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第2章 艶のある影を踏んで
1-4 弥月視点
しおりを挟む入学式当日。
その日は僕にとって、最悪の運命の日となった。
◇
僕はバスの振動に耳を取られながら、高校のある方角を一瞥した。
車窓に射し込む陽光は微睡みたくなるほどに暖かく、まるでヒーターのように一定の熱を膝元に送っている。しかし間が悪ければ向こうと鉢合わせる可能性があるんで、うっかり眠ってしまわないよう、瞬きを意識的に繰り返した。
入学式を無事に終え、僕らは帰路に着いている途中だった。
ぴょこぴょこと前後左右に揺れる髪束を横目に、
「君を見てると心底安心するよ、僕は」
何気なくそう呟いてみると、思った以上の反応が返ってきた。隣に座る高校の制服姿がまるで似合わない女の子が、僕を尻目に凄む。
「……急に何?」と。悍ましいものでも見るような目だ。
「他意はないんだ。なにぶん、さっきは衝撃的なモノを目撃してきたばかりだからさ」
会う人会う人が小学生と誤解する、僕の一つ上の先輩である少女──碧菜がしばらく黙り込むと、
「何もなかったと思うけど」
「そりゃね」
さっきまでの入学式の様子や教室での態度だったりを、彼女なりに振り返っていたのだろうけど、碧菜の視点ではわかりっこない。これは至って個人的な感慨、その域を出ないものだ。
そして、僕にまったく答える気がないと見るや否や。
「バカみたい」
と、碧菜は不機嫌さを露わに鼻を鳴らした。
◇
桒崎梓乃。
僕の幼馴染。今の両親に引き取られる前からの腐れ縁。
しかし他の人たちの呼ぶ関係性とは異なり、僕らは長い間、同じ空間で言葉を交わし合いながらも互いに、現実の姿を知らなかった。
そのこと自体、今時珍しくはないのかもしれない。ネット上の付き合いで向こうの顔はよく知らないけど仲が良いみたいな話を、どこかで耳に挟んだ事がある。でも、僕らの場合はインターネットといった情報の構築と空間の広がりが同時的に起こり、他人の通信が混沌と交錯する場所での出来事ではなく、そこはもっと静かで、もっと密接で、声も顔も明瞭だった。夢の中の出来事だった。
誰かが聞けば荒唐無稽だと笑うに違いない。
夢の中の関係性なんて、まるで現実味がないと。
泡沫に消えるはずの妄想を尤もらしく語る子供だと。
それでも、僕に不安はなかった。
梓乃との関係性が現実かどうかなんて問題にもなっていなかった。
しかし、向こうは案外そうでもなかったらしい。
以前、彼女とこんな約束をした。
「一度、現実で会ってみたい──」
その過程で一悶着あったけど、最終的に僕が折れることになった。
入学式。体育館に整列する黒い球体と服を着たマネキン。顔も名前もろくに知らない同年代のブレザー姿。
その中で今日、僕ははっきりと目にした。
見つけることができた。
キミの姿を。
◇
『あの惨劇から十二年』
地方のワイドショーの音声が、ふと耳に入った。
目を瞑りながらのそれはくっきりと音が輪郭を持って頭のなかの暗闇を踊る。この放送を聞いていると、一年の巡りを感じさせる。
黒い酸性雨が駅前一帯に降り注いだ四月の初旬。その時の僕はまだ施設の中にいたから、詳細のことごとくは人伝てに限る。現実味は薄い。そんなことが昔にあったんだ、というありきたりな感想と、毒にも薬にもならない教訓が耳を素通りしていくだけ。事情が少し異なる僕に限らずとも、同年代はみんなそうかもしれない。
テレビの方では、今は街の復興具合について女性のリポーターが話していた。酸で駄目になった植木や土などの交換、被害を受けた建造物の改修工事の放置問題。そして、心に深い傷を負ったままの人々の様子。側頭部に負った火傷の痕により差別的な目線が避けられない現状や、いつだかに突然の猛雨で同乗者がパニックを起こし、高速道路上で衝突事故を起こしてしまった事例もあったとか。
『自殺者の数は一時期かなり急増してました。未遂による自傷の件数だってもう酷い有様だった。数年後にはなんとか落ち着きを見せ始めた。しかし心の斑とでも言うんでしょうかね、近頃になってまた揺り戻しのように増加の傾向が──』
ぎし、と椅子が軋む音に番組のボリュームが萎み、そこで僕は目を開いた。
「今日の君を見ていると、初めて会った時のことを思い出すよ」
ちょうど一年と呼ぶには月日を重ね過ぎたかもしれないが、と寄木の声が頭上に響く。僕は今、事務所のソファに寝転がっているんで、正確に言えば、いわゆる彼の定位置──事務机の据えられた室内の奥側から聞こえてきた声だ。
天井には五枚羽根のファンが回っている。心なし、午後の薄い影さえも油汚れのように染みつかないよう均されているみたいだった。
寄木の言いたい事をなんとなく察し、僕は首を上向きに捻りながら笑った。
「成長がない?」
いや、と首を横に振る気配。
それから、カタ、カタ、とカップの置く音が静かに鳴った。
「むしろ見違えた。以前の君はもっと、根元からふらついていたからね」
「以前の僕ね」と上の空に復唱し、苦い記憶を呼び起こした。
寄木との出会いは中学二年の冬ごろ。クリスマスの夜まで遡る。
その頃の僕は、なんというか荒れていた。自暴自棄だった。夜な夜な家を抜け出して、上根駅を北に広がる胡乱雑多な市場じみたアーケード街に入り浸っては、毎夜のように不良や浮浪者なんかの喧嘩を見物していた。たまにそこへ混じることもあった。
終業式を迎える前から僕の冬休みはとっくに始まっていた。ほとんど人目を気にすることなく、相手の骨を折って、ナイフで目頭を切られて、腹を思い切り蹴飛ばして──ひとまず満足の行き着くところまで暴力に明け暮れたら、厭に青白かった夜明けとともに汚れたまま自分の部屋に戻って昼間に眠る。そんな自堕落な生活を繰り返していた。
拳を振るうたび、指の骨に衝撃が返る。心臓が震える。地面が軽くなる。景色の円光が遠のく。その快感に病みつきだった。頭ではその罪状を列挙しながらも、まるで宥める術を知らなかった。
当然、一度でも喧嘩をふっかければ行為はエスカレートしていくし、周囲に敵を増やしていく。最初は路傍の石程度の認識しか持たれていなかった僕という存在も、路地をいけば目線を寄せ集めるようになる。つまるところ、僕は深入りし過ぎたのだ。
その夜は、雪が降っていた。
いかに病の影に侵されているとはいえ、前夜祭に街の雰囲気は浮き立っていた。あからさまに、ではない。御膳立ては煌びやかな装飾品の役割。街をゆく人々はただ、寒空に息を凍えさせながら、誰かと過ごすこれからの夜に思いを馳せるだけ。
そのときの僕はというと、澱んだ路地裏の隅で闇夜を眇めていた。
力には人一倍の自負があるつもりだった。けれど、相手にできる数には限りがある。体力が無限に湧く事はない。眼球は二つのみ。手足も二本ずつだけ。そして、この身はひとりきりだった。
足音がした。
ぞろぞろと立ち去っていった嵐のような喧騒の後に、小さな影がこれまた一つ。
「生きてるの、それ?」
年端もいかないような女の子の声。
「これでもね」と、僕は笑い返した。それだけで胸部の骨が軋んだ。
女の子が僕のそばに近寄って容態を確認すると、痛々しそうに吐息をこぼした。
「ひどい痣だらけ。骨もあちこち折れてる」
歩けそう、と女の子に問われ、まだ掛かりそう、と僕は応えた。
灰色の雪がしんしんと路地に伸べていく。
「……君の姿は何度か見かけてた」
「そうなんだ」
「なんで、こんなことしてるの?」
「……人間が喧嘩に没頭する時なんて、周りの声を忘れたい時だ」
「……へんなの」と、不服げな声色。
それが彼女──寄木碧菜との出会いだった。
そして翌日の夜には彼女に連れられ、彼女の義父が営んでいるという探偵事務所に案内されたのだ。
「最初は娘がとうとう家出少年を拾うようにまでなったかと、内心ではかなりひやひやさせられたものだったが」
当時のことを振り返るように寄木が失笑する。
僕には、その時の口振りや態度から余裕のある大人に見えていたのもあり、
「へえ、意外だ」と、相槌を打った。
そこでガチャリ、と事務所のドアが開き、ちょうど話題に上った当事者の一人が着替えを終えて顔を出してきた。こっちも待つことにそろそろ飽きてきたんで、願ってもないタイミング。
「……なに?」
しかし僕らの話し声が突然止んだことに気分を害したのか、碧菜が声に凄みを利かせた。
僕はたちまち起き上がって、ソファの上であぐらを組んだ。
「いや、碧菜ちゃんが気にすることでもないよ。僕の制服姿を見て、寄木が君の入学当時を思い出していただけだから」
「え、すごい心外」
素朴で棘のある感想をどうも。
「……もう皺だらけになってるし」なんて小言には華麗にスルーを決めておく。
そして僕がソファの足元に脱いで置いた靴を履き、立ち上がると、
「どこかに出掛けるのかい?」
寄木が僕と碧菜、どちらが答えてもいいように問う。
それに碧菜が口を開いた。
「買い物」と一言だけ。
一面として嘘ではないのだけど、言葉足らずには違いなかった。
「いってらっしゃい」義理の両親よりも聞き慣れてしまった寄木のセリフを背にして、僕らは事務所を出る。本当のところ、目的地は決まっていない。一人ではどうしても立ち行かない彼女の華奢な性根に、僕はただ付き合っているだけだった。
晴れ渡った青空の眩しさに比べると、店内は仄暗く感じる。
雨音のように鳴り響く食器の音に、ときおり店員を呼びつける伸びたベル。厨房から運ばれている料理の香りはもはや混ざり合い過ぎて、その店が持つ独特の篭った雰囲気となって漂い、タンポポ色の照明とよく馴染んでいる。
正午をとっくに過ぎ、夕方とも言いにくい午後の二時半というかなり微妙な時間帯といえど、ファミレスには空席よりも人の姿が目立っていた。常連っぽい客や気楽に雑談している学生たち。席を立っていく家族連れのフォーマルな装いもちょくちょく目についた。入学式の帰りに立ち寄ったのだと思われる。
いまの僕らもきっと、そんな有象無象の季節感の内に溶け込んで、傍目には区別もつけられないだろう。
料理が運ばれてくるのを待つ隙間に僕が作業を進めていると、テーブルに頬杖をついた碧菜がむすっと言った。
「……なに書いてるの?」
「レポートだよ」
まだ無言の圧をひしひしと感じる。
「妹曰く、夜も外食になるらしくてね。うちの両親も今日は帰ってくる。家では基本的に僕と妹の二人暮らしだからさ、月一の頻度でレポートを提出しなくちゃいけない約束なんだ」
「ふーん。ならいつも忙しいんだ、君のご両親」
「家になかなか帰ってこないことを忙しいと呼ぶならそうだね。一応言っとくけど見せ物じゃないんだ。そんなにジロジロと覗き込まないでくれよ?」
「……それならこんな場所でやるなって話になるじゃん」
「なんでもプライバシーは公共の場でも確保されるべきという論が昔からあってね」
「いい、いい」碧菜が顔を背けながら掌を僕に翳す。
話は一旦そこでおしまい。僕は僕でレポートに今日のとある出来事をどこまで明記しておくべきかどうか、僅かに手の動きが鈍った。
「───なんか、そういう時だけ意地悪だよね、君って」
と、らしくない言葉に、思わず僕は顔を上げた。
「ん、そういう時って?」
「……自覚がないなら、別にいい」
それだと僕が釈然としないままだ。
「僕がいうのもなんだけど、言い逃げはずるいな」
「ほんとにね。でも、これ以上は口にしたくないかも」
もう一度向こうの表情を見つめてみる。ふい、と今度は目を逸らされた。怒っているのかもしれない。しかし生憎と、僕のこれまでの人生で表情から相手の考えを読めた試しなんてなかった。実に不毛だった。
相手の顔色を窺うなんて。それこそ僕らしくもない。
そうこうして、注文した料理が順に運ばれてきた。
まだ書きかけのレポートを通学バッグに仕舞い込む。
食事中は特に会話らしい会話もなく、陶皿とスプーンの擦れる甲高い音がやけに耳に障った。耳が過敏になるあまり、通路を挟んだ隣のテーブル席に座る女子たちの会話までも容赦なく流れ込んできた。
「絵柄が好きで推してたのに、最近この人ぜんぜん投稿してくれなくなったんだよね」
「だれだれ?」
「この人」
「あー……なんだっけ。なんか前、タイムラインに『死んだ』って噂流れてたの見たな」
「うわなに不謹慎すぎるって。さすがに人違いでしょ」
僕以外の人の耳に入れば食欲が減りそうな具合だった。少なくとも僕の対面に座る女の子には効果覿面だっただろう。あるいは、この場にはいないお馴染みの少女にしても。
料理の味にはこれといって思い入れもない僕ではあるけど、今回はいつにも増して味気なかったようにも思う。碧菜はどうだったのだろう。なんとなく、向こうも同じ思いを共有している気がした。
五品ほど注文した料理をあらかた食べ終わると、ふと視線を感じ、すでに食べ終えていた碧菜が僕の顔をしげしげと見つめていた。
「よく食べるよね」
と、苦笑い気味ではあるものの、いつも通りを装ったふうに話すんで、僕もそれに倣った。
「まあね。でも家族と食べるってなったら、こんなには食べられない」
碧菜がくすりと笑った。
「君が誰かに遠慮することなんてあるんだ?」
「なにさ。僕ほど謙虚な人間もこの世の中そうはいないぜ?」
「それは馬鹿っぽい」
調子を取り戻してきたようで、僕の軽口はあえなく一蹴されてしまう。
こうして僕の日常は高校入学という節目を迎えつつも、なんだかんだ変わらず続いてくれるものもあるようだった。飲食店の会計時にはいつも割り勘なんだけど、決まって店員さんに白い目で見られてしまうこともそうであるように。
碧菜と歩き回る街の様子は代わり映えしない。
道行く人々の顔は長閑な陽の光を浴びて白々と薄くなっていた。
これから変わっていくのは、僕の環境といった極めてミクロな風通しに留まる。
心の中の存在でしかなかった幼馴染との対面。
それは、ずっと前から決まっていた事で、今更あとへは退けない。
「……やっぱりどこか変」なんて、ぼそりと呟く声には素知らぬふり。
一足早く訪れる五月病とは、総じてこんな気分なのかもしれない。
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