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終章 シャロン・ホームズの助手 Ⅳ
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飛行船での死闘から三週間が経過した。
飛行船の爆発と同時に、ロンドン中を暴れ回っていた人造人間は機能を停止、もしくはろくに動かなくなり、ロンドンは陥落の危機を免れた。
しかしわずか数時間で絶大な被害をもたらしたこの騒動は、ロンドン市民の心に深く刻まれた。
人造人間については某国のテロと報道され、影響の大きさを鑑みて、切り裂きジャックの名は闇に葬られることになった。事件の真相を知っている人間は、警察と軍、そして政府関係者の一部だけである。
あまりに人造人間による暴動という、あまりにも大きな事件が起きたことで、今や市井で切り裂きジャックについて噂する者はほとんどいなくなってしまった。
人類史に自分の名を刻むのだと息まいていた切り裂きジャックだったが、皮肉な事に彼の起こした事件の大きさ故にその名が広まることはなく、切り裂きジャックは世紀の大悪党ではなく、神出鬼没の不気味な殺人鬼として人々の記憶の片隅にひっそりと残るのみである。
一年としない内にほとんどの人間の中で切り裂きジャックは過去の記憶と成り果て、思い出す者もいなくなるだろう。
自分も同じようにあの日の事を風化させ、忘れていくのだろうか──とワトソンはエミリーの名前が綴られた墓石を眺めながらそう思った。
ロンドン郊外にある墓地へ、ワトソンとホームズは墓参りに来ていた。
飛行船は爆発に巻き込まれてエミリーは遺体さえ見つけることが出来なかった。今は形だけの空の墓が、エミリーという人間が存在した証である。
「……そろそろ行こうか」
光のない目で墓石を見続けるワトソンを見かねて、ホームズが声をかけた。
ひんやりとした風がホームズの艶やかな髪を揺らし、ほんのりと空に鈍色の雲が広がっている。一雨来そうな空模様だ。
「君も私も本調子じゃないんだ、風邪をひいてはつまらない」
「そうだな……」
ワトソンはよたよたと踵を返す。あの日義足は大破したので、今は新しい義足ができるまでスペアの汎用義足を使用している。ワトソンに合わせて調整されていないので、歩く動きがおぼつかないのだ。そうでなくても全身打撲、裂傷、肋骨の骨折等もあって、未だワトソンは結構な怪我人だ。
ホームズも左腕を三角巾で吊っており、右脚の負傷を庇う為に松葉杖をついている始末である。
合わない義足と松葉杖の怪我人二人はゆっくりと墓地を後にした。
「……僕らがやった事ってなんだったんだろうな」
ポツリとワトソンが言った。
「切り裂きジャックは倒せたけど、それで傷付いた人々や亡くなった人間が帰ってくるわけじゃない。だったら僕らがした事って何なんだろう」
「……無駄ではなかったはずだよ」
ホームズは少し考えて答えた。
「ワトソン君は取り零したものにばかり目を向けている。だが、切り裂きジャックを取り逃がしていたら、奴はこの悲劇を世界中で何度も引き起こしただろう。第二、第三のロンドンが生まれ、何人ものエミリーのような子を生んだはずだ──君はそれを食い止めた。無駄なんかじゃないよ」
「……なんか、そう自分に言い聞かせているような感じがするな」
「その通りだよ。そういう風に言い聞かせてなきゃ、探偵なんてやってられない」
「そんな風にホームズも思うんだな」
ホームズにしては珍しい弱音が、ワトソンには意外だった。
「私だって人間だ、たまに弱音くらい吐くさ。こういう弱音はため込むと重荷になる、小出しにするくらいが丁度いい」
それを聞いてワトソンも弱音を吐き出し易くなった。
遠くを眺めながらワトソンは口を開く。
「……もし僕と親しくなかったら、彼女は死なずに済んだのかな……」
もしワトソンとエミリーが出会っていなかったら──
もしワトソンが切り裂きジャックを罵倒していなかったら──
エミリーは今も生きて、看護婦になるという自分の夢を追いかけていたのだろうか。
「その可能性は否定し切れない。でも君と出会わなければ良かったと彼女は思っていない──そう私は思うよ」
「それは名探偵としての推理か?」
「こんなの推理でも何でもない。女の勘──というかただの乙女心だよ」
「……よく分からないな」
ワトソンは気まずそうにポリポリと頬を掻く。
正直、自分の何が良かったのか、ワトソンには分からなかった。特別なことなど、ワトソンは何もしてあげられなかったというのに。
「分からないといえば、結局切り裂きジャックもよく分からない奴だったな。あんなに他人に関心がないというか、他人を自分の都合で使い捨てることに躊躇しない人間がいるなんて思いもしなかった」
「たまにいるんだ。自分を中心に世界が周っていると信じている、自分をこの世界の主人公だと疑わず、自分以外の人間は自分の役に立つかどうかでしか見ていない、そんな奴が……後は何者であるかを煽りたてる今の社会的な風潮かな」
「何者であるかを煽りたてる風潮?」
「蒸気革命以降、科学技術の発展と共に社会の在り方も変容した。資本主義の台頭は、人々を立身出世へと煽り立てている」
もっと優れた者にならなければならない。
生まれたからには歴史に名を残す、偉業を成し遂げなければならない。
そう煽り立てる何かが、今の社会にはある。
「思えば切り裂きジャックは、自分が優れた人間であると殊更誇示していたところがあるし……今の社会の暗部が極端に出たのが、切り裂きジャックという存在なのかもしれないね」
「ふうん……」
やっぱりワトソンにはよく分からなかった。
何者かでなくてはならない──本当にそうだろうか。
例えばもし物語を書くとして、多分ホームズは主人公になるだろう。そしてワトソンはホームズを引き立てる脇役だ。
しかしそれの何が悪いのだろう。
主人公だろうがなかろうが、自分らしく生きて、誰かの役に立っているのなら、それでいいとワトソンは思う。
誰かを踏み台にし、犠牲にしてまで何者かになろうとは思わない。
主役になんてならなくていい。
自分はシャロン・ホームズの助手でいい──ワトソンはそう思った。
飛行船の爆発と同時に、ロンドン中を暴れ回っていた人造人間は機能を停止、もしくはろくに動かなくなり、ロンドンは陥落の危機を免れた。
しかしわずか数時間で絶大な被害をもたらしたこの騒動は、ロンドン市民の心に深く刻まれた。
人造人間については某国のテロと報道され、影響の大きさを鑑みて、切り裂きジャックの名は闇に葬られることになった。事件の真相を知っている人間は、警察と軍、そして政府関係者の一部だけである。
あまりに人造人間による暴動という、あまりにも大きな事件が起きたことで、今や市井で切り裂きジャックについて噂する者はほとんどいなくなってしまった。
人類史に自分の名を刻むのだと息まいていた切り裂きジャックだったが、皮肉な事に彼の起こした事件の大きさ故にその名が広まることはなく、切り裂きジャックは世紀の大悪党ではなく、神出鬼没の不気味な殺人鬼として人々の記憶の片隅にひっそりと残るのみである。
一年としない内にほとんどの人間の中で切り裂きジャックは過去の記憶と成り果て、思い出す者もいなくなるだろう。
自分も同じようにあの日の事を風化させ、忘れていくのだろうか──とワトソンはエミリーの名前が綴られた墓石を眺めながらそう思った。
ロンドン郊外にある墓地へ、ワトソンとホームズは墓参りに来ていた。
飛行船は爆発に巻き込まれてエミリーは遺体さえ見つけることが出来なかった。今は形だけの空の墓が、エミリーという人間が存在した証である。
「……そろそろ行こうか」
光のない目で墓石を見続けるワトソンを見かねて、ホームズが声をかけた。
ひんやりとした風がホームズの艶やかな髪を揺らし、ほんのりと空に鈍色の雲が広がっている。一雨来そうな空模様だ。
「君も私も本調子じゃないんだ、風邪をひいてはつまらない」
「そうだな……」
ワトソンはよたよたと踵を返す。あの日義足は大破したので、今は新しい義足ができるまでスペアの汎用義足を使用している。ワトソンに合わせて調整されていないので、歩く動きがおぼつかないのだ。そうでなくても全身打撲、裂傷、肋骨の骨折等もあって、未だワトソンは結構な怪我人だ。
ホームズも左腕を三角巾で吊っており、右脚の負傷を庇う為に松葉杖をついている始末である。
合わない義足と松葉杖の怪我人二人はゆっくりと墓地を後にした。
「……僕らがやった事ってなんだったんだろうな」
ポツリとワトソンが言った。
「切り裂きジャックは倒せたけど、それで傷付いた人々や亡くなった人間が帰ってくるわけじゃない。だったら僕らがした事って何なんだろう」
「……無駄ではなかったはずだよ」
ホームズは少し考えて答えた。
「ワトソン君は取り零したものにばかり目を向けている。だが、切り裂きジャックを取り逃がしていたら、奴はこの悲劇を世界中で何度も引き起こしただろう。第二、第三のロンドンが生まれ、何人ものエミリーのような子を生んだはずだ──君はそれを食い止めた。無駄なんかじゃないよ」
「……なんか、そう自分に言い聞かせているような感じがするな」
「その通りだよ。そういう風に言い聞かせてなきゃ、探偵なんてやってられない」
「そんな風にホームズも思うんだな」
ホームズにしては珍しい弱音が、ワトソンには意外だった。
「私だって人間だ、たまに弱音くらい吐くさ。こういう弱音はため込むと重荷になる、小出しにするくらいが丁度いい」
それを聞いてワトソンも弱音を吐き出し易くなった。
遠くを眺めながらワトソンは口を開く。
「……もし僕と親しくなかったら、彼女は死なずに済んだのかな……」
もしワトソンとエミリーが出会っていなかったら──
もしワトソンが切り裂きジャックを罵倒していなかったら──
エミリーは今も生きて、看護婦になるという自分の夢を追いかけていたのだろうか。
「その可能性は否定し切れない。でも君と出会わなければ良かったと彼女は思っていない──そう私は思うよ」
「それは名探偵としての推理か?」
「こんなの推理でも何でもない。女の勘──というかただの乙女心だよ」
「……よく分からないな」
ワトソンは気まずそうにポリポリと頬を掻く。
正直、自分の何が良かったのか、ワトソンには分からなかった。特別なことなど、ワトソンは何もしてあげられなかったというのに。
「分からないといえば、結局切り裂きジャックもよく分からない奴だったな。あんなに他人に関心がないというか、他人を自分の都合で使い捨てることに躊躇しない人間がいるなんて思いもしなかった」
「たまにいるんだ。自分を中心に世界が周っていると信じている、自分をこの世界の主人公だと疑わず、自分以外の人間は自分の役に立つかどうかでしか見ていない、そんな奴が……後は何者であるかを煽りたてる今の社会的な風潮かな」
「何者であるかを煽りたてる風潮?」
「蒸気革命以降、科学技術の発展と共に社会の在り方も変容した。資本主義の台頭は、人々を立身出世へと煽り立てている」
もっと優れた者にならなければならない。
生まれたからには歴史に名を残す、偉業を成し遂げなければならない。
そう煽り立てる何かが、今の社会にはある。
「思えば切り裂きジャックは、自分が優れた人間であると殊更誇示していたところがあるし……今の社会の暗部が極端に出たのが、切り裂きジャックという存在なのかもしれないね」
「ふうん……」
やっぱりワトソンにはよく分からなかった。
何者かでなくてはならない──本当にそうだろうか。
例えばもし物語を書くとして、多分ホームズは主人公になるだろう。そしてワトソンはホームズを引き立てる脇役だ。
しかしそれの何が悪いのだろう。
主人公だろうがなかろうが、自分らしく生きて、誰かの役に立っているのなら、それでいいとワトソンは思う。
誰かを踏み台にし、犠牲にしてまで何者かになろうとは思わない。
主役になんてならなくていい。
自分はシャロン・ホームズの助手でいい──ワトソンはそう思った。
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