濫觴のあとかた ~Truth like a lie complex~

九葉ハフリ

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第2章 艶のある影を踏んで

1-5 弥月視点

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 僕の昼休みはまず、廊下に出る所から始まる。
 最初の十分間の勝負。教師に見咎められるようなヘマはしない。
 せこせこと校舎内を逃げ回る──特に廊下を走り回るというのは、僕ほどいい加減な人間でも経験は少なかった。そもそも、そんな必要性に駆られる機会がない。しかし、今の僕には切実に差し迫った現実だ。
 入学式から休日を挟み、ちょうど一週間が経過した四月十一日。
 それは同時に、僕が彼女との接触を避け続けた日数を示していた。

「……今日も、こっちの白星かな」

 オセロのように表裏一体だろうけど、と内心息をつく。
 ようするに意味のない悪足掻き。長ったらしく引き伸ばしたモラトリアム。その自覚はあった。
 校舎を上下に一周。油断しないようそのまま教室には戻らず、一年の教室に近いほうの階段を、たん、たんと駆け上がっていく。鍵が掛かった屋上の扉前。今日はそこで有り余った時間を潰すことにした。当然昼食は抜き。でも、その生活には慣れてきた。
 踊り場を折り返しつつ階上を見上げる。
 すると、思ってもみなかったことに。
 そこにはすでに先客がいた。

「あ……」と、男子生徒が気まずそうに息を漏らす。

 左目を覆い隠すように、そこだけ前髪を伸ばしているのが唯一特徴的と言えた。

「やあ」

 僕はとりあえず軽く挨拶してみた。何事も最初の印象が大事だという。

「や、やあ……? うん?」

 向こうは反射的にといった様子でおずおずと手を上げる。どうもこのノリは通じるらしい。だったら、僕がこの場を退散する必要はなさそうだ。そう見て取り、僕は軽い調子で再び階段を上がった。

「───君も誰かから逃げてきた口かい? 実は僕もなんだ」
「いや、俺は別にそういうわけじゃ、ないけど──」

 それが、お互いに友達付き合いの少ない僕と彼──陸ノ内くがのいとの初遭遇だった。

 
 それからというもの。昼休み最初の十分間を切り抜けた後は、ちょくちょく陸ノ内とあの場所で話す仲になった。といっても、踏み込んだ話はしない。フルネームとクラス。それ以外の自己紹介は不要。僕のくだらない思いつきに、陸ノ内が相槌を打つだけの関係性だ。

「僕には趣味らしい趣味がないんだ。強いて言えば街の様子を見て回ることになるんだろうけど、友人の付き合いでという面が強い」
「……なんか、老後の趣味じみてんな」
「言えてる」

 そして案外、碧菜の心境として的外れではないのかもしれない。一番に当て嵌まるのはその双子の姉である紅葉になるんだろうけど、姉妹ともに、どうにも世捨て人感が行動の節々に漂っている。

「陸ノ内のほうはどう? 参考程度に聞かせてほしいね」
「……スポーツは? お前、運動神経良さそうだし」
「チームワークを要求されるのはどうも」僕は肩をすくめる。
「個人競技だったら……って、結局部活の話になっちまうか」

 これといっていい案は出ないまま、そうしてその日の昼休みが終わりを告げる。三日、四日とこの調子が続き、元から波長が合っていたのか、居心地のいい距離感はお互いにすんなり掴めていたと思う。

 しかし、居心地が良すぎるのも考え物だ。

 陸ノ内と話すようになってさらに一週間が経過した頃には、梓乃から逃げ回っているという意識が僕の中で薄れ始めていた。毎日のように夢の中で顔を突き合わせている以上、全くなくなってしまうまではいかなくとも、マンネリ化の一途を辿る日常に省力化は付き物。
 つまるところ、僕は陸ノ内との雑談に夢中になるあまり、肩の力を抜き過ぎていたのだ。
 だからそれに気がつけたのも、ほとんど偶然と言ってよかった。
 階段の手摺りを支える細い鉄柱の影に、ちょこんと頭頂部の飛び出す様子が見えた。僕はすぐに相手が梓乃だと確信した。
 隣で陸ノ内が戸惑っている気配がしていたけど、僕は構わずその場を立ち上がって、身を翻した。目の前の屋上の扉に目がいき、咄嗟にドアノブを握った。硬い感触が手のひらに返る。でも、これくらいなら問題ない。障害にもならない。容易に壊せる。
 力を込める。金属が軋み立てる。
 ガキン、と間もなくしてドアノブが回った。
 扉を開け放つ。
 
 視界一面に、淡い水色の空が広がった───。
 
 春の陽気が僕を包み込む。そこで、体がふるえていた事を知る。
 あまりの解放感に、思わず息がこぼれた。

「───ああ、最悪だ」

 バタン。まるで壁を挟んだ向こう側で、扉が閉まった。
 つい勢いで学校の備品を破壊してしまったこともそうだけど。
 そういえば、この屋上に繋がる扉は、背後にある一つだけだった。
 それから僕は頭も冷めやらぬうちに血迷ったまま屋上の柵を乗り越え、その一部始終を教室にいた先輩方に目撃されてしまい、飛び降りた先が職員室の近くだったのも重なり、そこで生徒指導の菅間先生に捕捉された。その場を逃げるだけなら簡単だったけど、後々のことを考えると、どのみち失敗していた。

 
『───繰り返す。一年A組の浦野弥月、一年B組の桒崎梓乃の両名は職員室、菅間良紀よしのりのもとまで来るように』
「…………」

 放課後になると放送が流れ、想像とは少し外れたその内容に僕はしばらく、時計の秒針を見上げた。
 席を立つ。もちろんバッグは忘れずに。一躍有名人とはいかないまでも、悪目立ちしているようだ。それだけの動作で注目を集めたし、廊下を歩くだけでも周囲の無遠慮な視線が首回りにちくちくと突き刺さるみたいだった。
 廊下の窓に視線を逸らすと、樹木や敷地を仕切るフェンスに橙色が滲み始めていた。春の暖かさが映える外の景色に対して、廊下の影はいっそう冷たく感じられた。

 階段に差し掛かると、「あ、見つけた」と女子の声が階下から聞こえた。

 最初は僕に対する反応だとは思いも寄らず、そのまま背が低めの女子の横を素通りするところが、「あ、あの!」とはっきりと声を掛けられたら、さすがに振り向かずにはいられなかった。

「ん、なに? もしかして、僕に用?」
「はい。あの、浦野弥月くん、でいいんですよね?」
「そうだけど」
「私、一年B組の鵜里くるみといいます。桒崎さんのと…友達、です」
「梓乃の? へぇ」

 小学校に通うことになったときなんかは、友達ができるか不安そうにしてたものだけど、高校でも無事に作れたようだ。

「桒崎さんのこと、下の名前で呼ぶんですね」
「……まあ、そうだね」

 わざわざ気にする部分とは思えなかったけど、一応頷き返しておく。
 しかし、このタイミングで僕に声を掛けてくるとなると、考えられることは限られてくる。おそらくこういうことだろう、と僕は口を開いた。

「君が心配しなくとも、梓乃とは極力関わらないようにするし、これ以上君たちに迷惑をかける気はないよ」
「そういうのじゃないです」と、食い気味に否定された。
「……あの、わざとすっとぼけてる?」
「どちらかというと、最適解を選んだつもりだったね」

 まったく話が見えてこない。僕がそう返すと、女子が俯いてしまった。なにやら呻き声をぼそぼそとこぼしている。

「……これ、思ったより深刻かも」
「なんの話? いや僕としても君の話に付き合ってあげたいのは山々なんだけどね、いま職員室に用事が立て込んでてさ」
「そうだよね。なら、えっと、浦野…くん、って呼んでもいい?」
「お好きに」
「スマホは持ってます?」
「もちろん」
「だったら、連絡先交換しましょう?」

 と、終始話が読めなかったものの、それで解放されるなら安い代償だと思い、僕は二つ返事でスマホを取り出した。僕の連絡先におよそ身内以外の項目が追加されたのは、あの双子の姉妹以来だ。

 
「失礼しまーす」

 職員室に着くと、数人の教師がちらほら。煤けた緑色のジャケットを着た菅間先生が椅子に座りながらどしっと腕を組み、そのそばにはすでに梓乃が立って待っていた。顔は俯いていてよく見えない。また意外にも、梓乃は僕の方に振り向く素振りさえ見せない。
 動悸が先走っている。皮膚の内側までもがざわつく始末だ。
 しかし、ここで逃げ出すわけにもいかない。余計めんどうを増やすだけだ。
 僕は密かに息を呑んで一歩踏み出す。
 梓乃の事は一度視界から外し、菅間先生に焦点を定めつつ歩み寄る。
 隣に並び立っても、梓乃はじっと俯いたままだった。
 その事に、どこか安心を覚えている僕がいた。

「遅いぞ」と、菅間先生が重々しく喉を震わせる。
「すいません。途中、同学年の女の子に逆ナンされまして」

 あくまで自然体を装う。さっきの女子との会話は、そういった意味ではいい準備運動になっていたのかもしれない。
 菅間先生は片眉を吊り上げ、訝しげに僕を見上げる。

「逆ナン? ……お前にか?」
「驚きでしょう?」
「とんだ物好きがいたものだな」ごほん、と菅間先生がそこで咳払いをする。「軽口はここまでにして、だ。まず、そこの桒崎によると屋上のドアノブをお前が壊したそうだが、それは本当か?」
「はい、本当です」

 そんな調子で事務的な質疑応答が始まった。
 当たり障りない確認事項がいくつか続き、想定よりも深刻な雰囲気はない。備品の弁償に関しても、これまでの寄木の仕事の手伝いで得た報酬ぶんで十分に支払える額に収まっていた。

「別に大事にはならんよ、このくらいでは」

 とは、紛れもなく菅間先生の言。
 問題はむしろ飛び降りの件だったらしいのだけど、僕が目撃されたのと同時にさっさと地上に降下したものだから、幸いにも動画に残すことができた生徒は一人もいなくて、ひとまず外部へ拡散されずに済んだとのことだ。

「悪運が強くて助かったな。もし動画がひとつでも撮られていたら、お前は今頃世間の晒し者になっていたんだから」

 軽率な行動は身を滅ぼすというけど、今回の場合、それは紙一重で躱わせたみたいだ。しかし、実感の方はまるで追いついていなかった。
 最後に菅間先生から四〇〇字の原稿用紙を二枚ほど手渡される。反省文の提出期限は明日の放課後までに。

「話はこれでおしまいだ。帰ってよろしい」

 そうして菅間先生は、帰り支度の遅い生徒を促すように尻上がりで語気を強めた。僕はそれに便乗する形で職員室を早々に退出した。振り返ることは決してしない。きっと梓乃が正気を取り戻した頃には、僕の姿なんて見失っていたことだろう。
 
     ◇
 
 翌日。昼休みを迎え、なんとなく校舎を一周せずに、僕はいつもの場所に直接向かうことにした。
 扉の手前には立ち入り禁止を示すカラーコーンが両端に設置され、コーンバーで簡易的に行手を遮られていた。しかし階段までは封鎖されていなかったので、屯する分には別段困りそうになかった。
 今日は僕の一番乗り。初めての快挙だった。
 ちょうど僕の目線の先には横に細長い窓がある。そこから日が光線丈に差し込み、粉雪のような埃がぱらぱらと舞っていた。
 そうやって時間を潰していると人影が現れ、僕は相手が振り返らないうちに片手を上げてみせた。

「やあ」
「……よう」

 左目を覆い隠すように前髪を伸ばした男子生徒。手には弁当箱を入れた包みを下げている。
 陸ノ内は以前と変わらず、僕の相手をしてくれるようだ。
 その時、どちらともなく、ほっと息をついていたように思う。
 陸ノ内が僕に背を向けて、少し離れた位置に陣取る。それ以上のやり取りはなかった。しかし、その陸ノ内の背中が、雄弁に昨日の出来事について問いかけているように感じられるのだった。

「今まで何も見えない暗闇を生きてきたとする」僕自身の声が、静かに骨の奥を通る。「光を必要とせず、暗闇の中を必死に目を凝らして、日々をやり過ごしてきた。するとある時、目の前に一本の光の筋が差した。最初、それはとても弱く感じられる。冷たくも温かくもない。でも、実際はそうじゃなかった。それはあくまで切れ端に過ぎず、出元を探ろうと顔を上げた途端、そのあまりの眩しさに一瞬目が焼かれてしまう。温もりに触れかけてしまう。そうして、最初はそんな光なんて必要としていなかったのに、いつしか、どうしてもそれに手を伸ばさずにはいられなくなるんだ」
「…………」
「───陸ノ内。もしその状態に置かれたとき、君ならどうする?」

 陸ノ内は口を閉ざしたままだったけど、しばらくして、ぼそりと呟いた。彼自身、自分の答えに自信が持てなかったのだろう。

「手を伸ばしてしまうんじゃないか、誰だって」
「それで、誰かを不幸にしてしまうかもしれないとしても?」
「……ああ」

 それでも、きごちなくはありながら頷いてみせたその答えに、僕は胸の内に確かな手応えを感じ取った。口は軽やかだった。

「いわゆる相貌失認。軽度ではあるんだけどね、僕は他人の顔をよく覚えておけない。振り返った端から忘れてしまうんだ」
「でも、俺のことは──って、ああ、いや、そうか」

 陸ノ内が自分の伸ばした方の前髪を弄る。
 僕は頷いた。

「実のところ、判別がつきやすくて助かってる。でも、高校に入ってからは例外ができてしまった」
「……それが、昨日の?」
「うん。入学式での衝撃は今でも鮮明に覚えてる。そのこと自体に、まだ戸惑いがあるくらいだよ。なにしろ初めての経験だったからね。他人の顔をあんなにもはっきりと捉えることができたのは」

 そして、その相手は幼い頃から夢の中で過ごしてきた友人でもあった。
 そればかりは、さしもの陸ノ内にも打ち明けられない。とても信じてもらえないだろう。

「───つまり、お前は桒崎に惚れたのか?」
「そう、それはもうコテンパンに打ちのめされた。だから身の振る舞いに困ってるところなんだよ」

 そこまで話したところで、陸ノ内が大きくため息をついた。

「ぜんぶ恋の相談ってわけだ。……いっそ清々しいくらいに明け透けだな。恥ずかしいとか思わねぇの?」
「どこに恥じる要素があるのさ?」

 それにこれをただ恋と呼ぶには、僕の場合、余分な要素に塗れ過ぎていた。
 問題は依然として塵の山に積まれたまま。陸ノ内のほうはすっかり黙りこくってしまい、いよいよもって、完全に呆れられたようだった。その後は沈黙が続いたものの、時折彼の持つ箸が弁当の縁や底を叩き、微かにこだましていた。
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