌を擦って落ち着かせながら、俺は逃げるようにその部屋を後にした。
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