14 / 36
第1章 白醒めた息止まり
3/ 巌貫怜耶は過去を偲ぶ
しおりを挟む
突然、空蝉が鳴き出した。
久しく耳にしていなかった気のする声。街中の喧騒よりも格段に生命力に溢れた音の揺れにあてられ、怜耶はついと顔を上げた。別に蝉の声くらい、毎年のように耳にしていたはずだ。しかし、駅が徒歩圏内のマンションに住んでいた頃は、意識する事がまったくなかったようにも思えた。
「───ひどく、耳障りな音。なのに」
胸の内は、眠気を誘うほど穏やかなものだった。
八月の青々とした灼熱の空。
大きく膨らんだ雲が繁る梢の向こうに聳えている。
世俗から離された屋敷の静けさは、懐かしい幼少期の感覚を想起させる。
たった二年ほどの別離。あるいは、およそ二年にも亘る郷愁の末に、怜耶はようやく自分の居場所へ帰る事が叶った。そんなささやかな幸福に身を預ける一時の感慨は、呼吸の落ち着きように見て取れる。
内装はずいぶんと色褪せてしまい、ことさら淋しさが募るものの、思いを遂げつつある今となっては、時間の問題に過ぎない。そのためにも“お手伝い”の人員を招き入れてあるのだから。
手元には、これまで彼女が失くしてきたすべてが収まりつつあった。
しかし、それでも。
まだ、未練があるとすれば。
「……梓乃」
何も告げられないままでいる、たった一人の親友の名を囁く。
怜耶がひとしきり自室の窓辺でぼんやりしていると、今度は玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら」
来客の予定はない。少し前までなら配達もあり得たが、彼女が引っ越しを本格的に始める前に相手が行方を晦ましてしまい、住所も共有できずじまいだったため、ここに辿り着くことはまずない。
「……また、警察の方だったり、ね」
そうなれば、今度も丁重に追い返さなければならない。
彼らがどんなに身を粉にし、この屋敷を叩いたところで、出てくるのは湿気に塗れた埃ばかり。調書には何も記すことなどない。お世話になっていた親戚の事も、とうに事故として処理された頃だろう。
あれには本当に参った。脱水症状で亡くなっていたなんて、怜耶にはまったくわからない事だったのだから。
「……なら、ここを訪ねてくる理由もないはずよね」
すると、屋敷を訪ねてきた相手は最初からこの場所を知っている者に限られてくる。怜耶や家族の知人が候補となるだろう。
もしかして、とそこで一縷の可能性に思い当たり、怜耶はすぐに付き人を呼び寄せ、エントランスに出た。
急くようにして玄関の扉を押し開ける。
すると門の外には、怜耶の思い描いた通りの顔触れが立っていた。
不似合いな黒の日傘の下にすっとした佇まい。彼女の記憶にある姿より大人びているようで、懐く印象は二年前と何も変わらない。少女は驚きに瞳を見開き、その目線は僅かに下を向いている。
付き人に傘を差してもらいながら、怜耶は来訪者のもとへ向かう。
錆びついた門の横に立つと、ようやく目線が合った。
「───本当に、帰ってきてたのね」
と、屋敷を訪ねてきた少女が微かに息を震わせた。
桒崎梓乃。二年前までは毎日のように一緒だった怜耶の親友。
「久しぶりね、怜耶。また会えて嬉しい」
「私もよ、梓乃。あなたのほうから会いに来てくれるなんて、夢にも思ってなかった。だから、とても嬉しいわ」
梓乃の手を優しく取り、怜耶は蕾が花開くように微笑んだ。
炎天下、それも草木生い茂る門前。折角訪ねてくれた親友を相手にいつまでも立ち話では無粋なので、屋敷のなかへ案内した。
その時の怜耶の胸に去来したものは──まぼろしの夜、かけがえのない誰かと街へ繰り出すときの高揚と瓜二つだった。
久しく耳にしていなかった気のする声。街中の喧騒よりも格段に生命力に溢れた音の揺れにあてられ、怜耶はついと顔を上げた。別に蝉の声くらい、毎年のように耳にしていたはずだ。しかし、駅が徒歩圏内のマンションに住んでいた頃は、意識する事がまったくなかったようにも思えた。
「───ひどく、耳障りな音。なのに」
胸の内は、眠気を誘うほど穏やかなものだった。
八月の青々とした灼熱の空。
大きく膨らんだ雲が繁る梢の向こうに聳えている。
世俗から離された屋敷の静けさは、懐かしい幼少期の感覚を想起させる。
たった二年ほどの別離。あるいは、およそ二年にも亘る郷愁の末に、怜耶はようやく自分の居場所へ帰る事が叶った。そんなささやかな幸福に身を預ける一時の感慨は、呼吸の落ち着きように見て取れる。
内装はずいぶんと色褪せてしまい、ことさら淋しさが募るものの、思いを遂げつつある今となっては、時間の問題に過ぎない。そのためにも“お手伝い”の人員を招き入れてあるのだから。
手元には、これまで彼女が失くしてきたすべてが収まりつつあった。
しかし、それでも。
まだ、未練があるとすれば。
「……梓乃」
何も告げられないままでいる、たった一人の親友の名を囁く。
怜耶がひとしきり自室の窓辺でぼんやりしていると、今度は玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら」
来客の予定はない。少し前までなら配達もあり得たが、彼女が引っ越しを本格的に始める前に相手が行方を晦ましてしまい、住所も共有できずじまいだったため、ここに辿り着くことはまずない。
「……また、警察の方だったり、ね」
そうなれば、今度も丁重に追い返さなければならない。
彼らがどんなに身を粉にし、この屋敷を叩いたところで、出てくるのは湿気に塗れた埃ばかり。調書には何も記すことなどない。お世話になっていた親戚の事も、とうに事故として処理された頃だろう。
あれには本当に参った。脱水症状で亡くなっていたなんて、怜耶にはまったくわからない事だったのだから。
「……なら、ここを訪ねてくる理由もないはずよね」
すると、屋敷を訪ねてきた相手は最初からこの場所を知っている者に限られてくる。怜耶や家族の知人が候補となるだろう。
もしかして、とそこで一縷の可能性に思い当たり、怜耶はすぐに付き人を呼び寄せ、エントランスに出た。
急くようにして玄関の扉を押し開ける。
すると門の外には、怜耶の思い描いた通りの顔触れが立っていた。
不似合いな黒の日傘の下にすっとした佇まい。彼女の記憶にある姿より大人びているようで、懐く印象は二年前と何も変わらない。少女は驚きに瞳を見開き、その目線は僅かに下を向いている。
付き人に傘を差してもらいながら、怜耶は来訪者のもとへ向かう。
錆びついた門の横に立つと、ようやく目線が合った。
「───本当に、帰ってきてたのね」
と、屋敷を訪ねてきた少女が微かに息を震わせた。
桒崎梓乃。二年前までは毎日のように一緒だった怜耶の親友。
「久しぶりね、怜耶。また会えて嬉しい」
「私もよ、梓乃。あなたのほうから会いに来てくれるなんて、夢にも思ってなかった。だから、とても嬉しいわ」
梓乃の手を優しく取り、怜耶は蕾が花開くように微笑んだ。
炎天下、それも草木生い茂る門前。折角訪ねてくれた親友を相手にいつまでも立ち話では無粋なので、屋敷のなかへ案内した。
その時の怜耶の胸に去来したものは──まぼろしの夜、かけがえのない誰かと街へ繰り出すときの高揚と瓜二つだった。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる