36 / 36
第2章 艶のある影を踏んで
1-6 梓乃視点
しおりを挟む
今月も後およそ一週間を残すところ、四週目の月曜日の早朝は出鼻を挫くように空には分厚い雲が掛かっていた。予報によると、午後には本格的な雨が降り出すので、お出かけの際は傘を持っていくといいらしい。
私は念の為折り畳み傘を鞄に入れ、いまいち表情の硬い使用人──私も人の事は言えないけど──に玄関まで見送られながら、屋敷を出た。門前には一台の車が待機していて、私が歩み寄ると、後部座席のドアが開いたので、頭をぶつけないよう乗り込んだ。
車が静かに発進する。一瞬の慣性が寝起きの頭を揺らした。中学までは別にこんな事もなかったのだけど、諸事情で私の通う事になった高校が屋敷からそこそこ離れてしまったことを受け、こうして家の人が毎日送迎する決まりとなった。
もちろん感謝の気持ちはある。でも、私を送迎してくれる運転手にしても、さっきの使用人にしても、会話を交わす事なんてないのに、どことなく私に過保護だというのだから、どうしても不気味に感じてしまうし、なにより居心地が悪かった。
「………」
この家の人特有の感情を殺した沈黙にはいつも息が詰まる。
それを紛らわせるように、私はスマホの画面を開いた。
鵜里さんからの通知が一件だけ。どうも昨夜には届いていた内容みたい。
『今日は楽しかったです。桒崎さんに合った趣味、見つかるといいね。
それはそうと、まあちょっと気が早いかもだけど、
ゴールデンウィークの予定は空いてますか?
今度は二人きりじゃなくて、もっと人を呼んで遊ぶのも楽しいかなって』
とても丁寧な文章だった。明らかに気を遣われている。かといって、こっちが悪い気を起こしてしまう程ではない。どっかの誰かさんとは大違いだ。
私は少し悩むふりをしてみたものの、他に予定があるはずもない人間が何をしているのかとすぐに顔を振って、返事が遅れたことを謝りつつ、了承の旨を返信した。スタンプまでは送らなかった。元から用意されている種類しか手元になかったし、ハードルも高かったと自分に言い訳してみる。
しばらく画面を見つめ、スマホを両手に収めたまま、腕の力を抜く。
車窓の外は、午後とは言いつつも、相変わらず今にも降り出しそうな曇り空。
「……なにしてるんだか」
不意に冷静になる。
ここまでが一連の流れみたいだった。
「桒崎さん、おはよう」
鵜里さんの声に顔を上げる。
「ええ、おはよう」
彼女の笑みに当てられると、私も自然と笑みを浮かべられるようになってきた。確かな成長を実感する瞬間。けれど、それとは別に、鵜里さんの挨拶なしには一日が始まらない体になってきている気がして、密かに危機感を覚え始めてもいた。
心地良すぎる距離感も考え物だと思う。
このままだと鵜里さんに寄りかかるだけの私になってしまいかねない。
「桒崎さんって、もしかしていつも寝るの早い?」
「えっと、どうして?」
「あ、いや、深い意味はなくてね? もしそうなら、眠ってるときに送っちゃうのもなんだか悪いし」
前々から何気なく思っていた事ではあるけれど、だいぶ細かい部分を気にする子だ。
「そんな気にしなくていいのに」
「気にするよ。まあでも、それはそれとして興味湧いちゃうのも本音」
答えにくいなら無理に言わなくても大丈夫だから、と鵜里さんは逐一配慮を欠かさない。余計なお世話だろうから口には出さないけれど、つくづく難儀な性格をしていると思う。
「夜の九時にはいつも寝るようにしてるけど」
「わ、すごい早いんだね」と、鵜里さんが目を丸くする。
それが私の今までの生活でもあったので、驚かれるのは新鮮だった。
「それって美容のためとか? 桒崎さん、肌綺麗だし」
「いや──」
単に幼い頃からの習慣が絶えず続いてしまっているだけというか。
夜遅くまで起きていても他にやる事も特になかったからというか。
それに。
「……私、眠る時間長いから」
私がそう答えると、鵜里さんがこくこくと頷いた。
そこで会話にひと段落が着いたと見た私は、今朝の話題について触れることにした。
「ゴールデンウィークのことなんだけど」
「ああ、もしかして誰か誘いたい人いるとか?」
「ううん。鵜里さんにその誰を誘うとかも含めて、全部お任せしようと思ってたの。そのことを伝えそびれていたから」
「そういうことなら。はい、お任せされました」
鵜里さんはそう小さな胸を張るようにして、曇り空にも負けないくらい柔和な笑みを浮かべてみせた。
◇
憂鬱の種は夜になると花開く。困ったことに天候は関係ない。
晴れていようと雨が降っていようと、例え嵐の中だって、こいつの憎たらしい笑みが崩れるところは想像できない。
「……弥月はどうするの? ゴールデンウィーク中、どこか出掛けたりするの?」
「おや、なんだい。珍しいね、梓乃がそんなこと気にかけるなんて。一体どういった風の吹き回しさ?」
このデリカシーに欠ける態度も平常運転。いちいち気に障っていたらキリがない。でも、これは気のせいかもしれないけれど、日に日に増して、私の知らないところで磨きが掛かっているように思う。
「そう珍しがることないでしょ。気分よ、気分。深い意味なんてない」
「大方、新しくできた友達に遊びにでも誘われて浮かれてるんだろう?」
「……地獄に落ちればいいのに」
「その時は君も一緒だろうね」
「なんて嫌味な話」
ふん、と私は顔を逸らす。
「しかし、これも奇遇というのかな。僕も友達に誘われているんだ」
「……それって、もしかして相手が女の子だったりする?」
「いや? 歴とした男だね。君も知ってるだろう。陸ノ内に誘われたんだよ」
「そんな仲良くなってたんだ」
また意外でもある。人見知りが激しそうな印象を受けたので、まさか陸ノ内くんのほうから弥月のことを誘うとは。
「お互い、充実した高校生活を送れているようで何よりだね」
……本当にこの男は。
人の神経を逆撫でする言葉遣いが相当にお上手なようで。
「それも嫌味?」
「適度な距離感はあると思うんだ」
「逃げ腰。チキン。約束破り」
開き直るな、このバカ。
◇
あれから何事もないまま、日付だけが過ぎていった。
パラパラと降る雨。これで四日立て続けになる。とはいえ、今回の雨はそう長くは続かないだろう。現に曇り空は薄く、点々と陽の光を透かし、綿飴のようにほどけた雲の合間には、のっぺりとした青い空が覗いていた。
放課後になり、私は迎えの車を待っているところだった。
普段よりも遅れ気味だから、おそらく渋滞などに巻き込まれているのかもしれない。あの寡黙な運転手に限って、理由もなく遅れてしまうはずがない。それくらいの信頼は出来上がっていた。
「………」
一人で帰ろうと思えば、いつでも帰れた。折り畳み傘は鞄の中に入っていて、財布は持ってきているし、道順もスマホで簡単に調べられる。それでもそうしないのは、すでに向かってきてくれている運転手に悪いのもあるけれど、単純にちょうど暇つぶしできる相手を見つけたからだ。
「………」
「私と過ごす時間、そんなに居心地悪いかしら?」
「い、いや……っ。そんなことない…けど」
否定の言葉とは裏腹に、陸ノ内くんの右目が泳ぐ。左目は隠れているのでわからないけれど、わずかな顔の振りに合わせて前髪が揺れ動いていたし、声も吃りがちで上擦っていたし、いずれにしても、動揺はまるで隠せていなかった。
場所は玄関口の端っこ。屋根があるので濡れる心配はまずない。陸ノ内くんはなんでも傘を忘れてしまったらしく、それくらいなら学校側が貸し出してはいるのだけど、中途半端な空の様子を見て止むまで待つことにしたのだという。そこで私と遭遇した。
私と陸ノ内くんは距離を取りながら並んで立っているのだけど、時折前屈みに隣を窺っても、私とは一向に目が合う様子がないので、苦手意識を持たれてしまっているのかもしれない。
「君、浦野くんとは仲がいいみたいね」
「まあ…たぶん、そっすね」
歯切れの悪い答え。そういうのは見ていてちょっとだけ、イライラしてしまう。
「普段、彼とどんな話をしてるの?」
「いやそれ、前にも同じこと聞かれたような……」
「ええ、そうね。でも、はぐらかされてしまったままだもの」
「……別に大したことは何も。趣味の話とか、部活には入れないとか、雑談程度だし」
「そう」
少なくとも、まるっきり嘘を話しているわけではなさそう。
「私の事は何か言ってなかった?」
「───いや。特に何も」
思わず首を傾げる。
今の応えには、明らかに怪しい間があった。
「本当に?」
と、今度は陸ノ内くんの目をにじり寄るようにして覗き込む。
すると、その前に思いっきり顔を逸らされてしまった。
首を私の反対側にぐっと伸ばして、前髪の下に覗く口角が痙攣するように引き攣っていた。
「……そこまで露骨に嫌がられると、私も流石に傷つくんだけど」
この時は、何気なく思ったことを口にしただけだった。
弥月には現実で避けられ続けて、陸ノ内くんにはこうして目も合わせてもらえなくて。
なにやら陸ノ内くんがぱくぱくと口を動かしているけれど、声は聞こえてこない。
「ふたりとも、そこで何してるの?」
昇降口から聞こえてきた素朴な声に、おそらく私たちは同時に振り返った。
そこには鵜里さんが立っていた。不思議そうな目で私たちの様子を見比べて、僅かに首を傾げている。
「えっと、雨宿りの暇つぶしに話してたの。ね、陸ノ内くん?」
と、私がそう告げると、陸ノ内くんはぶんぶんと首を縦に振った。
「そうなんだ? でも、桒崎さんの迎え、もう来てるみたいだけど」
鵜里さんが校門のほうを指さす。
見てみると、確かに屋敷の車がいつの間にか待機していた。
今まで待たされていたのは私のほうではあるんだけれど、かといってこれ以上相手を待たせるのも気が引ける。空を見上げれば、小雨も止み始めている。この場に留まる理由はもうお互いになくなっていた。
結局、陸ノ内くんからはほとんど何も聞き出せず、私はその場で二人と別れ、迎えの車に乗った。
◇
四月とはとても思えない、じっとりと汗ばむ熱気。蝉の声でも聞こえてきそうなほどの陽射しが、アスファルトを照り付けている。
予報では、今年に入り一番の暑さになるという。
なんでも最高気温が四月の観測史上一位を更新したとか。
首筋にじわりと滲む汗をハンカチで拭う。そんな惨たらしいくらいの快晴とは裏腹に、私のもやもやはちっとも晴れないままだった。
地下鉄を降り、上の看板を確認しながら恐る恐る改札を抜ける。ゴールデンウィーク二日目──それも日曜日ともなれば、構内の人通りはそれなりに溢れ、雑踏の過ぎゆくなかを歩くことに慣れていない私は、足元を右往左往させながら駅の北口に向かった。
待ち合わせ場所の広場前に着くと、まだ誰の姿もなかった。バッグからスマホを取り出し、近場のベンチに腰を下ろす。それも当然といえば当然で、前回もそうだったのだけど、約束の三十分前はやっぱり早過ぎるのかもしれない。
ぶるる、と膝に置いてあったスマホが急に震え出し、その拍子に滑り落ちそうになるものだから、私は慌ててまず手で押さえた。裏返すと、鵜里さんからの通知だった。少し遅れてしまうとのこと。
「りょうかい、と」
広場の中央に屯している鳩たちが、一羽、また一羽と数を増す。
手持ち無沙汰の時間が長引くと、人の頭というのはどうしても、益体のない悩みを掘り起こそうとしてしまうものらしい。あの部屋でいつも見るあいつの顔と、屋上の扉越しに映ったあの青空とが、交互に思い起こされていく。なぜか胸が詰まる。
「………」
燦々と陽光を降り注ぐ青空は薄く。まだ本格的な夏でもないのに、街の景色は蜃気楼にゆらめくように、どことなく色褪せる。
伝承碑を眺める男性の背中を、私は何を考えるでもなく、つい遠目に追っていた。
「───僕が思うに、だ」
と、背後の植木越しにそんな声があがった。
知らず私の肩が跳ねる。
「君の連れが遅れている様子と、僕の連れが遅れていること。その両件をまったくの偶然と片付けるには、どうにも作為的だ」
私は平然を装うようにして、背筋を伸ばした。
「……だとしたら、何かしら。お節介な人が、私たちの周囲に二人もいるって言いたいの?」
「いや、おそらく一人だろうね。片方は巻き込まれと見るべきだ。なにせ、彼はそういう性格じゃない」
「弥月がいつまでもウダウダやってるから、いい加減見るに見かねたんでしょ」
「梓乃のほうこそ、不機嫌オーラを所構わず振り撒いているもんだから、それに周りが迷惑してたんじゃないかな」
「どっちのせいよ」
「ノーコメント」
ため息が出る。折角の楽しみも、これでは台無しだ。
「……今回は無様に逃げ出したりしないのね?」
「生憎と向こうの連絡先を知らないままでね。ここで逃げ出してしまえば、陸ノ内に不義理を働くことになりかねない」
「へぇ。じゃあ私にはいいっていうんだ?」
「僕と君の仲だろう?」
「またそれ。親しき仲にも礼儀ありって知らない?」
「他人行儀の別名、もちろん知ってるとも」
「馬鹿。どんなに距離が近い間柄でも、約束はきちんと守りましょうって話」
「根に持つね」
「当然でしょ」
すると、今度は背後からため息が聞こえてきた。
空を見上げ出したのが気配で伝わる。
「正直、かなり参ってるんだ」
それはこっちのセリフ。そう言いたい思いをぐっと堪える。
「これは梓乃にも確か前に言ったよね、僕には人の顔がよく見えないこと」
「それは…うん」
───僕が知っている人の顔なんて、唯一君くらいだよ、梓乃。
そんな歯の浮くようなセリフをいつもの調子で吐かれたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。でも、具体的にいつの頃の話かは忘れてしまった。少なくとも中学生とか、最近の話ではないことは確かだ。
「あ、もしかして、現実では私の顔が見られないかもしれないから、それで避けてた…とか?」
そこまでは、私の頭になかった。
もしかすると、私は今まで彼にとても酷い要求をしていたのかもしれない。
今更そんな想像に駆られ、胸がキュッと締め付けられていく。
「───いや、その逆だ」
「え?」と、私は思わず背後を振り返った。
空を見上げ続ける弥月の後ろ姿が、そこにはあった。
気のせいでなければ、あの部屋で見るよりも、彼の背丈が一回りほど大きく感じられた。
「君と現実で出会う約束をした時から、それくらいのこと、覚悟はしてたさ。例え現実に引き摺られて、夢の間でさえも君の顔を覚えておけなくなるかもしれなくても、それでも君の願いを受け止めようとね」
そしたらどうさ、と弥月がカラカラと肩を鳴らす。
「体育館で見つけた君の姿は、この世の誰よりも鮮明だったんだよ、梓乃。思わず見惚れてしまった。なんだって、君はそんなにも綺麗なんだ」
「──────」
呼吸が止まる。心臓の音がうるさかった。
ひどく理不尽な事を言われたのは、理解できていた。
それでも、不意打ちが過ぎた。あまりにも、あんまりだった。
今では、彼の背中さえも直視できない。
「……そ、それって、こ…こくは」
「うん。さすがに察しがいいね。あれから僕なりに考えたんだ。どうすれば、君のことを──」
その後、私はすぐに冷水を浴びせられる羽目になった。
途端に心が凍てついた。
……一体、何を浮かれていたんだろう。
人の姿でいる彼に馴染み過ぎたのがいけなかったのか。
私はすっかり失念してしまっていたのだ。
元々の浦野弥月という少年の本性を。あるいは、その本能を。
誰よりも目を背けていたのは、逃げ続けた彼ではなく、本当は私のほうだったのかもしれない。
それでも。
「うん、やっと顔を上げてくれた。現実《ここ》では、はじめまして…になるのかな」
彼の軽薄な作り笑いは、やっぱり、どこにいても変わらないみたい。
/
それは、孟夏の訪れを早々に感じさせる、四月の終わりの事。
現実における浦野弥月との初めての出会い。
いわゆる馴れ初めだった。
私は念の為折り畳み傘を鞄に入れ、いまいち表情の硬い使用人──私も人の事は言えないけど──に玄関まで見送られながら、屋敷を出た。門前には一台の車が待機していて、私が歩み寄ると、後部座席のドアが開いたので、頭をぶつけないよう乗り込んだ。
車が静かに発進する。一瞬の慣性が寝起きの頭を揺らした。中学までは別にこんな事もなかったのだけど、諸事情で私の通う事になった高校が屋敷からそこそこ離れてしまったことを受け、こうして家の人が毎日送迎する決まりとなった。
もちろん感謝の気持ちはある。でも、私を送迎してくれる運転手にしても、さっきの使用人にしても、会話を交わす事なんてないのに、どことなく私に過保護だというのだから、どうしても不気味に感じてしまうし、なにより居心地が悪かった。
「………」
この家の人特有の感情を殺した沈黙にはいつも息が詰まる。
それを紛らわせるように、私はスマホの画面を開いた。
鵜里さんからの通知が一件だけ。どうも昨夜には届いていた内容みたい。
『今日は楽しかったです。桒崎さんに合った趣味、見つかるといいね。
それはそうと、まあちょっと気が早いかもだけど、
ゴールデンウィークの予定は空いてますか?
今度は二人きりじゃなくて、もっと人を呼んで遊ぶのも楽しいかなって』
とても丁寧な文章だった。明らかに気を遣われている。かといって、こっちが悪い気を起こしてしまう程ではない。どっかの誰かさんとは大違いだ。
私は少し悩むふりをしてみたものの、他に予定があるはずもない人間が何をしているのかとすぐに顔を振って、返事が遅れたことを謝りつつ、了承の旨を返信した。スタンプまでは送らなかった。元から用意されている種類しか手元になかったし、ハードルも高かったと自分に言い訳してみる。
しばらく画面を見つめ、スマホを両手に収めたまま、腕の力を抜く。
車窓の外は、午後とは言いつつも、相変わらず今にも降り出しそうな曇り空。
「……なにしてるんだか」
不意に冷静になる。
ここまでが一連の流れみたいだった。
「桒崎さん、おはよう」
鵜里さんの声に顔を上げる。
「ええ、おはよう」
彼女の笑みに当てられると、私も自然と笑みを浮かべられるようになってきた。確かな成長を実感する瞬間。けれど、それとは別に、鵜里さんの挨拶なしには一日が始まらない体になってきている気がして、密かに危機感を覚え始めてもいた。
心地良すぎる距離感も考え物だと思う。
このままだと鵜里さんに寄りかかるだけの私になってしまいかねない。
「桒崎さんって、もしかしていつも寝るの早い?」
「えっと、どうして?」
「あ、いや、深い意味はなくてね? もしそうなら、眠ってるときに送っちゃうのもなんだか悪いし」
前々から何気なく思っていた事ではあるけれど、だいぶ細かい部分を気にする子だ。
「そんな気にしなくていいのに」
「気にするよ。まあでも、それはそれとして興味湧いちゃうのも本音」
答えにくいなら無理に言わなくても大丈夫だから、と鵜里さんは逐一配慮を欠かさない。余計なお世話だろうから口には出さないけれど、つくづく難儀な性格をしていると思う。
「夜の九時にはいつも寝るようにしてるけど」
「わ、すごい早いんだね」と、鵜里さんが目を丸くする。
それが私の今までの生活でもあったので、驚かれるのは新鮮だった。
「それって美容のためとか? 桒崎さん、肌綺麗だし」
「いや──」
単に幼い頃からの習慣が絶えず続いてしまっているだけというか。
夜遅くまで起きていても他にやる事も特になかったからというか。
それに。
「……私、眠る時間長いから」
私がそう答えると、鵜里さんがこくこくと頷いた。
そこで会話にひと段落が着いたと見た私は、今朝の話題について触れることにした。
「ゴールデンウィークのことなんだけど」
「ああ、もしかして誰か誘いたい人いるとか?」
「ううん。鵜里さんにその誰を誘うとかも含めて、全部お任せしようと思ってたの。そのことを伝えそびれていたから」
「そういうことなら。はい、お任せされました」
鵜里さんはそう小さな胸を張るようにして、曇り空にも負けないくらい柔和な笑みを浮かべてみせた。
◇
憂鬱の種は夜になると花開く。困ったことに天候は関係ない。
晴れていようと雨が降っていようと、例え嵐の中だって、こいつの憎たらしい笑みが崩れるところは想像できない。
「……弥月はどうするの? ゴールデンウィーク中、どこか出掛けたりするの?」
「おや、なんだい。珍しいね、梓乃がそんなこと気にかけるなんて。一体どういった風の吹き回しさ?」
このデリカシーに欠ける態度も平常運転。いちいち気に障っていたらキリがない。でも、これは気のせいかもしれないけれど、日に日に増して、私の知らないところで磨きが掛かっているように思う。
「そう珍しがることないでしょ。気分よ、気分。深い意味なんてない」
「大方、新しくできた友達に遊びにでも誘われて浮かれてるんだろう?」
「……地獄に落ちればいいのに」
「その時は君も一緒だろうね」
「なんて嫌味な話」
ふん、と私は顔を逸らす。
「しかし、これも奇遇というのかな。僕も友達に誘われているんだ」
「……それって、もしかして相手が女の子だったりする?」
「いや? 歴とした男だね。君も知ってるだろう。陸ノ内に誘われたんだよ」
「そんな仲良くなってたんだ」
また意外でもある。人見知りが激しそうな印象を受けたので、まさか陸ノ内くんのほうから弥月のことを誘うとは。
「お互い、充実した高校生活を送れているようで何よりだね」
……本当にこの男は。
人の神経を逆撫でする言葉遣いが相当にお上手なようで。
「それも嫌味?」
「適度な距離感はあると思うんだ」
「逃げ腰。チキン。約束破り」
開き直るな、このバカ。
◇
あれから何事もないまま、日付だけが過ぎていった。
パラパラと降る雨。これで四日立て続けになる。とはいえ、今回の雨はそう長くは続かないだろう。現に曇り空は薄く、点々と陽の光を透かし、綿飴のようにほどけた雲の合間には、のっぺりとした青い空が覗いていた。
放課後になり、私は迎えの車を待っているところだった。
普段よりも遅れ気味だから、おそらく渋滞などに巻き込まれているのかもしれない。あの寡黙な運転手に限って、理由もなく遅れてしまうはずがない。それくらいの信頼は出来上がっていた。
「………」
一人で帰ろうと思えば、いつでも帰れた。折り畳み傘は鞄の中に入っていて、財布は持ってきているし、道順もスマホで簡単に調べられる。それでもそうしないのは、すでに向かってきてくれている運転手に悪いのもあるけれど、単純にちょうど暇つぶしできる相手を見つけたからだ。
「………」
「私と過ごす時間、そんなに居心地悪いかしら?」
「い、いや……っ。そんなことない…けど」
否定の言葉とは裏腹に、陸ノ内くんの右目が泳ぐ。左目は隠れているのでわからないけれど、わずかな顔の振りに合わせて前髪が揺れ動いていたし、声も吃りがちで上擦っていたし、いずれにしても、動揺はまるで隠せていなかった。
場所は玄関口の端っこ。屋根があるので濡れる心配はまずない。陸ノ内くんはなんでも傘を忘れてしまったらしく、それくらいなら学校側が貸し出してはいるのだけど、中途半端な空の様子を見て止むまで待つことにしたのだという。そこで私と遭遇した。
私と陸ノ内くんは距離を取りながら並んで立っているのだけど、時折前屈みに隣を窺っても、私とは一向に目が合う様子がないので、苦手意識を持たれてしまっているのかもしれない。
「君、浦野くんとは仲がいいみたいね」
「まあ…たぶん、そっすね」
歯切れの悪い答え。そういうのは見ていてちょっとだけ、イライラしてしまう。
「普段、彼とどんな話をしてるの?」
「いやそれ、前にも同じこと聞かれたような……」
「ええ、そうね。でも、はぐらかされてしまったままだもの」
「……別に大したことは何も。趣味の話とか、部活には入れないとか、雑談程度だし」
「そう」
少なくとも、まるっきり嘘を話しているわけではなさそう。
「私の事は何か言ってなかった?」
「───いや。特に何も」
思わず首を傾げる。
今の応えには、明らかに怪しい間があった。
「本当に?」
と、今度は陸ノ内くんの目をにじり寄るようにして覗き込む。
すると、その前に思いっきり顔を逸らされてしまった。
首を私の反対側にぐっと伸ばして、前髪の下に覗く口角が痙攣するように引き攣っていた。
「……そこまで露骨に嫌がられると、私も流石に傷つくんだけど」
この時は、何気なく思ったことを口にしただけだった。
弥月には現実で避けられ続けて、陸ノ内くんにはこうして目も合わせてもらえなくて。
なにやら陸ノ内くんがぱくぱくと口を動かしているけれど、声は聞こえてこない。
「ふたりとも、そこで何してるの?」
昇降口から聞こえてきた素朴な声に、おそらく私たちは同時に振り返った。
そこには鵜里さんが立っていた。不思議そうな目で私たちの様子を見比べて、僅かに首を傾げている。
「えっと、雨宿りの暇つぶしに話してたの。ね、陸ノ内くん?」
と、私がそう告げると、陸ノ内くんはぶんぶんと首を縦に振った。
「そうなんだ? でも、桒崎さんの迎え、もう来てるみたいだけど」
鵜里さんが校門のほうを指さす。
見てみると、確かに屋敷の車がいつの間にか待機していた。
今まで待たされていたのは私のほうではあるんだけれど、かといってこれ以上相手を待たせるのも気が引ける。空を見上げれば、小雨も止み始めている。この場に留まる理由はもうお互いになくなっていた。
結局、陸ノ内くんからはほとんど何も聞き出せず、私はその場で二人と別れ、迎えの車に乗った。
◇
四月とはとても思えない、じっとりと汗ばむ熱気。蝉の声でも聞こえてきそうなほどの陽射しが、アスファルトを照り付けている。
予報では、今年に入り一番の暑さになるという。
なんでも最高気温が四月の観測史上一位を更新したとか。
首筋にじわりと滲む汗をハンカチで拭う。そんな惨たらしいくらいの快晴とは裏腹に、私のもやもやはちっとも晴れないままだった。
地下鉄を降り、上の看板を確認しながら恐る恐る改札を抜ける。ゴールデンウィーク二日目──それも日曜日ともなれば、構内の人通りはそれなりに溢れ、雑踏の過ぎゆくなかを歩くことに慣れていない私は、足元を右往左往させながら駅の北口に向かった。
待ち合わせ場所の広場前に着くと、まだ誰の姿もなかった。バッグからスマホを取り出し、近場のベンチに腰を下ろす。それも当然といえば当然で、前回もそうだったのだけど、約束の三十分前はやっぱり早過ぎるのかもしれない。
ぶるる、と膝に置いてあったスマホが急に震え出し、その拍子に滑り落ちそうになるものだから、私は慌ててまず手で押さえた。裏返すと、鵜里さんからの通知だった。少し遅れてしまうとのこと。
「りょうかい、と」
広場の中央に屯している鳩たちが、一羽、また一羽と数を増す。
手持ち無沙汰の時間が長引くと、人の頭というのはどうしても、益体のない悩みを掘り起こそうとしてしまうものらしい。あの部屋でいつも見るあいつの顔と、屋上の扉越しに映ったあの青空とが、交互に思い起こされていく。なぜか胸が詰まる。
「………」
燦々と陽光を降り注ぐ青空は薄く。まだ本格的な夏でもないのに、街の景色は蜃気楼にゆらめくように、どことなく色褪せる。
伝承碑を眺める男性の背中を、私は何を考えるでもなく、つい遠目に追っていた。
「───僕が思うに、だ」
と、背後の植木越しにそんな声があがった。
知らず私の肩が跳ねる。
「君の連れが遅れている様子と、僕の連れが遅れていること。その両件をまったくの偶然と片付けるには、どうにも作為的だ」
私は平然を装うようにして、背筋を伸ばした。
「……だとしたら、何かしら。お節介な人が、私たちの周囲に二人もいるって言いたいの?」
「いや、おそらく一人だろうね。片方は巻き込まれと見るべきだ。なにせ、彼はそういう性格じゃない」
「弥月がいつまでもウダウダやってるから、いい加減見るに見かねたんでしょ」
「梓乃のほうこそ、不機嫌オーラを所構わず振り撒いているもんだから、それに周りが迷惑してたんじゃないかな」
「どっちのせいよ」
「ノーコメント」
ため息が出る。折角の楽しみも、これでは台無しだ。
「……今回は無様に逃げ出したりしないのね?」
「生憎と向こうの連絡先を知らないままでね。ここで逃げ出してしまえば、陸ノ内に不義理を働くことになりかねない」
「へぇ。じゃあ私にはいいっていうんだ?」
「僕と君の仲だろう?」
「またそれ。親しき仲にも礼儀ありって知らない?」
「他人行儀の別名、もちろん知ってるとも」
「馬鹿。どんなに距離が近い間柄でも、約束はきちんと守りましょうって話」
「根に持つね」
「当然でしょ」
すると、今度は背後からため息が聞こえてきた。
空を見上げ出したのが気配で伝わる。
「正直、かなり参ってるんだ」
それはこっちのセリフ。そう言いたい思いをぐっと堪える。
「これは梓乃にも確か前に言ったよね、僕には人の顔がよく見えないこと」
「それは…うん」
───僕が知っている人の顔なんて、唯一君くらいだよ、梓乃。
そんな歯の浮くようなセリフをいつもの調子で吐かれたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。でも、具体的にいつの頃の話かは忘れてしまった。少なくとも中学生とか、最近の話ではないことは確かだ。
「あ、もしかして、現実では私の顔が見られないかもしれないから、それで避けてた…とか?」
そこまでは、私の頭になかった。
もしかすると、私は今まで彼にとても酷い要求をしていたのかもしれない。
今更そんな想像に駆られ、胸がキュッと締め付けられていく。
「───いや、その逆だ」
「え?」と、私は思わず背後を振り返った。
空を見上げ続ける弥月の後ろ姿が、そこにはあった。
気のせいでなければ、あの部屋で見るよりも、彼の背丈が一回りほど大きく感じられた。
「君と現実で出会う約束をした時から、それくらいのこと、覚悟はしてたさ。例え現実に引き摺られて、夢の間でさえも君の顔を覚えておけなくなるかもしれなくても、それでも君の願いを受け止めようとね」
そしたらどうさ、と弥月がカラカラと肩を鳴らす。
「体育館で見つけた君の姿は、この世の誰よりも鮮明だったんだよ、梓乃。思わず見惚れてしまった。なんだって、君はそんなにも綺麗なんだ」
「──────」
呼吸が止まる。心臓の音がうるさかった。
ひどく理不尽な事を言われたのは、理解できていた。
それでも、不意打ちが過ぎた。あまりにも、あんまりだった。
今では、彼の背中さえも直視できない。
「……そ、それって、こ…こくは」
「うん。さすがに察しがいいね。あれから僕なりに考えたんだ。どうすれば、君のことを──」
その後、私はすぐに冷水を浴びせられる羽目になった。
途端に心が凍てついた。
……一体、何を浮かれていたんだろう。
人の姿でいる彼に馴染み過ぎたのがいけなかったのか。
私はすっかり失念してしまっていたのだ。
元々の浦野弥月という少年の本性を。あるいは、その本能を。
誰よりも目を背けていたのは、逃げ続けた彼ではなく、本当は私のほうだったのかもしれない。
それでも。
「うん、やっと顔を上げてくれた。現実《ここ》では、はじめまして…になるのかな」
彼の軽薄な作り笑いは、やっぱり、どこにいても変わらないみたい。
/
それは、孟夏の訪れを早々に感じさせる、四月の終わりの事。
現実における浦野弥月との初めての出会い。
いわゆる馴れ初めだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる