濫觴のあとかた ~Truth like a lie complex~

九葉ハフリ

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第1章 白醒めた息止まり

3/ 巌貫怜耶は過去を偲ぶ

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 突然、空蝉が鳴き出した。
 久しく耳にしていなかった気のする声。街中の喧騒よりも格段に生命力に溢れた音の揺れにあてられ、怜耶はついと顔を上げた。別に蝉の声くらい、毎年のように耳にしていたはずだ。しかし、駅が徒歩圏内のマンションに住んでいた頃は、意識する事がまったくなかったようにも思えた。

「───ひどく、耳障りな音。なのに」

 胸の内は、眠気を誘うほど穏やかなものだった。

 八月の青々とした灼熱の空。
 大きく膨らんだ雲が繁る梢の向こうに聳えている。

 世俗から離された屋敷の静けさは、懐かしい幼少期の感覚を想起させる。

 たった二年ほどの別離。あるいは、およそ二年にも亘る郷愁の末に、怜耶はようやく自分の居場所へ帰る事が叶った。そんなささやかな幸福に身を預ける一時の感慨は、呼吸の落ち着きように見て取れる。
 内装はずいぶんと色褪せてしまい、ことさら淋しさが募るものの、思いを遂げつつある今となっては、時間の問題に過ぎない。そのためにも“お手伝い”の人員を招き入れてあるのだから。

 手元には、これまで彼女が失くしてきたすべてが収まりつつあった。

 しかし、それでも。
 まだ、未練があるとすれば。

「……梓乃」

 何も告げられないままでいる、たった一人の親友の名を囁く。
 

 怜耶がひとしきり自室の窓辺でぼんやりしていると、今度は玄関のチャイムが鳴った。

「誰かしら」

 来客の予定はない。少し前までなら配達もあり得たが、彼女が引っ越しを本格的に始める前に相手が行方を晦ましてしまい、住所も共有できずじまいだったため、ここに辿り着くことはまずない。

「……また、警察の方だったり、ね」

 そうなれば、今度も丁重に追い返さなければならない。
 彼らがどんなに身を粉にし、この屋敷を叩いたところで、出てくるのは湿気に塗れた埃ばかり。調書には何も記すことなどない。お世話になっていた親戚の事も、とうに事故として処理された頃だろう。
 あれには本当に参った。脱水症状で亡くなっていたなんて、怜耶にはまったくわからない事だったのだから。

「……なら、ここを訪ねてくる理由もないはずよね」

 すると、屋敷を訪ねてきた相手は最初からこの場所を知っている者に限られてくる。怜耶や家族の知人が候補となるだろう。

 もしかして、とそこで一縷の可能性に思い当たり、怜耶はすぐに付き人を呼び寄せ、エントランスに出た。

 急くようにして玄関の扉を押し開ける。
 すると門の外には、怜耶の思い描いた通りの顔触れが立っていた。

 不似合いな黒の日傘の下にすっとした佇まい。彼女の記憶にある姿より大人びているようで、懐く印象は二年前と何も変わらない。少女は驚きに瞳を見開き、その目線は僅かに下を向いている。

 付き人に傘を差してもらいながら、怜耶は来訪者のもとへ向かう。
 錆びついた門の横に立つと、ようやく目線が合った。

「───本当に、帰ってきてたのね」

 と、屋敷を訪ねてきた少女が微かに息を震わせた。
 桒崎くわさき梓乃。二年前までは毎日のように一緒だった怜耶の親友。

「久しぶりね、怜耶。また会えて嬉しい」
「私もよ、梓乃。あなたのほうから会いに来てくれるなんて、夢にも思ってなかった。だから、とても嬉しいわ」

 梓乃の手を優しく取り、怜耶は蕾が花開くように微笑んだ。


 炎天下、それも草木生い茂る門前。折角訪ねてくれた親友を相手にいつまでも立ち話では無粋なので、屋敷のなかへ案内した。
 その時の怜耶の胸に去来したものは──まぼろしの夜、かけがえのない誰かと街へ繰り出すときの高揚と瓜二つだった。
 
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