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chapter 2
リフレイン(1)
しおりを挟むアルバイトへ行く支度を済ませ、自宅を出る前にトイレへ行く。
……あー、今月も来ちゃったかぁ。
溜め息をつきながらトイレから出ると夫と目が合った。
「どうしたの?」
「あー、うん、……また、駄目だった」
「そっか、まぁ焦らず行こう。もう出られる?」
「……うん」
バイト先のあの店まで行きは一人で電車に乗って行く事が多いが、今日は出る時間が同じくらいだったので夫が車で送ってくれる事になっていた。……なのにこんなタイミングで、さすがにちょっと気まずいなぁ。
焦らず行こう、夫はそう言ってくれるけど、私より一回り年上の夫にしてみれば焦りが無いわけがない、と思う。けれどそれさえも聞けない。だから夫が優しければ優しい程、私は正直辛くなる。そしてそう思ってしまう事も私は夫に言えないでいた。
そういう気持ちのすれ違いみたいなのがいろいろ邪魔しているのかなぁ……。
火曜日の21時過ぎ。
店内にはザ・バンドのアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』が流れている。
テーブル席はマスターの昔からの友達が団体で来ていてほぼ埋まっていた。マスターも彼らが来店してからずっと座って話込んでいるのでまったく仕事をしてくれない。カウンター席は今のところ無人なので別にいいけど。
一息つこうと久しぶりの煙草に火を付けるとちょうど扉が開きお客さんが来た。……今日は何かとタイミングが悪いな。
「あ、こんばんは」
「……いらっしゃい」
杉浦くんだった。急遽弾き語りをしてくれたあの日以来、約一ヶ月ぶりかな。
「久しぶりだね」
何故だろう、妙に緊張してしまう。
「ちょっとこの一ヶ月くらいずっと忙しくて、やっと余裕出てきました。理香子さん煙草吸うんですね」
「うん、時々ね」
「あーいいですよ、気にしないで吸ってください。……今日は樋口さんいないんですね」
ボーカリストの前で煙草はマズイかなと思い火を付けたばかりの煙草を消そうとしたら慌てて止められた。気を使わせてしまった。お言葉に甘えて一本だけ吸わせてもらう。
「うん、今日樋口くんはお休み」
そうか、いつも賑やかな樋口くんがいないから空気が違って妙な緊張感があるんだな。
「そうなんだ。狙って来てるわけでもないのにいつもいる人がいないとなんか調子狂いますね」
彼も同じような事を思っていたらしい。
「じゃあ今日カウンターは理香子さん一人ですか?」
テーブル席にいるマスターと目が合う。いつもより私をみる目が険しい。マスターは私がこうして時々煙草を吸う理由を知っている。
「今日はマスターとマスターの奥さん、あ、ビールで良かった?」
灰皿に吸いかけの煙草を置いてビールを注ぐ。
「はい、……え、マスターって結婚してたんですか?」
「うん、自由人だから独身っぽいよね、よく言われてる」
マスターが結婚している事を初めて知った人はたいていみんな同じ反応をしてくれる。
「奥さんも同い年で学生結婚だって。お子さんも二人いるけど、二人とももう成人してる」
「マジですか?……見えない。え、じゃオレと対して歳変わらない子供がいるって事?」
「そうだね」
マスターの隣に座っている奥さんがこっちを見て私と目が合うとニコッと笑ってくれた。マスターと違って奥さんは友達や馴染みのお客さんと話し込んでもこうやって店内の様子を確認してくれていて、他のテーブル席からオーダーが入りそうになると必ず気付いて対応してくれる。私の夫の希望通り、私がカウンターから出なくて良いように。
「素敵なご夫婦でね、私の命の恩人」
「え……」
「私ね、大学卒業して就職した会社、一年で辞めたの、心と体壊して。それを救ってくれたのが主人とあの二人」
「……そうなんですか」
「うん。食事も取れなくなって、食べても全部吐いちゃってて、でも何でかわかんないんだけど、マスターのあのカレーだけは食べられた」
夫とはまだ付き合う前だったあの当時、夫は私がマスターのカレーだけは食べられた理由を『あのカレーは愛で出来てるからだよ』と言っていたな。それが会社を辞めて自らも夢だった飲食店を経営するきっかけになったと。
「それから仕事辞めてだんだん良くなって、今はもう全然大丈夫だけどね」
それにしても、やっぱり彼と話していると昔の事ばかり思い出してしまう。あの頃私はリナに連絡していなくて、リナからもあまり連絡が無かったから何も言わなかった。後から全てを知ったリナが泣きながら『何も出来なくてごめん』と言っていた。
まさか、それが今更逆の立場になるなんて。
「あ、何かごめんね。急に昔の暗い話しちゃって」
ふと杉浦くんを見ると何を言っていいのかわからず困惑している様子だったので慌ててフォローを入れる。
「……いえ、あの、理香子さん、何かありました?」
「え、なんで?」
「煙草吸ってんのも、そういう話するのも、何か嫌な事でもあったのかなぁって、いつもより元気ない気がするし、あ、余計なお世話ですね」
意外と、と言っては失礼かもしれないが良く見ているな、良く気が回るというか。
「うん、まぁそうだね、ちょっと、あったかなぁ」
自宅を出る直前の出来事を思い出す。
「理香子さんてそういうの溜め込みそうですよね。たまにはちゃんと吐き出した方がいいですよ、しんどくなる前に、誰かに。あ、オレでももちろん良いですけど、……理香子さんが楽になるなら幾らでも受け止めます」
見た目からは想像できない程に優しい子だな。
特別な意味は無いんだろうけど、弱ってる時に言われると勘違いしそうになる。
「……ありがとう、でも大丈夫。それにしても、そう言う事サラッと言えちゃうの、やっぱり歌詞書いたりMCとかで慣れてるからかな、……あ、ダメって事じゃ無いよ、むしろ思った事ちゃんと言葉に出来て相手に伝えられるの、すごいなぁって」
「……オレ、本当に大切にしたかった人に、何一つ大事な事言えなかったんです。サヨナラもちゃんと言えなくて、後悔っていうのとはまた違う気がするんですけど、実際あの時はもうどうしようも無かったし、けどやっぱりしばらくはその人の事が消せないままで……」
何でだろう、胸がザワっとする。
「だからもうそんな思いしないように、ちゃんと伝えようって、思ってるだけじゃ相手には伝わらないし、それに、相手が何を思ってるかも、いくら考えたって本当のところはちゃんと聞かなきゃわかんないし」
そう言ってグラスに残っていたビールを飲み干す。
その通りだな。そうやって私も大切な人を失って来た。
「おかわりいる?」
「お願いします」
新しいビールグラスにビールを注ぐ。
「……じゃあ、一つだけ、吐き出していい?」
「どうぞ」
「友達がね、いなくなっちゃったの。“大丈夫だから、心配しないで”なんてメッセージだけ寄越して、それから音信不通。もう半年近くになる」
「そうなんですか、それは心配ですね。家族の人とか連絡取れないんですか?」
「旦那が浮気したの。それで離婚したから今は多分一人。実家はお母さんとの関係が昔から良くないらしいから帰る事は無いと思う。もし帰ってたとしても、大学からの付き合いだからあの子の地元はわかんないな」
私以外の友達は少ないし、もちろん思い付く人全員にそれとなく聞いてはみたけど、誰もリナの現状について知る人はいなかった。
「それに、いなくなった事は当然ショックなんだけど、リナは、その子は私にだけは頼ってくれると思ってたから、それも結構ショックでね」
「あー、何となくわかります、その気持ち」
「でも、私はあの子が一番辛い時に何もしてあげられなくて、側にも居てあげられなかったんだから仕方ないのかなって、だから、本当にもっとはやく気付いて、いっぱい話をすれば良かったって、杉浦くんの話を聞いて思った……。あー、さっきから重い話ばっかしてるな、ごめんね」
「……いえ、全然。オレこそ偉そうに言っといて、何の役にも立たなくてすみません」
「ううん、やっぱり溜め込んでるもの吐き出すの大事だね、久しぶりに人に聞いてもらったら解決はしなくてもちょっと軽くなった気はするよ。ありがとう」
「……ならいいですけど」
もう一つの私の悩み事をまだ若い彼に言うと本気で返答に困るだろうな。そんな姿もちょっと見てみたい気もするけど。
「そういえばここのところ忙しくて来れなかったのって、前に言ってたまだ内緒のが関係してるの?」
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