濫觴のあとかた ~Truth like a lie complex~

九葉ハフリ

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第1章 白醒めた息止まり

5/ 月の亡い夜に狼は哭く

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 白昼の名残りが密封され、その逃げ場もない深夜。凪いだ闇は地平の縁まで広がり、人通りのない住宅街を寝かしつけている。
 そんな眩いばかりの街灯の下を一陣の黒影が過ぎった。
 漆黒の巨躯が風を切って突き進む。狭い道路を颯爽と駆け抜け、一直線に軒並みを跳び越えていく。軽やかながらも重量感のある姿は、膨大な宇宙空間の光を喰らい尽くす特異点を思わせた。

 それは、獅子の如き体躯を誇る黒い狼だ。

 牙を剥き出しにした獣は、一切の迷いなく、ある地点を目指して直走る。そこに獲物がいるのだと、喉笛を震わせ、瞳に妖しい血色の輝きを滾らせている。まさに、血に飢えた獣だった。
 
    ///
 
 ───今宵が、新月のせいか。
 
「………………」

 ふとした胸騒ぎを覚え、怜耶はベッドから上体を起こす。足を満足に動かすこともできないので、両手を軸に手繰り寄せるようにして腰を浮かし、一分ほど掛けて姿勢を整えた。布の擦れがいつもより耳朶に触った。この二年で慣れたとはいえ、たったこれだけの運動で息が乱れそうになる不自由さに、怜耶は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 隣で穏やかに、すぅ、すぅ、と寝息を立てている梓乃の顔が目に入る。頬を指の甲で掬うように撫でてみる。濡れた石膏のように滑らかな手触り。癖になるようなささやかな弾力を返した。

 そして、余った手で自らの頬に触れた。若干窪んでいる。なにより乾いてしまっている。鏡を見ていないが、隈も酷いものだろう。

「……まるで、魔女みたい」

 自嘲だった。
 いっそのこと、嫉妬に狂えれば気も楽だったろうに。
 けれど違った。怜耶にはどうしても、隣で眠る少女に醜い感情を晒せなかった。嫉妬なんて抱こうとする気さえ起きなかった。

「私は、あなたを手放したくなかった。ずっと一緒にいたいって、子どもみたいに泣きじゃくりたかった。胸が苦しくなるあまり、俯くことしかできなかったの。……呼吸だけが、私の精一杯だった」

 そこまで弱音を零したところで、怜耶は顔を背け、咳を吐いた。
 最初は軽かった痞えが、だんだんと激しい痛みに変わる。
 肺が鉄の重さを感じさせるほどに収縮し、呼吸さえも数秒ほど止まったとき、ようやく症状が和らいだ。

 凍えたように白く染まった吐息が、閉じ切られた暗闇に溶ける。

 血に飢えた狼の息遣いが遠く、心臓にこだまする。
 もうじき、番犬に扮した死神がこの屋敷を訪ねてくる。
 そろそろ出迎えの準備をしなければならない。
 最後に、名残惜しそうにして、怜耶は再び眠れる少女の頬に触れた。

「……今夜は、誰が見る夢なのでしょうね」

 微笑みは、ささやきの影にふっと消えた。
 

 屋敷のエントランスは、昏く深い泥沼のような闇に浸かっていた。
 ここは月光の有無に関わらず、毎夜毎夜、暗黒に没する。ただ玄関扉の曇り硝子に突き刺さる街灯の指先が、柳の下に佇む幽霊のように細く朧げな像を立て込めている。周囲の闇は蛆のように蠢いていながら、そこだけがぽっかりと孔を透かし、時が静止している。

 夏虫たちのさざめきに耳を傾ける。いつもよりも一段と騒々しく、聴いているだけで土臭い湿気が肌に滲むようだ。

 そんな統率の取れていない寄せ集めの演奏に紛れて、布の擦れやよろめいた足音、覚束ない息遣いを立てる“使用人”たちが闇の隅に控えている。エントランスの中央には怜耶と付き人の役をあてがわれた彼女の義理の姉が佇み、彼女たちを取り囲むようにして整列する十数人もの男女の群れは、明らかに異様な光景だった。

 彼らは意思なき存在。瞳を開けながらに夢を彷徨う亡霊だ。支配者たる彼女の命令なしには、指一本動かす事も許されない。
 本来は彼女の身の回りの世話や屋敷の清掃の為に連れてこられた近隣住民たち。幻覚に侵され、思考能力を削がれた彼らでは、個体としての戦闘能力に乏しい。これから屋敷を襲いに来る──怜耶にとって外敵と呼ぶほかにない存在を迎え撃つには、頼りないと言わざるを得なかった。

「……ま、気休めにしかならないでしょうね」

 もともと期待はしていない。向こうの目的がどちらにあれ、自らの本懐を遂げられるよう、出来る限りの手を打つだけだった。
 埃の臭いが、鼻腔に障る。
 怜耶は天井に吊り下がったシャンデリアを見上げ、目蓋を力なく緩めた。
 
 そのとき。
 屋敷全体がみしみしと軋み……。
 けたたましい轟きを上げ、木造の扉が外壁諸共勢いよく破られた。
 
 一瞬、水を打ったような衝撃が少女の鼓膜を襲った。
 ぬるま湯が一陣の風となって頬を吹きつける。
 破片が周囲に弾け散る。
 黒狼が、大きく吼える。
 飛沫のように。
 奔流のように。
 殺意。
 高揚。
 震え。

「───ああ」

 ……寒気のするような、夥しい身体の震え。
 胸の高鳴りとは別の、臓腑の芯をざわつかせる感触。
 怜耶は思わず、自らの肩を抱いた。

「これが、恐怖?」首を振る。「……いいえ、きっと違う。あの時は凍えそうだった。声にもならなかったもの」

 逆光のさなかに威圧感を醸す巨躯を視る。
 木屑を踏み鳴らし、黒狼がぐるると唸り声を上げる。
 アレは“ホンモノ”だと、脳髄に走る甘い痺れが怜耶に囁きかけた。

「肌でわかる。───あなたが、噂の弥月くんね。ふふ、どうしてかしら。あなたとは、まるで初対面の気がしない」

 そうして、怜耶は車椅子の上で姿勢を直し、上品な所作で会釈した。

「お昼はどうも。あのときのとても熱いお誘いからずっと、あなたを待ち焦がれていたの。話してみたいことが山ほどあったのだけど、その姿では叶いそうにないわね。残念……でも」

 殺意を滾らせた深紅の瞳を真正面から受け止める。
 衰えることのない感情の奔流に晒され、怜耶は久方振りに、深く息を吸った。

「中途半端な殺し文句は許さないつもりでいたのに──それほどの殺意を研ぎ澄ましてきたあなたなら、あの男のように、無為な過ちは犯さないでしょう。どうやら、無用な心配だったみたい」

 しかし、同時に怜耶は圧倒されるばかりだった。黒狼より滲み、周囲の空間をも捻じ曲げかねないほどの殺意の濁流さえも、抑えられた一部が漏出しているに過ぎないというのだから。

 黒狼は即座に襲いかかってこようとはしない。まったく理性を欠いているわけではないようだ。けれど、それも時間の問題。かろうじて残った蜘蛛の糸だ。滲み出る彼自身の熱でいずれ溶かしてしまう。
 彼の目的はあくまでも、桒崎梓乃の奪還。
 僅かでも気を抜けば、相手をみすみす逃してしまうだろう。
 おそらく、これ以上の機会はもはや望めない。
 それだけは避けたかった。
 ……胸のあたりにちくりと痛みが走った。
 不可解な違和感。
 もしかしたら、破片が突き刺さっているのかもしれない。
 この期に及んで構うものかと、怜耶はしかと敵を見据えた。

「さあ──遊んであげる。思う存分、私を殺し尽くしてみなさい」

 退廃と刹那が渦巻く欲望の衝突は、ここに火蓋が切られた。
 
     ◇
 
 白い霧が紅い絨毯の上を滑る。
 怜耶の吐息が、屋敷のエントランス全体を覆い尽さんと、白い靄となって広がっていく。
 静かに、けれど着実に、彼女の意思が舞台そのものを呑み込んでいく。
 獣が鼻を鳴らした。
 視線の向かう先は玄関側から見て左。三つ並ぶ扉のうちの中央。そこは元応接間。桒崎梓乃が微睡む、怜耶の寝室だった。
 大きく踏み込みを入れる直前、一振りの刃物が首元に振り下ろされた。黒狼は咄嗟に床を蹴り上げ、横へ跳び退く。力任せの乱暴な斬撃が歪な弧を描いた。薄く白に染まる宙には、掠め取られた黒狼の毛が、さぁっと微風に流れた。

 血色の悪い顔貌。だらしなく開いた口許には涎が垂れ、街灯の光にてらてらと濡れていた。先ほどまで黒狼が立っていた位置には、包丁を握り、朧げな目つきの男が忽然といた。海底に沈んだような黒く濁った眼差し。それでも、黒狼をはっきりと睨みつけている。

 一切の気配もなく──闇のなかより、突如として銀の切先が振るわれた。
 それこそ突然、死人が息を吹き返したように、その男はいま目を覚ましたのだ。
 そのせいで黒狼は僅かに遅れを取ってしまった。

「──────!」

 靄の侵食に呼応して、闇に潜む者たちの息遣いが次第に乱れ出す。
 ゆらり、ゆらり、と刃物を携えた“使用人”たちが稼働する。
 じりじりと迫る包囲網を前に、黒狼は弾かれたように駆け出した。だん、と背後で老朽化した床の抜け落ちる音がこだまする。怜耶の支配下にある亡霊どもの隙間を縫い、胴や背を掠めた切り傷に構わず、一目散に中央の扉まで駆け抜ける。

 放たれた矢の如き疾走は、しかし後一歩のところで阻まれてしまう。

 それは、とても小さな破裂だった。
 引き延ばされた火花のような鋭い軌跡。
 弾き出された九ミリの弾丸は亜音速に達し、黒狼の足元に着弾した。
 黒狼が軌跡の微かな残光を遡る。
 エントランスの片隅を僅か上方へ振り向くと、そこはかね折れ階段の踊り場。手摺の陰に黒狼を狙い澄ます人影を見つける。
 交番勤務だろうか。警官の格好をしている。
 彼の身に纏う雰囲気は、他の数だけを揃えた下僕どもとは明らかに質が違った。正確性を保持した射撃と、まったく揺れる様子のない構え。けれど、あれは正気でもない。黒狼に差し向けられた敵意は、黒狼とはまた別の何かを捉えているようだ。

 そうこうしている間に包囲が再び迫りつつあった。
 まるでゾンビのようにわらわらと、緩慢なようで忙しない。

「……なにか変だと思えば」

 隙間の空いた人垣の奥で、怜耶がくすりと微笑む。

「───弥月くん。もしかしてあなた、まだ一度も、人を殺したことがないのね?」

 黒狼が姿勢を低め、牙を剥き出しに顔の白い少女を睨め付ける。
 すると、怜耶は口許に人差し指の甲をあてがい、咲った。

「それはあの子を思って? それともあなた自身の意地?」

 舞踏会で相手を誘うように、怜耶の指先がすっと宙に浮かぶ。

「ねえ、何を堪える必要があるの? ここには、倫理的に間違っているとか、同意と矯正を履き違えている人たちもいない。あなたは正しい。今にも死にたいと乞う相手がいて、あなたはそれに応えようとしているだけ。それって、至極立派な対話でしょう?」

 黒狼と少女の間に、立ちはだかる壁は一つとしてない。
 彼女の命令を受け、従順なる夢遊病者たちが道を開けている。
 あまりにも見え透いた挑発。
 自分の首を無防備に曝け出す振る舞い。
 相手の心を掌握したがる、生来の気質の表れ。
 黒狼は砕けんばかりに牙を噛み、息苦しそうに涎を垂らした。
 みし、と床が異音を立てる。
 脚の踏ん張る端々から、絨毯の皺が逆立ち、木造の床に亀裂が広がっていく。
 
 心臓が、荒れ狂って止まない─────
 
 途端、怜耶が胸を抑え、激しく咳き込み出した。
 彼女の異能はどうしても肺に負担を掛ける。屋敷の清掃に身の回りの世話、梓乃への誤魔化しと、もともと平時から異能の濫用は行われていた。そこへ黒狼との戦闘に加え、今回は一度に支配を及ぼす範囲も濃度も彼女の容量を逸脱していた。必然的な体力の消耗。このまま無茶な異能の行使を続ければ、いずれ呼吸不全に陥り、彼女はそこで命を落とすだろう。
 しかし、それを隙と見るには、黒狼のほうも理性に限界をきたし過ぎていた。
 怜耶はいったん呼吸を繕い、気丈な態度をなおも崩さず、黒狼を目で射抜く。

「……それでも、あなたが強情を貫くつもりなら──」

 かちり、と遠くで撃鉄が下りる。

「ここで、死になさい……っ。私たちを引き裂こうというのだもの。当然の、報いよ」

 もはや互いが、病的なまでに限界を迎えかけていた。
 ぐら、と不意に黒狼の頭が揺れる。
 いまになって、少女の吐息どくが全身を回り始めた。

 視界が歪む。
 二つの像が重なる。

 冷ややかな微笑を湛えた少女が、しっかりと両の足で佇んでいる。美しく均整の取れた顔立ち。艶やかに背中まで伸びた黒い髪と瑞々しく張った白い肌。紺色のワンピースは、宵闇にぼんやりと浮かび上がる少女の立ち姿に触れ難い神秘性を纏わせていた。

 けれど、それは幻覚だ。

 理想化された幻像の下では、車椅子の少女が額に脂汗を滲ませ喘いでいる。枯れ枝のように衰えた四肢。乾燥した肌に痩せこけた頬。目元には隈が色濃く刻まれ、細められた目つきは黒く濁った色をしていた。

 ……とても、見ていられる姿ではなかった。
 切願するような息継ぎ。胸元で萎められた握り拳は、それでも藁にも縋る気持ちから必死に目を背けているようだ。

 視線が交差する。
 
 その瞬間。
 心臓の鼓動さえも、寸分違わず重なり合った。
 
 強靭な四肢が鎖から解き放たれたように跳ねる。
 黒狼が荒く息を吐き散らす。
 それは、言葉にもならない悲鳴のようでさえあった。
 吼えるように。
 哭くように。
 黒狼の巨大な顎が、怜耶の細白い首元に迫る。
 
 ああ───どれだけ、この瞬間を待ち焦がれていたか。
 
 須臾に迫り来る死の影。
 それを前に少女は眼を瞑り、差し出すようにして首を傾け──。
 
 がきん。
 巌貫怜耶は最後に、断頭の刃が落ちる、瑞々しい音を聴いた。
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